高校に入学して少し経った頃、妙に落ち着かないことに気が付いた。
自分をいじめる人が居ない。敵の居場所が分からない。それが落ち着かない理由だと気が付いた。
人生が始まるどころか既に終わっているじゃないかと思った。それ以降の記憶はほぼ無い。何十年も。記憶が積み上がる事が無くなった。
そもそも生まれた時から要らない扱いだった。衣食住は与えられていたけれど、気持ちは無視をされていた。存在を無視する親族もいた。
だから自然と人を信じなくなった。首を絞められた時ですらリアクションが無かったのだから、信じることなどあり得ない。でも信じないという行動は一層嫌われる理由になった。
だから誰にも相談しなかった。自分は漂うように存在しているだけなのだ。寄る辺もなくただ今在るだけ。
今は通院をしている。首を絞められた時の一因がトリガーになって、酷いフラッシュバックとして現れたからだ。
通院をするのもためらった。自分の状態が通院に値するのかも分からなかったし、そもそもPTSDを診ることのできる病院も近くに存在しなかった。すぐに消える記憶に関しても診て欲しかったというのもあったから尚更だ。
結局病院が見つかるまで数年かかった。結果フラッシュバックはだいぶ抑えられている。でもトリガーが身近にある以上完全に抑え込めない。ちょっとした事でフラッシュバックが起きるし、混乱して自傷してしまう。
不幸中の幸いは、フラッシュバックや自傷してしまってもその時の辛い気持ちは記憶にほぼ残らないということだ。ただフラッシュバックや自傷行為があったと朧げに記憶しているだけ。それも数日経てば完全に忘れてしまう。日記にしか残らない。だから自分は大したことが無いと思ってしまう。
でも、この話を容易にするべきでは無いという理解もしている。された方が困る内容だから。
ただ、言ってみたかったのだ。出してみたかった。そうすれば川に刺さった竿のように、何か自分が引っかかれるものが現れるかも、と。
漂う事に疲れているわけではないと思う。ただ、現実感も何も無く一人で何十年も過ごしている事には飽きてきたのかもしれない。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
自分は生きていない
感想2
敵がいない環境下で落ち着かないというのは、どう振る舞えばいいのかわからないということに近いのかなと想像しています。振る舞い方がわからないまま、それ以降、敵も味方も作らずにここまで一人でフラッシュバックと戦ってこられた印象を受けました。
私自身人を信じるということをしない人間であるので、あなたが「人を信じない、信じることなどありえない」という言葉には賛同しながら「一層嫌われる理由になる」という部分には果たしてそうだろうかと疑問が浮かびました。自分の心変わりの速さを知っているからこそ、人間を信じるというのはとてもできることじゃない。一方で信じていないからこそ他者の変化や裏切りにも寛容であり、相手を束縛しないという側面もあるように思いました。
だから、信用していなくても、お互いを尊重しながら人間関係を築くことは可能だと思ったりします。信じることと、愛することは一緒でなくていいということに気がついた時に、少し楽になった経験を思い出しています。あなたが「一層人から嫌われる」と感じたのには、信用しないだけでなく、根本的な人への怖さがあったり人への心の開き方がわからないなど今も奥の方で抱えている他の理由があるように感じました。
首を絞められるというのは、息ができず苦しくなり本当に死ぬかもしれないということが頭をよぎる、それでも抵抗する声が出せない、そんな経験で私はめちゃめちゃ怖かったのですが、あなたはどうだったのでしょう。リアクションがその時無かった(できなかった?)としても、トリガーになる何かがあなたの中に残っているということなのでしょうか。あなたの心に届くかどうかはわからないけれど、とても怖かったよね、怖かったねと声をかけたい気持ちになっています。
考え事や悩みが多かったりすると脳が飽和状態になり思考を停止するという話を聞いたことがあります。もしかしたら、記憶が残らないというのは、ずっと脳が飽和状態であなたがこれ以上苦しまないように脳が自ら動きを鈍くさせているということなのかなとも想像しました。また、私も日記をつけていたりしますが、数年前の日記を開くと自分が書いたのかと思うほど記憶がないことばかりです。ただあなたの浮遊するような変化のない日々を思うと、どの記憶がいつの出来事なのか、それすらもわからなくなるようなイメージを持ちました。
「水草はただ漂う草であるが、いつかどこかに根を張る」という言葉を思い出しています。人を信じなくてもいいから、人として好きだなあと思える人に出会うこと。そしてその人を信用しないこと。そんなことを試してほしいなと思いながら、また必要な時にはここへ書き込みに来てほしいと思います。
感想1
人生の早い時期にあなたは危険の中に置かれて、それに自分を合わせなければ生きてはこられないような状況の中生き延びてきたのだろうと思いました。危険をデフォルトとしてチューニングせざるを得なかったから、安全は居心地の悪さをあなたに突きつけてきたのだろうかと考えています。これまでのあなたの苦労や苦痛はどれほど多大なものだっただろうと、書かれた言葉ひとつひとつから感じています。記憶を失うことも、あなたが身につけた生存スキルのひとつであるように思いました。人間は忘却の力によって、生き延びている部分もあると思います。ただ新しい記憶を積み上げることによる変化や可能性も封じざるを得なかった側面もあるのだと思いました。でも、失った、あるいは保存されなかったように思える記憶は、まったくどこにもないわけではなく、封じられているということもあるのかなとも想像していました。
日常的に過去の感覚に支配されてしまう中では、現在を生きることすら容易ではないと思います。タイトルもそこに繋がる部分がのかなと思いました。ただその中でも、通院をためらいながらも探して、時間をかけてつながり、現在も苦労はたえないながら以前よりは抑えられている症状もあるを読んで、あなたが実直に「自分を生きる」ことに取り組んできたことが現れているようにも感じました。もちろん、単純化して美談のように片付けたいわけではないのですが……。タイトル自体、自分は自分として生きたいという思いがあるからこその思いのようにも感じて、そう感じたことを伝えたいと思ったのでした。
「された方が困る内容」というのもこれまでの経験則なのでしょうか。私も自分の希死念慮やトラウマなどのことを人に話したとき、予想外大きな反応をされた経験もあり、たしかに世の中でなかなか話しづらい実情があるように思います。でもその中で「言ってみたい」「出してみたい」というあなたの声をあなたが聞いたから、経験談を送ることにつながり、私はここであなたの言葉を読むことができたのかなと思うと、あなたの意思とあなた自身の意思を聞いたあなたにすごく感謝したい気持ちになりました。投稿してくれてありがとうございます。