今の私は、あまり正しいとは言えないであろう位置で安定している。定期的なカウンセリングと、親の扶養に身を任せて、ただ毎日を浪費する生活。
親からは昔ほど干渉を受けなくなった。今はただ、時間が止まっているかのようだ。変化があるとしたら、冬の厳しさと、それが和らぐ春の気配くらいのものだろうか。
私は今、これから先について何も見つけられていない。親の選ぶ選択にただついてきただけの人間がそんな自由に放り出されたとしても、どこかに飛び去ることなんて有り得ないと私は思っている。
こんな生活を続けていると、余計に「生きること」への意味は見つからなくなっていくのではないかと、そんな風にも思う。
ただ、私はもうそれに興味を持っていない。何もかも無くなると言われても、それが何だというのか。
娯楽を否定され、交流を否定され、親の安心だけを強制させられてきた私から、あと何を奪えるのか。
楽しいものが手に入らなくなる?
それはこれまでもそうだった。
家がなくなる?
よく「教育」に使っていただろう。寒い中そこにいるだけで許されるのだから、素晴らしいものだ。
誰もいなくなる?
私はここまでずっと独りだった。何一つ変わらない。
だから私は当分、このまま生きていくことになるだろう。何も成さず、何も残さないまま。
いつか、何処かで擦り切れている私がいるかもしれない。
いつか、誰かを傷つけてまで生きようとする私がいるかもしれない。
いつか、案外普通に生きている私がいるかもしれない。
…それはもう、「エピローグ」みたいなものだ。どうなろうが、何が起きようが、好きにしてくれれば宜しい。
今のところ私にとっての将来は、そんな程度のものである。だからこそ、ここから飛び立つ必要性を感じられない。
羽ばたけといつか言われて、飛び立てないまま蹴り出され、地面に叩きつけられることになっても…それを悔いることができない気がしてならないのである。
私は、思う。
生きたいと願うのは、誰かの祝福あってのことではないか?
私にそれは、あったのか?
何か特別なものを…私にない何かを、私は拾い損ねてしまっているのか?
もしそうであるなら、私はそれをいつか拾えるのか?
…私は、壊れているのか?
私は生まれたかったわけではない。生まれてほしいと言われて生まれたのだ。なのに何故、私は生きなければならないことになっているのだろうか。
そして何故、私はこんなことを疑問に思っているのだろうか。
生きることとは、生きる理由とは?
私以外の人たちは、それにどんな価値を見出し、そこに何を見ているのだろうか?
もう4回目になる。
今の私のような生活が、もっと早くにあったなら。親に言われた通りに部活を選び、それに疑問を抱いて辞める選択をしたあの日に、今のように訴えていたら。そう思わない日はない。
ただ…そう思わなかったからこそ私は今ここにいて、そう思えている。そんなことは、たとえもう一度やり直しても起こり得ないだろう。あの頃の私は人形でしかないから。
私に、あと何が残っているのだろう。親が私を置いて去るとき、私は何になるのだろうか?
この気持ちも忘れてしまったその時、私はどんな人になっているのだろうか?
そして…そもそも、そこまで私は生きていられるのだろうか?
それでも、せめて書いておく。
こんな人も、いる。
感想1
親に向き合う時間よりも自分に向き合う時間が増える中で、今の自分を否定も肯定もしない言葉を探されているように感じました。「あまり正しいとは言えないであろう位置で安定している」という言葉が印象的で、肯定と否定の双方の響きが練り合わさって聞こえてくるようでした。果たして、安定しているのにあまり正しいとは言えないであろう位置というのは存在するのだろうか、そんな疑問も湧き出てきます。
読み進めると、「社会的」か、或いは「あなた自身も心のどこか奥で思っている」正しいとは言えないであろう位置があなたの中にあるように思えたのですが、どうでしょうか。他人や社会のものさしで図られる正しい・正しくないというのは個人的には影響されたくないことだと思っているのですが、自分自身が今いる位置にぎこちなさを感じるのであればその感覚には影響を受けざるを得ないことのようにも思います。
そんなことを考えていると蛙をよく思い出すのですが(突然すみません)、おたまじゃくしから手足が生えたら外を飛んで周りたくなるのか、まだ尻尾があるからと水中の中を泳ぎ続けるのか・・。どちらでも良いとは思うのですが、生えてきた手足に影響は受けざるを得ないことのように思います。外での飛び方を知らないまま、地面に叩きつけられることもあるでしょう。危険を切り抜けながら、飛び方を学ぶ蛙もいるでしょう。水中の中で上手に生き延びる者もいるでしょう。干からびてしまう者もいるかもしれません。
「人とは何か考える不幸な時代になってしまった」という何かの本の一節を今でも覚えており、昔はもっと動物的に人間は生きていたのだろうかとも思ったりします。飯を食べること、安全に眠ること、そんなことが生きる(生き延びる)目的だったのかもしれません。いつの間にか、何をしたいのか、何になりたいのか、そんな神のみぞ知るような超難問を当たり前にされるようになってしまいました。
私はあなたの「なるようになる精神」といいますか、「どうなろうが、何が起きようが、好きにしてくれれば宜しい。」という言葉がなんとも良い響きで、真実にも思え、気に入ってしまいました。なんなら、親からもそんな風に言われていたい。将来を不安に思うことも、結果を悔いることも本当はしなくていいのかもしれない。
真っ白いキャンバスを渡された時に、何を描けばいいのかわからないという人が一体どのくらいいるだろう。かなり多くの人が戸惑ってしまうんじゃないかなと私は思います。とりあえず手を動かしてみる、それすらできなくなってしまうのは、目的と結果を求められるからなのだろうか。「好きなようにしていい」といわれても、それがどれほど難しいことか とも思う。