経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

限界がくる

幼い頃から大人びた考え方をする子供でした。小1の時の短冊には「家族みんなが幸せでありますように」と書きました。自分ひとりだけが幸せになっても周りの人が幸せでないなら幸せにはなれないと考えて書いたことをはっきり覚えています。また、いつもニコニコしている養護教諭に挨拶をしたら無視をされたことも、それは教諭のひとつの面に過ぎないからそんなことで嫌いになったらダメだと思ったことを覚えています。他にも今、自己啓発や心を楽にする本に書かれているような考え方を自然としていた子供でした。
家庭では両親の離婚により父親の顔を知らず、母に抱き締められたり優しく声を掛けてもらった記憶がなく小3の文集には、「母も祖母も誰も授業参観に来てくれず寂しかった」と残っています。悩み事や愚痴を言ってもいつの間にか「お母さんに比べたら大したことない」「他の人もみんな同じ」と言われ、一度も慰めや共感の言葉を掛けてもらえたことはありません。ただ母なりに母のできるタイミング、母のやりたい方法で愛情は掛けていたようで、「私なりに可愛がった」「あなたのために」「自分の子はかわいくて当たり前」が口癖だったので、小さい頃は「お母さんが愛してくれてるのにそれを受け取れない私が悪いんだ」と思っていた時もありました。高校生の頃には「母の愛し方と私のされたい愛し方が違っただけで誰が悪いわけでもない」と思うようになりました。また、自分が親になりあの頃の母の年齢になり母の苦労を理解し仕方がなかったと思うようにもなりました。
そんな風に冷静に受け止められる一方で、埋められなかった寂しさや苦しみは年を経ても消えることはなく、むしろいい年をしてもいつまでもそんな気持ちを引きずっているなんて誰にも話せず。
たまに会えば感情を抑えきれず母に当たってしまうこともあり自己嫌悪に陥ります。老いた母に言ったところで傷つけることはあっても何も解決しないと分かっているのに。
また、私の性質として幼い頃から人の些細な目線や仕草や言動と直感から、その人の感情を読み取ってしまったり、場所や物から良い気も悪い気も受け取りぐったり疲れます。それが合っているか合っていないかよりも瞬時に感じてしまうことに疲れます。
また、私の子供は2人とも発達障がいで不登校で、その対応に追われることも、夫が無関心なことも義実家を含む周りの干渉にも疲れ果てました。
ヨガや瞑想、筋トレやジャーナリングなどを試し、俯瞰で物事を捉えられる冷静な部分と、インナーチャイルドが暴れる部分とを振り子のように行ったり来たりしながら大半は穏やかに過ごせていると思うのですが、年を重ねるごとにその反復に疲れ、更年期や適応障害など自分ではどうすることのできない山が現れ、乗り越えまた現れるが繰り返されることに疲れそろそろ限界のようです。
お腹の中で外に出たくないと強烈に感じた記憶や小学生に上がる前の夢が早くおばあさんになりたいだったこと、こんな私でも悲しむ人がいるのは分かっているので悲しませることはできない、でも人知れずいなくなりたいし、この世にいた痕跡も私がいたという記憶も人々から消し去りたいという思いも子供の頃から全く変わりません。
本当に本当にもう疲れました。

