経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
生まれたくなかった(非存在への憧憬)
日々をやり過ごす中での小さな煩わしさを意識する(させられる)たび、時には喜ばしかったり嬉しい時にも、この言葉が頭をよぎります。
「ほんのささいな厄介ごとがもち上がっても、もし私が存在していなかったら、こんな羽目にならずに済んだだろうにと考える。だから毎日、私は、生まれなければよかったという考えに取りつかれてしまうのだ。」(E.M. シオラン)
私には人生が、「強制された、壊れやすい機械の死ぬまで続くメンテナンス作業」のように思えます。
良い人生は望んでいません。ただ断りたかった。生まれたくなかった。存在しなければ何も問題は無いから。
それが叶わなかった形でしか人生というものが存在し得ない事をとてもやるせなく思うと共に、非存在の問題の無さを羨み、存在の煩わしさにただただ打ちひしがれています。
全てがいずれ必ず流れ去るのであれば、この世は沈みゆく船のようです。
重要だと思えるのは、少しづつ近づいてくる水の冷たさと、いつか必ず来る窒息の瞬間と、沈み切った船のビジョンだけで。
それだけが「次」の印象(確実な未来)としてあり、他の全ての行為が気晴らしや目逸らし、足踏みに思えるのです。
生まれなければ苦しむ事も、死ぬ事も、慰めの必要も無かったのに。
存在する事は、既に(非存在を選べなかったという)事故が起こった後の戻れない分岐路を歩まされているようなものだと感じます。
非存在の問題の無さと圧倒的な静けさをずっと懐かしみ、羨んでいます。
感想1
シオランの名前を久々に見て、「おっ」と思い、感想を書きたくなっちゃいました。私も、「もし生まれなかったら苦しい思いをせずに済んだのに」って思うことがあります。ネガティブな側面に目を向けがちだから、そういうふうに感じるのかもしれません。
どうせ人間は死ぬという未来が見えているわけだから、全部気晴らしだし意味がないというふうに感じているのかな、と経験談から解釈しました。劇的に世界が変わるわけでもなく、今日も粛々と一日が過ぎて、また同じようなことを繰り返していく…。変化を起こすには自分から行動しないといけないのかもしれませんが、そもそもそういう行動が無意味に思えてくるかもしれません。
個人的には「非存在の問題の無さと圧倒的な静けさをずっと懐かしみ、羨んでいます。」という文が気になりました。「懐かしい」ってことは、どこかで感じたことのある感覚なのかなと思います。しかも、「ずっと」ってことは、結構長い間、生活に対して虚しさのような気持ちを抱いてきたのかなと感じました。それって結構つらいんじゃないかなと、率直に思いました。「生まれたくなかった」という言葉はあなたの切実な本音に見えました。そして、それって誰かに言ったことあるのかなってふと思いました。
こう考えているうちに、快楽を得ようとすればするほど快楽を得ることが難しくなる、快楽主義のパラドックスを思い出しました。快楽や不快の回避を第一義的なものとしていると人間は辛くなるのでしょうか。また、「一瞬の楽しさ」「目の前にいる人」といった、世界滅亡まで考えたら刹那的(短期的)に思えるものに何かしらの価値を感じられたら、辛さは和らぐのでしょうか。それらが少年漫画の世界では「夢」「愛」といった単語に置き換えられているのかなと思うところです。
もしまた何か書きたくなったらぜひ来てください。お待ちしています。
感想2
「人間にとって最善のこととは何か」と問うミダス王に半人半獣の賢者シレノスが答えて曰く、「人間にとって最善なのははじめから生まれないこと、次善は早く死ぬこと」。古代ギリシアの時代からそう考える人間がいたことは確かなようです。
芥川龍之介の『河童』で、「この世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ」という父親の言葉に、「僕は生れたくはありません」と答える河童の胎児の意見が受け入れられ、母親のお腹を凹ませる処置がなされたシーンを私はずっと鮮明に覚えています。
