経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
※この文章を読んでくださった誰かを、傷つけたり不快にしたりするような表現が含まれていたら、ごめんなさい。
サイトのつらチェックをしてみました。
結果、カテゴリー4の点数が顕著に高くなりました。個人的に、結果の詳細を読み進めた先にあった、「自分の心の傷にどれだけ振り回されているか」「解放されるイメージも元気もないから死にたい(殺されたい)」という2つの部分が、妙に腑に落ちました。
私は普段、自分専用ノートにひたすら考えたことを書いています。他の方の経験談を読ませていただいて、ふと、自分もここで書いてみたくなったため、文字を打ち始めました。
生きづらいな、と思います。ぼんやりずっと、慢性的にそう感じている気がします。けれど、「そう思う理由は?」と聞かれたら、言葉につまってしまいます。「なんでって、生きづらいから、生きづらいんですよ」って返したくなるような。もしかしたら、攻撃的な口調にすらなるかもしれません。
でも上記の応答は妄想にすぎなくて、実際に聞かれたら、笑って誤魔化すんです。平気なフリして、「よく考えたら大したことなかったです」「なんか大丈夫になった気がします」って言って、うやむやにする。
去年、大学のカウンセリングを受けた時がそうでした。カウンセリングが終わって帰宅したあと、「あぁ、なんだ。プロの人だって見抜けないんだな」と、ひどく自分勝手な感想を抱いたことを覚えています。結局、たった2回で終わりました。一応、勇気出して予約してみて、初めて自分のトラウマを一から全部、他人に話せたんですけどね。
終わり際、「もう大丈夫」ってことにしたら、「寂しくなるな」みたいなこと言われて(今考えると、ここに何か特別な意図が含まれていた可能性もありますが)、「そんなふうに思ってもらえて嬉しい」っていう素直な気持ちと、「この人は一体、私をどのように認識していたのだろう」っていう毒々しい気持ちが残りました。
今でも鮮明に覚えているのは、後者の気持ちのほうです。たぶん、「大人しくて真面目で考えすぎな良い子」って思われてたのでしょうか。そして、私は無意識にそれを感じ取って、猫を被ったのかもしれません。だってなんか、騙し討ちみたいじゃないですか。人畜無害だとみなした人間が、急に感情丸出しで取り乱すなんて。これも一種の見下しなのだとしたら、やっぱり私は、自分のことを、どうしようもない人間だなと思います。
トラウマという単語を使いましたが、本当に何か診断を受けたわけではないです。
ただ、インターネット上の情報を読んで、現実感のなさやら、対人関係の困難さやら(主に人間不信)、途方もない自己肯定感の低さやら、そういうのに、勝手に該当している気になるだけ。私にとっては当たり前すぎるそれらが、一般的には「治すべきもの」だと見なされるなら、なんというか、虚しくて悲しいです。でも一方で、それらと無縁で「普通」の人生を送れている人たちが羨ましいのも、また事実です。
現実問題、私には就活が上手くできません。このまま進路未定で卒業するかもなあ、とうっすら思ってます。
前に魔が差して、同級生だった人のフルネームを検索したら、ものすごく大きな社会的名誉を得ていて、乾いた笑いが出ました。嘘です。笑えませんでした。胸が苦しくなった。自分の時間を止めた人が、(たとえ表面上だけであっても)順調な人生を送ってるって知るの、かなりしんどいですよ。とても幸せそうでした。私はスタートラインにすら立てなかったのにな。昔も、今も。
トラウマというか、あまり意識したくない思い出は、学校にも家にもあります。家の方は、広義のアダルトチルドレンだと考えています。学校の方は、簡単に言えば例のひらがな3文字なんですけど、正直、あの3文字で片付けられたくないです。
長い長い人格否定の日々でした。小学校、中学校、高校、すべて12年間。エピソードは腐るほどあります。
でも話したところで、どうなるんでしょう。同情した誰かがタイムマシーンを開発して、当時の私の味方をしてくれて、歴史を変えてくれるのでしょうか。馬鹿げた妄想ですね。けどこれが本心です。「あなたはおかしくなかった」「大変だったね」と言われても、どういう顔をすればいい?わからないです。わかりたくもないです。
大学に入ってようやく解放されたと思いました。やっと対等な人間として接してもらえるようになった、と感じました。
だけど、最後の最後で就職活動に躓きました。自己分析の定番である「自分史を振り返りましょう」ってやつ、お手本を見てビックリしました。あまりにも、自分の人生と違いすぎたから。私が、自分は無価値で生きてるだけで迷惑だって感じながらも必死に生き延びてきた期間、究極の選択ばかりして記憶も朧げになりながら耐えてた期間は、本当は、「普通」の人にとっては、こんなに充実したものだったのか?って。じゃあ、もう詰んでるじゃんって思いました。何を悲しめばいいのか、何を怒ればいいのか、わかりません。
「普通」はカギカッコ付きの普通だって知ってます。でもだからといって、なんだというんでしょう。結局、社会が求めるのは、堂々と認めてくれるのは、「『普通』」なのでしょう?
