死にたい、という気持ちが物心つく前からあった。いつも頭の中には「死にたいゲージ」があって、その時々によって比率が変動するみたいな。そのゲージの機微に振り回されてきたように感じる。
じゃあ、そのゲージは一体どこから生まれたのだろうか。中学受験で、成績順に並べられた机達のどこかに座り、同級生と先生からの重圧に晒され続けたからだろうか?
いじめを受けて、どうしようもなく反論してもその言葉をなじられることが多かったからだろうか?
それとも、二親等に精神的な病を患った人が多いから、受け継いだ気質もあるのだろうか?
ともあれ、様々な要因が折り重なって、私という「死にたいゲージ」という爆弾を抱えた人間ができてしまった。
だが、この世の中において、私は恵まれた人間でもある、という矛盾がある。それが私を苦しめている。中学受験をさせてもらえるほどの経済状況があった、見守ってくれる家族もいた、大学に進学させてもらえた、はずなのに、なんでこんなに死にたいのか、自分でも訳がわからない。絶望する資格があるとは自分で思えなくて、訳もわからずもういいから、殺してほしいと思ってしまう。
一方、就職活動で、睡眠薬を飲まないと寝れない私は「身体・精神に関わる事由で2週間以上通院・入院をこの2年間で行った方はお答えください」という問いに、固まってしまった。恵まれているはずなのに、問題がある人間ということは紛れもない事実なんだろうな、と漠然と感じた。
また、とある説明会でとある重役の方が言っていた。「進歩しつづけなければいけない。安定はビジネスにおいて停滞だ。あなた達も常に考えて、常に学んで、常に行動しなければならない」と。その通りだと思った。止まったら、ライバル企業に追い越されるのはわかってるのだから。でも、こうして定期的に死にたいという気持ちで立ち止まってしまう私は、そのビジネスの世界ではいらない人間なんだろうなあ、とまた漠然と感じた。
この漠然と感じる事柄達が、私の「死にたいゲージ」を上げていって、さらに息が詰まってまた私を立ち止まらせる。このゲージを捨てさせてください、とまでは望まないから、寛解までいかせてください、生まれてよかったと思いたいです、と立ち止まった時、いつも思っている。
そもそも、こんなこと考えなくてもいいように、解放されたい。
感想1
「死にたいゲージ」という表現がしっくりきて、感想を書いています。「死にたい」は0か100で取り外し可能な感情というより、グラデーションで強まったり弱まったりする、そんなイメージが私の中にはあります。
私自身はおそらく高校2年生の時の出来事がきっかけで「死にたいゲージ(そのものを指すなら「死にたいメーター」?)が備わったと思っています。死にたい、と初めて思った時に、死が現状からの解放のように感じられたのを覚えています。現状が自分にどうすることもできないくらい辛いもの、辛すぎてどうしていいかわからなくて煮詰まっていった結果として、「死にたい」に辿り着いたような気がします。そう考えてみると、今でも「死にたい」がふいに頭をもたげるのは、一度「死」という選択肢の思考が開いてしまい、それを閉じる間もなく定期的に「自分でどうすることもできない辛さ」に遭遇しているからなのかも…と思ったりしました。
社会の中には、自分の力ではどうにもできないのに他者から求められる「完璧さ」があまりにも多いと感じています。経済面、所属、能力、人間関係や恋愛関係、休まずに動ける健康な心身…そのなかで社会の価値観に合致するものだけが「良い面」「恵まれた面」として扱われ、理不尽によって受けた不利益や個々のペースは「悪い面」として個人の問題にされているような。なんだか、社会に私という人間を人質に取られているみたいだと感じてしまいます。
就職活動という仕組み、そのなかに身を置くことは、お金を生み出すことに必要な資質、健康であることの定義、そうした漠然とした「社会人像」「人間像」が強く内在化される(あるいはもとから感じていたものが触発される)タイミングなのかなと思います。
今ある環境、そこで当たり前とされるような価値観から逃れる・距離を取ることは簡単ではないかもしれませんが、「今いる場所だけが世界じゃないはず」と、勝手ながらそう声をかけたくなる私がいました。
少なくとも、あなたが絶望しているその隣で、私も同じように打ちひしがれ、同時にそんな自分を認められずに苦しんでいるということを伝えたくなりました。投稿いただき、ありがとうございました。