経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
去年、自身のプロジェクトで関わった人物からパワハラでSNSで告発されて炎上した。常識的に考えればやっては行けないような事や他のチームメンバーへの嫌がらせなどが度重なりあり、注意をし続けてきたが直らず、最終的に私がキレてしまった。その際に暴言を吐いてしまいパワハラとして告発された。
キレる原因になった事等は伏せられ、都合の良いように書かれたので、その方にやられた事をSNS上で公表しようと思ったのだが、自殺願望があるなどがわかり、向こうが炎上した時には耐えられないかもしれないと、仲間達と相談をして私は口を噤んだ。
結局、第三者をいれて話し合い、和解をしたものの私はパワハラ野郎として世間に見られるようになった。
和解から半年後、そういった周りの視線や対応に、私はストレスを感じていた。ある時家を出ることが出来なくなり、部屋は荒れ、自死を考えるようになった。ポストを開けることができなくなり、人と会話する時も腫れ物扱いされる。
とにかく寝ることしかできず、楽しいと思っていたものたちに何も心は動かず、映画や漫画やアニメを見ることもできず、ゲームなどの娯楽も手につかなくなった。
恋人もおらず、甘えたかったり、ヨシヨシされたり、支えてもらえたりする事もない。このままではいけないと思うも、ベッドから出ることもできない。頭の中によぎる「孤独死」という三文字と、目を瞑ってそのまま起きることがなければどんだけ幸せかと考える日々を送っていた。
休んだ甲斐もすこしはあって、外に出るようになり、飲みに行ったりするようになった。すると今までそんな事はなかったのに、酔うと腹の底に溜まった怒りが言葉として出てきてしまう。楽しく飲みたかったのが怒りの発散になってしまう。まるでパワハラ野郎だ。
他人にパワハラ野郎として扱われているうちに、私は正真正銘のパワハラ野郎になってしまった。強い言葉を使い、態度悪く接してしまう。勿論そうしたいなんて微塵も思っていない。どうしてそうなってしまうのか、私自身わからない。自分の理想とは程遠い自分の姿になっている。むしろ他人が望む姿に変わったようにさえ思った。
他責かもしれない。でも自分ではそんな事願っていない。そうなりたいなんて思ってもいない。こんな醜態をさらすのであれば、一刻も早く消えて無くなりたい。自身の中の暴走する怒りを封じ込めるために、早く死んでしまいたい。他者の願いを内面化してしまった自身の姿に自己嫌悪をし、唯一自分を取り戻す事が死ぬ事であるとずっと考えてしまう。
助けてほしいが、誰に助けを求めていいかわからない。ちいかわみたいに生きたい。ここに書くって事は死にたくないのだと思うけれど、頭の中も視界の中も自死で溢れ、囁かれる。とにかく、どちらの意味でもいいので楽になりたいのです。
感想1
消化しきれないモヤモヤと補充されきらないエネルギーが、やり場をなくしてもがいているような印象を抱きました。言葉の端々から「どうしてこうなったのか」という苦しみと「納得いかない」という怒りや悲しみを受け取っています。
勝手な想像かもしれませんが、自責とはまた少し違う形で、自分自身や取り巻く環境、起こってしまったことを受け入れがたく思う気持ちがあり、自分という存在を肯定するのが難しい日々なのかなとイメージしました。そこには自分の理想との乖離などといったメタ的な失望感もあるのだと思うのですが、同時に他者に対する信用の崩壊、断絶・孤独のような感覚も強く存在しているように感じました。
今回、SNS上では相手の言い分のみが通る形になってしまったということですが、投稿者さん側の視点で見ればおそらく相当量の「怒りや虚しさの蓄積」があったのだろうと思います。だからこそそれらをぶつけざるを得なかった投稿者さんがそこにはいて、反面抑えることのできなかった「そのときの自分」を悔やむような気持ちも強いのかなと感じます。
大前提として暴言は良くないことではありますが、そこにある背景を全く鑑みることなく、かつとても無責任な形で集中攻撃・非難してしまえるのがSNSでの炎上だとすれば、今回の件で暴言を吐いた投稿者さんに何かを言う権利があるのは便宜上の第三者と当人(相手)だけのような気もします。SNSという空間が漠然と無限の「他者」の存在を感じさせ、そしてその「他者」と一切の関係性もないまま自分の心に容赦なく立ち入ってこられる場所と考えると、そこで向けられたまなざしや情念は受け止めないほうがきっといいのですが…そうもいかないから難しいのでしょうね…。
「他責なのか」という反芻がありましたが、私の印象としては他責にもなりきれていないからこそ深いところで苦しんでいるように思えました。そこには誰かのせいにすることをしきれない投稿者さん自身の自省とともに、明確に「誰か」を思い浮かべて責めることのできないような状況もあるように想像しました。窮屈な状況下で他者から受けた言葉や態度による不信感や自己否定が繰り返されていったら、無理解の感覚だけが強まり、社会や娯楽に心を預けようという気になれなくても当然なのかなと思いました。
上手く言えないのですが、少なくともこれを書いている私は「みんな」には参加しないし、そもそも「みんな」というのがおそらくとても局所的で流動的な他者であるはず…と伝えたくなったことを書かせてもらい、感想とします。