感想1

あなたが幼い頃から周りを見て客観視して我慢して生きてこざるをえなかったことを経験談からひしひしと感じました。最初に書いてある「大人びた考え方」というのは、いつも周りを気にして、自分よりも周りの人のことを優先するということかなと思って読みました。
教師に対する「ひとつの面に過ぎない」というのはたしかにそうなのかなと思うし、別の視点としては有用な思考かもしれないとは思ったのですが、その考えで、あなた自身の素直な感覚を否定してこなければならなかったことはとても大変だっただろうと思いました。(といっても、もしかしたら当時は大変という感覚もなかったのかもしれない、と想像しています。)
その中で「母も祖母も誰も授業参観に来てくれず寂しかった」という文集に書かれた思いは、あなたがあなたの感情を表明した数少ない機会だったのかもしれないと思いました。でもそれが結局大人に受け取られることもなく、あなただけで抱えるものになってしまったのかなと思います。まずはあなた自身のそのままの思いが受け取られる必要があるのに、「比べたら」「みんな」といった言葉で勝手な相対化をされて押しやられてしまったように思えて、なんだか悔しいです。
ヨガや瞑想などは、あなた自身の感覚や感情を支えるためのケアの一種なのかなと思いながら読みました。(個人的にも、自分のつらさや希死念慮との折り合いのため、どれも取り組んできたことなので、うんうんと頷く気持ちになっています。)それらの中で落ち着いた部分も一定はあるのかなぁと思いつつ、だからってつらくないわけではないし、現在も家族の協力を得られない中での子育ては途方もない労力がかかると思います。そんな中では自分優先で過ごせる時間は少ないのかなと思うと、疲労のほうが重なってしまうのも無理はないように感じました。
たとえば家出や入院など、家庭や今の場所を一時的にでも離れるのも一つの手だとは思いますが、そうもいかない事情や思いもあるのかなと想像しています。あなたがこれまでたくさん背負わなければならなかった分、これからのあなたがすこしでものんびり過ごせるように、かくまってくれるような空間がどこかにないものかと、思い巡らせてしまいます。
ここに経験談を送ってくれたのも、自分を俯瞰しようとしてのことなのでしょうか。経験談を通しあなた自身があなたをわかろうとしてきたことを私は感じていて、そこにあなたの胆力みたいな、ひたむきさみたいなものを感じます。きっと真面目な人なのだろうと思うので、その分休むことがむずかしい部分もあるのかなと想像すると、ときには冷静に見つめないで、叫んだり、わんわん泣いたり、ふとんを殴ったり、感情をそのまま書き殴ったりとかしてもいいのかも?とも思ったりしました。(もうしていたらすみません。)ここで待っているので、よかったらまたあなたの声を聞かせてほしいです。

感想2

冷静に状況や人を観察して相手を責めずに受け入れようとしてきたのは、感情に振り回されずに生きるためのあなたの生存戦略であったのかなと想像しました。その生存戦略を取るにはあなたは幼く、またとても孤独であったように感じています。
私もひとり親家庭で育ったので、大人になってから振り返ったとき、大人だと思っていた親の年齢では思いの外精神が成熟していないし、一人で子どもを育てる環境も親にとっては過酷で余裕がなかっただろうと察することはできました。親なりに精一杯だったのだろうと思います。投稿者さんも「母のやりたい方法で愛情は掛けていた」と書いておられますが、私の親もそうであったろうと思いました。ただ、例えばキャッチボールで投げ手がやりたいように投げても、相手が受け取れる球速や力加減、方向を考えて投げないと、相手が受け取ることはできません。愛情のやり取りを含むコミュニケーションというものは、投げて、受け取り、投げて、受け取りのやり取りで成り立つものだと私は思います。一生懸命投げたんだろうなと相手のことを思いやることはできても、「ちゃんと投げてほしかった自分」の感情が納得するかはまた別の話だと思いました。
ケアが必要な二人のお子さんの子育てをお一人でやっていて、周囲からの干渉も投稿者さんは受け取るばかりでご自身の思いを外に投げるということができていない状態ではないかなと感じました。文章も、幼い頃から受け取ってもらえず蓄積してきた感情が渦巻いている印象を受ける一方で、自身を制御しながら綴っておられるような感じを(勝手にですが)受けました。こういう場でこそ、その胸にある思いを率直に文字にされてもいいのかなと思います。相手の立場や状況を思いやりすぎて自分を抑えるのではなくて、感じたとこを率直に投げて受け取ってもらえる経験ができるといいのかなと思います。例えば心理カウンセリングでそういった経験ができるかと思うのですが、すでに試みておられるかもしれませんね。
あなたさえ良ければ、経験談の場で率直な思いを書き出してもらえたらと思いますし、お聞きできたらと思いました。
経験談の投稿、ありがとうございました。

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