本当にカギカッコを使ってる人って、どれだけいるんでしょうか。私には、多数派の人たちは、二重カギカッコの普通を指してるように感じます。変なこと言ってますね、ごめんなさい。
生きづらいです。だからといって、自分の手で自分を終わらせる予定もありません。怖いから。私は一体、どうなるんでしょうね。わからないです。なんかさっきから、わからないことだらけですね。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。非常に暑い日が続きますので、どうか、お身体にはお気をつけて。
感想1
こんにちは。経験談の投稿、ありがとうございます。
冒頭を読んで、私も久しぶり(2年ぶりくらい)につらチェックをやってみました。今までにたぶん3回ほど受けたことがあり、初回と今回は「人生ハードモード(ギリギリタイプ)」、2回目だけは「マイペースモード(ふわふわタイプ)」だったと記憶しています。この2つは願望や欲求(理想)の高さによって分かれるので、私の中で人生に対するハードルが日々変化しているのかもしれません。なんとなく、心当たりがあります。
自分の人生を振り返ってみると、はたしてそんなにハードだっただろうか?とまず疑ってしまう自分がいます。客観的に見ても、わかりやすく何か大きな出来事があったわけではないと思います。ただ、学校の休み時間のある友人との1コマや、家のリビングで感じ取っていた不穏な空気は今でも鮮明に覚えていて、その時に自分の中にどんな価値観が植え付けられたのか、はっきりと認識しています。でもいざ1つ1つを取り出してみると「これ」といったことはなく、カウンセリングを受けたタイミングで話してみても「細かい自己分析と言語化が出来る人」と言ってもらえるけど自分の傷が癒されるわけではなかったです。
出来事と心の傷の関連性は、「わからない」よりは「言葉にできる(わかる)」ほうがいい(自己分析につながったり、人と一緒に考える材料にできたりする)のかもしれないと思いつつ、「関連性が明らかになるだけで対処が出来るようなものなら、痛み止めのように薬が作れるじゃないか」とも思います。
自分に起きたこと、感じたこと、考えたことを話してみても楽になれないことにこそ、「生きづらい」という感覚が詰まっているんじゃないかと個人的には感じています。人に話す内容は「状況説明」や「感情の記録」としては事実かもしれないけれど、自分にとっての重要さや切実さはどちらかというと、その日を生き延びる事や、自分で自分を罰することに耐える心のほうだと思うのです。その距離が埋まらないことが生きづらさの1つなのかなあと(投稿者さんがというより、自分自身を振り返ってそう思う感じなのですが)。後者を言葉にすることができたら、何かが変わるのでしょうか…。少なくとも目に見えるもの、言葉としてその場に出てくるものに終始せず、にじみ出るものを探していこうとすると、(たとえばカウンセリングの)回数や時間の長さが影響してくるのかな?と考えたり。しかしそもそも「他人に自分のことを話す」のが負担だったりするのですが(自分を抑えるのが癖づいていると殊更…投稿者さんはどうでしょうか)。
私は就活の時期に「自分史」らしきものを振り返ってみて、一応いろいろとエピソードを出して自分の意欲っぽいものを言語化して内定を取りました。が、入社して3か月くらいで行けなくなり、そのまま退職しました。よくよく考えてみれば「自分史」なんてたいそうな名前を付けられるのはあくまで「自分が自分の人生の主役」という前提がある人だけで、常に周りを見て折り合いや息が出来る場所を探してきた人のことは含まれていないのかもと思いました。その前提が自分にはないから、どうりで上手くいかないわけだ…と。絶望しつつ、時間をかけて開き直りつつ、今は「自分が主役」と思えない自分のままでどうしたら生きられるのか、どうしたら少しでも息が出来るか、模索し続けてかれこれ社会人7年目という感じです。
私自身は「普通」にも「多数派」にも含まれていないと思っていますが、きっとある人から見れば「普通」に生きている人なのだろうなと思います。そこがはっきりと二分できるわけではないのに、大なり小なりそれぞれの苦しさがあるはずなのに、どうして互いに振りかざしあってしまうのでしょう。誰の為の「普通」なのか、「就職」なのか、「人生」なのか、ずっとわからないままです。
ほとんどつらつらと自分の思いを書いてしまいました。あなたが書いてくれたものへの応答になっているか自信は無いのですが…それぞれの場所で、「なんかずっと生きづらい」と思っている私の心が勝手ながらにすこし救われたことが、伝わったらうれしいです。
