経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

これから、何のために生きればいい?

こんなことを相談するのは少々ぜいたくなのかもしれませんが、書かせてください。

僕は今、過去最大級に、生きることがむなしく感じてしまうのです。
気晴らしに何かをやり始めても、すぐにむなしいと感じてやめてしまいます。
ひどい時には、もういつ死んでもいいや、という考えに行きつきます。

原因は、わかっています。
これからの人生を、何を大切にして、何のために生きればいいのか、まったくわからなくなってしまったのです。

なぜ、そうなったのか?

僕は、「自分のため」も、「人のため」も、やり尽くしてしまったのです。
それが原因です。

今から18年前の2008年3月、僕は自分を変えなければいけないと思い、その第一歩としてチャリティー募金活動を始めました。
具体的には、コンビニで募金することを毎日のように続けました。
実際、総額は「18年間、完全に毎日募金を続けた」のと計算上は同じ金額で、換算するとトヨタのプリウスが新車で買えてしまうくらいにはなりました。
しかし、4年前くらいから、この募金活動が少しずつイヤになってきたのです。
もともと、やりたくて始めたわけではなかった。
「自分は変わらなければダメなんだ」と必死に自分に言い聞かせて、なんとか続けていたのです。
その結果、たいした資産がない僕がこんなに多額の募金ができたわけです。
でも、夢を達成した今、募金活動をもうやめたいのです。
だから、4年くらい前から、僕は2ヶ月に1回自分へのごほうびを買うようになりました。
だいたいは女性の写真集です。
しかし、僕の部屋は狭いので、物が置けるスペースなどたかが知れています。
つまり、「人のため」はむなしい。
「自分のため」も限界が近い。

昔、自分のために疲れたら人のためにシフトすればいい、と言った人がいますが、
じゃあ、僕はどうすればいいのですか?
これからの人生を、ただ「死ぬのを待つ」ために使えと?
僕はどちらもやり尽くして、燃え尽きそうでもがいているんですよ?

ただ、ただ、むなしいです。
本当に、この問題は解決できるでしょうか?
どうすればいいのですか?

感想1

何のために生きるのか、難問過ぎて全然答えが出ない自分がいます。投稿されたエピソードが妙に気になり、全然答えを持っていないのに語り合いたいような気持ちになりお返事を書かせてもらいました。「自分は変わらなければダメなんだ」と嫌々という気持ちがありつつも、プリウスが買えるほどの募金を続けてきたあなた。「夢を達成した」と思う一方、「むなしい」気持ちもわいてきたあなた。その気持ちを収めるために、女性の写真集をごほうびに買うあなた。相反する気持ちを何とか乗りこなそうと、自分や誰かのために率直に行動できるあなたが羨ましい、そんな気持ちにもなる思いです。一方で、たくさんの「誰か」のために、自分の思いや行動そしてお金を出し続けることは、随分と体力気力そしてお金がいることで「少しずつイヤ」と思う気持ちがわいてきたことも不自然なことだと思えません。誰かに命令された事でもなく強制されたことでも無い、けれども誰かに感謝されたり褒めてもらえたり、何でもいいから声をかけて欲しい、そんな気持ちがわいてくるような気持ちになるのは私だけでしょうか。自分の中にある、名前のつかない感情や思いが顔を出した時戸惑い、目的を見つけたくなるのは人間だものとこたえを一旦保留したり、一休みしませんかと声をかけたくなる思いです。とりとめないお返事ですが、よければまた思いを書きにきてください。投稿いただき、ありがとうございました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。あなたの中にある「むなしさ」はただの気分とかではなく、長い時間をかけて積み上げてきた行動の先にあるものとして出てきた感情のように私は感じました。18年という時間をかけて続けてきた募金という行動は、思いつきや一時的な衝動ではなく、かなり強い意志や自分への働きかけによって支えられていたのだと思います。その分、そこに区切りが見えてきたときに、次に何を拠り所にすればいいのか分からなくなるのは、無理もない流れだとも思いました。
募金を続けてきた経緯として「やりたくて始めたわけではない」という言葉が印象的で、本来は自発的であるはずの行為を、「変わらなければならない」という義務に近い形であなたは続けてきたのですよね…。その結果として、行動そのものは大きなものになっているのに、内側では少しずつ摩耗していったのかもしれないなと感じています。誰かのために何かをすることが、いつの間にか「自分を保つための条件」になっていたのかもしれないなと思ったりもします。
人のために尽くすことにも、自分のために何かを得ることにも、どちらにも手応えを感じられなくなっている今の状態は、“どちらもやり尽くした”というより、“どちらも自分の実感としては根付かなかった”という感覚に近かったりするのではないでしょうか。
どこか物理的にも心理的にも行き場がなくなっている様子が伝わってきて、人のためでも自分のためだとしても、どこか消費に近い形になっているようにも感じ、“じゃあどうすればいいんだ”という気持ちになるのも、そりゃそう思うよねと心の中で頷いている自分がいます。
“何のために生きるのか”と、私自身もよく考えてしまうことではありますが、同時にその果てしなさに答えを出すことへ諦めに近い感情も抱いています。私の場合は、自分が何もしなくても生きていていい理由が見つからないことへの不安や焦りがきっと“何のために”という答え探しに行きついているのだとは思っています。ただ、そのもっと奥深くには、何かを成し遂げること=その人の“価値や、生きる意味”として結びついているこの社会の価値観が無意識に刷り込まれていることが大きく影響しているようにも感じるのです。解決するかどうかは、はっきりとした形で終わるものではないかもしれないなと思うのが私としては正直な気持ちです。“何のために”という問い自体の扱い方が今後少しずつ変わっていけば、むなしさの質が変わっていくことはあり得るようには感じます。すぐに答えは見つからなくても抱くモヤモヤやぐるぐるとした思考をこうして誰かと共有し、一緒に考えること自体は無意味ではないと私は思うので、また良ければあなたの思いをここに届けてほしいなと思っています。

一覧へ戻る