感想2
酔った時に腹の底に溜まった怒りが言葉として出て、自己嫌悪してしまうことに身の覚えがありながら読ませていただきました。そんなことがあった落ち込みがある日に経験談へ辿り着き、投稿してくださったのかなとも想像しています。
一番はじめの発端のその人への注意も、きっと慎重に言葉を選びながらされていたのだろうなと思います。それでも改善されない態度が続けば堪忍の尾が切れるのもなんとなく想像がつくのですが、相手は反省というよりもむしろ、ワンシーンだけを切り取ってSNSで拡散・・とてもタチの悪いやり口に遭遇してしまったように思います。
その後の第三者を入れて話し合いをすることや、仲間への相談をされて、あなたが起こった出来事の収集をつけるために奮闘された様子も感じ取れました。やられたらやり返す、ではなくご自身の発言もきっと謝罪し、実直に誠実に行動されたと思います。それは一つ理想のあなたの姿だったのではないかなと思ったりもしました。
これまでどのようにあなたが怒りや言葉遣いと向き合ってきたのだろうなあ、ともっと聞いてみたい思いになりました。もしかしたら、積み重なってきたものの中で、どこかで怒りやパワハラという言葉がコンプレックスになっていたりもするのかなと感じたりしたのですがどうでしょうかね(違っていたらすみません・・)。「自分の理想」があるともおっしゃるほど、怒りや言葉遣いには普段から人一倍気を使われているのではないかなあと思うのです。
私自身、怒りを克服したと思っていた矢先、身近な人に対して怒りが収まらなくなったり(靴下を投げつけました)、酔った時に溜まっていたものを暴言(クソ野郎など)として吐き出してしまい、ひどく落ち込んだりしたことがあります。酔いが覚めて思うのは、でも全部本音なんだよな・・と私は思ったりします。
とはいえ自分の理想像とは遠い、一番思ってほしくない人物像を持たれるほど辛いことはないなあとぼんやりと思っています。普段気をつけているだけに、その一回でそのラベルを貼られるのは辛いなあ。 コンプレックスを刺激されるほど、なりたくない自分になってしまうのも、あれはなんの現象なんでしょうね。
心機一転、誰も自分のことを知らないところへ行ってしまえれば楽なのかもしれないけれど、どこへ行っても自分からは逃げられないことに嫌気がさすこともあります。自分の醜態をさらけ出したくなくて、人と距離を取ってしまうこともあるなあと思ったり。それでも、あなたの誠実さや陰ながらしている努力している姿を見ている人はいるのではないかなあと私は思います。
ちいかわみたいに生きたいという言葉に賛同しながら、シラフでも本音をぶつけることができる場所として必要な時には経験談を思い出してほしいなあと思いました。
感想1
消化しきれないモヤモヤと補充されきらないエネルギーが、やり場をなくしてもがいているような印象を抱きました。言葉の端々から「どうしてこうなったのか」という苦しみと「納得いかない」という怒りや悲しみを受け取っています。
勝手な想像かもしれませんが、自責とはまた少し違う形で、自分自身や取り巻く環境、起こってしまったことを受け入れがたく思う気持ちがあり、自分という存在を肯定するのが難しい日々なのかなとイメージしました。そこには自分の理想との乖離などといったメタ的な失望感もあるのだと思うのですが、同時に他者に対する信用の崩壊、断絶・孤独のような感覚も強く存在しているように感じました。
今回、SNS上では相手の言い分のみが通る形になってしまったということですが、投稿者さん側の視点で見ればおそらく相当量の「怒りや虚しさの蓄積」があったのだろうと思います。だからこそそれらをぶつけざるを得なかった投稿者さんがそこにはいて、反面抑えることのできなかった「そのときの自分」を悔やむような気持ちも強いのかなと感じます。
大前提として暴言は良くないことではありますが、そこにある背景を全く鑑みることなく、かつとても無責任な形で集中攻撃・非難してしまえるのがSNSでの炎上だとすれば、今回の件で暴言を吐いた投稿者さんに何かを言う権利があるのは便宜上の第三者と当人(相手)だけのような気もします。SNSという空間が漠然と無限の「他者」の存在を感じさせ、そしてその「他者」と一切の関係性もないまま自分の心に容赦なく立ち入ってこられる場所と考えると、そこで向けられたまなざしや情念は受け止めないほうがきっといいのですが…そうもいかないから難しいのでしょうね…。
「他責なのか」という反芻がありましたが、私の印象としては他責にもなりきれていないからこそ深いところで苦しんでいるように思えました。そこには誰かのせいにすることをしきれない投稿者さん自身の自省とともに、明確に「誰か」を思い浮かべて責めることのできないような状況もあるように想像しました。窮屈な状況下で他者から受けた言葉や態度による不信感や自己否定が繰り返されていったら、無理解の感覚だけが強まり、社会や娯楽に心を預けようという気になれなくても当然なのかなと思いました。
上手く言えないのですが、少なくともこれを書いている私は「みんな」には参加しないし、そもそも「みんな」というのがおそらくとても局所的で流動的な他者であるはず…と伝えたくなったことを書かせてもらい、感想とします。