お返事
経験談の感想を届けてくださり、ありがとうございました。自分の拙い経験談を読んでいただいて、感想を綴っていただけたことが、とても嬉しいです。ありがとうございます。以下、感想への返信になりますが、私は対人関係が苦手なので、何か致命的に失礼なことを言ってしまっていたら、申し訳ないです。保険をかけてばかりですみません。
【感想1を書いてくださった方へ】
こんにちは、初めまして。こちらこそ、拙い経験談に対し、とても丁寧な感想を書いていただけて、嬉しいです。ありがとうございます。
出来事と心の傷について、後者の「関連性が明らかになるだけで対処が出来るようなものなら、痛み止めのように薬が作れるじゃないか」という部分に、すごく惹かれました。たぶん、私が感じたものと近いと思います。「自分に起きたこと、感じたこと、考えたことを話してみても楽になれないことにこそ、『生きづらい』という感覚が詰まっているんじゃないか」という部分にも、共感しました。
私も感想者さん(呼び方が適切でなければすみません)と同じく、他人に自分のことを話すのが負担です。その背景には、学生時代の大半で植え付けられた、「私は無価値な人間だから、自分語りを聞いてもらう資格はない」という意識と、自分に対しての「私は(特に口頭での)言語化が下手だから、きっと本心とズレたことを言うに違いない」という気持ちや、他者に対しての「話したところで、わかってもらえる保証なんでどこにもない」という気持ちがあるのかな、と思います。文章を書くのは好きですが、それが他者に向けたものであると、やっぱりなんか、引っかかりがあります(自分の経験談も薄目で読み返しました……)。
「内定」「入社」「社会人」という単語が、正直、今の私には輝いて見えました。でもたぶん、客観視したら、それは適切な感情ではないのだと思います。すみません。
自分の人生の主役が自分ではない、という感覚、私にもある気がします。あくまで私の場合ですが、その感覚を「脇役として人を支えるほうが好き」などの言葉に置き換えられると、違和感を覚えます。なんというか、そんなに優しくて美しいものなのかな、みたいな気持ちになります。そういう気持ちも相まって、余計に「自分史」に苦手意識があるのかもしれません。
先ほど、特定の単語に脈絡なくプラスの感情を抱いた時点で、恐らく私は、自分の「普通」を振りかざしかけた(もしくは振りかざした)のだと思います。「普通」って、なんか本当に、よくわからないです。私は自分のことを、「普通」という単語の、加害者にも被害者にもなる人間なのだと、考えています。だから、「普通の人で羨ましい」って誰かに思う自分も、「私は普通じゃないから苦しい」って思う自分も、どっちもどっちで、変なだなあって、思います。これは単純に、自己肯定感が低いだけな可能性もあります。
自分の文章を読んでくださり、それに対して、丁寧な感想を書いてくださって、嬉しかったです。タイトルは、私の率直な気持ちを込めたものなので、感想者さんの言葉が、とてもストレートに、とても嬉しかったです。ありがとうございました。
【感想2を書いてくださった方へ】
「目に見える部分だけでは分からない苦しみが誰にでもあり、その人にしか分からない痛みや葛藤がある」という部分が、私がずっと抱えている、コアのようなものと重なり、とても印象的でした。
私は読書が好きなのですが、自分と同じく、生きづらさを抱えているであろう方が書かれた本、特に小説を読むと、どこかホッとします。共感という意味もあるのですが、反対に、「これは私にしかわからない、私だけの苦しみだ」というような表現にも、安堵します。そうなる理由は、自分の生きづらさを無理に単純化させなくていいのだと、勝手に肯定されてる気分になるから、でしょうか。一人称視点で繰り広げられる、矛盾だらけの独りよがりな心情描写も、すごく大好きです。
自分の苦しみを伝えようとしても上手くいかず、理解されなくて諦めるようになった、という部分に、心当たりがあります。
パッと思い出せるだけで、高校のときに2回ほど。よく一緒に居た同級生を慰める流れで、心理的アドバイスを強く求められたので、自分の苦しさを打ち明け、自分なりの防衛手段もセットで話したら、「そりゃ、そんな自分勝手な思考してるなら人生ラクだろうね」みたいなこと言われたのと(久しぶりに思い出そうとしたら、正確なセリフ忘れていました)、あまり信用できない教師に「大丈夫か?」と聞かれても頷いていたら、手を伸ばしてあげたのに掴まれなかったことが不服だったのか、以降、私に対する当たりが強くなった、みたいなのがありました。こんなのを「努力」と言っていいのかもわからないですが、でも、そう言ってもらえるなら、いいなぁと感じました。ありがとうございます。