私たちには生きる権利はあるけれど生まれる権利はない、すなわち人生を始めるかどうか決める権利はなく、ただ人生が終わるまでこれを継続する権利だけを付与されていると思います。河童の子どもと違って、私たちはお母さんのお腹にいるときには、自分の存在も生死の概念も(多分)何もかもを知らないでいます。だから、出生に際して本人の意思を介在することは不可能であり、生み落とされたら生きていくことになります。それは個人の自由がそこかしこで標榜される現代において、出生の強制、人生を歩むことの強制として、より感じられやすくなっているのではないかと考えたりします。
生まれてきさえしなければ、私を苛み続ける悲しみも苦しみも全て経験しなかったけれど、ささやかな日々の楽しみ、不思議の発見と驚愕・感動、世界の美しさに触れることも同時に叶わなかったことを考えると、たまにこの生命が惜しくなるときがあります。
「非存在」ってどんな感じなんでしょうね。凪のような雰囲気を感じます。意思もなく思考もせず、何も感じず、他我も自我もない、自他の誰にも認識されず、干渉もされず、何もない。問題の無いことも己の静けさも感じられない?そうであれば、「生まれたくなかった」と思うこと、考えをめぐらす事、非存在への憧憬を抱くことですら、生まれて、今まで生きてこなければできなかったことである。何だかんだ考えるのが好きな私にとっては、たしかに苦しみを感じていながらもそれが惜しいと思うときがあるのかもしれません。
しかし、存在し続けることに伴う煩雑と苦痛のなんと多いことでしょう。苦しみが立ち上がるたびに目の前の安らぎや楽しみが霞むのを何度も何度も繰り返していけば、気力が削がれることは必至だろうと思います。あなたも、現実に小さな出来事や大きな出来事を繰り返しながら、今の考えを構築していったのではないかと思っています。これを思い至るまでにどんないきさつがあったのか、あなたにとっての「非存在」ってどんなイメージなのか、などもっとお話を聞いてみたい気持ちです。
感想1
シオランの名前を久々に見て、「おっ」と思い、感想を書きたくなっちゃいました。私も、「もし生まれなかったら苦しい思いをせずに済んだのに」って思うことがあります。ネガティブな側面に目を向けがちだから、そういうふうに感じるのかもしれません。
どうせ人間は死ぬという未来が見えているわけだから、全部気晴らしだし意味がないというふうに感じているのかな、と経験談から解釈しました。劇的に世界が変わるわけでもなく、今日も粛々と一日が過ぎて、また同じようなことを繰り返していく…。変化を起こすには自分から行動しないといけないのかもしれませんが、そもそもそういう行動が無意味に思えてくるかもしれません。
個人的には「非存在の問題の無さと圧倒的な静けさをずっと懐かしみ、羨んでいます。」という文が気になりました。「懐かしい」ってことは、どこかで感じたことのある感覚なのかなと思います。しかも、「ずっと」ってことは、結構長い間、生活に対して虚しさのような気持ちを抱いてきたのかなと感じました。それって結構つらいんじゃないかなと、率直に思いました。「生まれたくなかった」という言葉はあなたの切実な本音に見えました。そして、それって誰かに言ったことあるのかなってふと思いました。
こう考えているうちに、快楽を得ようとすればするほど快楽を得ることが難しくなる、快楽主義のパラドックスを思い出しました。快楽や不快の回避を第一義的なものとしていると人間は辛くなるのでしょうか。また、「一瞬の楽しさ」「目の前にいる人」といった、世界滅亡まで考えたら刹那的(短期的)に思えるものに何かしらの価値を感じられたら、辛さは和らぐのでしょうか。それらが少年漫画の世界では「夢」「愛」といった単語に置き換えられているのかなと思うところです。
もしまた何か書きたくなったらぜひ来てください。お待ちしています。