また機会があれば、その時もまた素直に、経験談を書かせてもらおうと思います。私の拙い文章に、とても真摯に向き合ってくださり、ありがとうございました。
本当に、最近は暑い日ばかりですね。感想者さん(不適切な呼び方でしたらすみません)も、どうかご自愛くださいませ。
感想1
こんにちは。経験談の投稿、ありがとうございます。
冒頭を読んで、私も久しぶり(2年ぶりくらい)につらチェックをやってみました。今までにたぶん3回ほど受けたことがあり、初回と今回は「人生ハードモード(ギリギリタイプ)」、2回目だけは「マイペースモード(ふわふわタイプ)」だったと記憶しています。この2つは願望や欲求(理想)の高さによって分かれるので、私の中で人生に対するハードルが日々変化しているのかもしれません。なんとなく、心当たりがあります。
自分の人生を振り返ってみると、はたしてそんなにハードだっただろうか?とまず疑ってしまう自分がいます。客観的に見ても、わかりやすく何か大きな出来事があったわけではないと思います。ただ、学校の休み時間のある友人との1コマや、家のリビングで感じ取っていた不穏な空気は今でも鮮明に覚えていて、その時に自分の中にどんな価値観が植え付けられたのか、はっきりと認識しています。でもいざ1つ1つを取り出してみると「これ」といったことはなく、カウンセリングを受けたタイミングで話してみても「細かい自己分析と言語化が出来る人」と言ってもらえるけど自分の傷が癒されるわけではなかったです。
出来事と心の傷の関連性は、「わからない」よりは「言葉にできる(わかる)」ほうがいい(自己分析につながったり、人と一緒に考える材料にできたりする)のかもしれないと思いつつ、「関連性が明らかになるだけで対処が出来るようなものなら、痛み止めのように薬が作れるじゃないか」とも思います。
自分に起きたこと、感じたこと、考えたことを話してみても楽になれないことにこそ、「生きづらい」という感覚が詰まっているんじゃないかと個人的には感じています。人に話す内容は「状況説明」や「感情の記録」としては事実かもしれないけれど、自分にとっての重要さや切実さはどちらかというと、その日を生き延びる事や、自分で自分を罰することに耐える心のほうだと思うのです。その距離が埋まらないことが生きづらさの1つなのかなあと(投稿者さんがというより、自分自身を振り返ってそう思う感じなのですが)。後者を言葉にすることができたら、何かが変わるのでしょうか…。少なくとも目に見えるもの、言葉としてその場に出てくるものに終始せず、にじみ出るものを探していこうとすると、(たとえばカウンセリングの)回数や時間の長さが影響してくるのかな?と考えたり。しかしそもそも「他人に自分のことを話す」のが負担だったりするのですが(自分を抑えるのが癖づいていると殊更…投稿者さんはどうでしょうか)。
私は就活の時期に「自分史」らしきものを振り返ってみて、一応いろいろとエピソードを出して自分の意欲っぽいものを言語化して内定を取りました。が、入社して3か月くらいで行けなくなり、そのまま退職しました。よくよく考えてみれば「自分史」なんてたいそうな名前を付けられるのはあくまで「自分が自分の人生の主役」という前提がある人だけで、常に周りを見て折り合いや息が出来る場所を探してきた人のことは含まれていないのかもと思いました。その前提が自分にはないから、どうりで上手くいかないわけだ…と。絶望しつつ、時間をかけて開き直りつつ、今は「自分が主役」と思えない自分のままでどうしたら生きられるのか、どうしたら少しでも息が出来るか、模索し続けてかれこれ社会人7年目という感じです。
私自身は「普通」にも「多数派」にも含まれていないと思っていますが、きっとある人から見れば「普通」に生きている人なのだろうなと思います。そこがはっきりと二分できるわけではないのに、大なり小なりそれぞれの苦しさがあるはずなのに、どうして互いに振りかざしあってしまうのでしょう。誰の為の「普通」なのか、「就職」なのか、「人生」なのか、ずっとわからないままです。
ほとんどつらつらと自分の思いを書いてしまいました。あなたが書いてくれたものへの応答になっているか自信は無いのですが…それぞれの場所で、「なんかずっと生きづらい」と思っている私の心が勝手ながらにすこし救われたことが、伝わったらうれしいです。