経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「本当の自分」に失望した

本当の自分に失望した

告白されて付き合った彼女がいた。彼女のことはいまでも好きだ。だけど、彼女となんでも一緒にやりたいとはついに思えなかった。そばにいられるだけで十分で、それどころか何を誘われても面倒だと少し思っていた。

1年もたたずに振られた。ちょうど別れようと思っていたころだった。別れ話を切り出されたときはショックだったが、ようやく解放されるとも思った。最後だからとすべてを打ち明けた。別れようと思っていたこと、いくつかの嫌いだったところ、関係に疲れていたこと。
腹を割って話せたと思う。お互いうっすらと気づいていたことだが、分かり合えないことが分かった。

途中、僕は自分がどんな人間であるかを整理しながら話した。なんでそんな話をしたのか、思い出すことが難しいが、たぶん、何をしていても楽しくなさそうだった、というようなことを言われたのだと思う。

何をしていても楽しめない――――昔から僕にはそんなところがあった。創作をしたり、本を読んだりすることは充実するが、楽しい気持ちであるかといわれれば違うような気もする。本当に心の底から楽しいと思えるのは、女の子と遊ぶことだけなんじゃないか?とその時に思った。いろんな女の子と遊んで、帰ったらショート動画を見て、眠るだけの生活がしたい。できれば今すぐにでもそうしたい。僕は正直に話した。彼女を試したのかもしれない。受け入れてもらいたかった。

当然、彼女からはひどく拒絶された。こんな不誠実な男だとは思いもしなかったのだろう。僕はずっと、その不誠実さを隠していたし、彼女を騙して生きているという意識が常にあった。話し終えて、後ろめたさから解放された喜びと、拒絶されたことの悲しみが同時にやってきた。

別れたら自分の本当にやりたかったことをやるよ、と僕は言った。色んな女の子と遊んで、それ以外の時はショート動画を見て眠る。そんな生活をしてみる、と。「ふざけるなよ」と彼女は言った。「許せない」。僕は笑った。僕も自分を許せなかった。こんなにもくらないことでしか楽しくなれない自分が、あまりにも不愉快だった。不愉快な「本当の自分」を受け入れてもらいたくて、人を傷つけることを厭わずこんなことを話す自分を心底気持ち悪いと思った。

高尚なことをして楽しさを得たかった。テーマパークに行って、旅をして、仕事をして、ドライブをして、恋人と恋人らしいことをして、楽しさを得たかった。だけど、どれも面白くなかった。

自分が最も嫌っている「クズ」のような人間になることでしか、幸せを得られないのではないか? 彼女のような高尚な人間から承認されない、酷い人間になることでしか幸せになれないのなら、自分には幸せになる権利がないのではないか? 家に帰って布団をかぶると、そんな考えが頭をよぎった。

不幸な自分に酔っているように見えるかもしれない。だが僕にとってこれは切実な問題だ。なりたい自分になるのが楽しい道でないのなら、生きている意味がないのではないか、と本気で思うのである。

誰かに失望されるのは何よりも恐ろしい。そして、社会的地位のある人間に受け入れられることは何よりも楽しい。

僕の幸せはいつも他人頼りだ。なのにいつも、他人の心に触れようとは思わない。

独りよがりで、他人を傷つけ、のうのうと生きている。

早く立ち直りたいと、同居人に愚痴をした。「何かストレス発散になることないの」と言われた。「他人に受け入れられること」以外何も思い浮かばなかった。一人で何をしても楽しくない。金と時間を浪費して、ただむなしいだけだ。

いつか自分に社会的価値がなくなり、誰にも受け入れられなくなったら、消えてしまうかもしれない。

彼女のことをうらやましいと思った。自分のやりたいことが、社会の倫理と同じ方向にあることは、本当に幸せだろう。「本当にやりたいこと」について、考える時間すらいらないはずだ。

こんなに卑しい自分らしさで、僕はどう生きていけばいいのだろう。

感想1

経験談へ投稿いただき、ありがとうございます。

とてもあなたの考えや気持ちが率直に書かれていて、「あなたのリアル」がとても伝わってきました。そして、彼女との別れがきっかけで、他者に拒絶されたという傷つきに加え、あなたがこうでありたかったという理想像(社会的に求められがちな理想像)と今の自分に大きくギャップがあることに対するショックが大きかったことも伝わってきました。それを踏まえ、私自身も、社会的に求められがちな理想像とギャップがあるからこそ、生きづらいみたいなことはあるのかもしれないと強く感じました。

そんな中で、特に「誰かに失望されるのは何によりも恐ろしい。そして、社会的地位のある人間に受け入れられることは何よりも楽しい」その発言が自分の中で、印象に残り、何が要因で他者からの良い評価を渇望したくなってしまうのかが気になりました。

それには何かしら要因(背景)があるのか、なんとなくなのか…。

これは私の想像ですが、自分自身で自分の価値を感じられない時、他者を使って自分の価値を測ろうとすることはあるかなと思ったので、そうやって他者と接することで、あなた自身の価値を探ろうとしている、「ここにいてもいい」そんな安心感を得ようといている、そんな背景もあったりするのだろうかと考えました。

だからこそ、だれかに認めてもらうことで自分の価値を感じられて、落ち着く、嬉しくなる、高揚する、それが癖になってしまい、今の状況になったのだろうかのかと想像してみました。

とはいっても、思い当たる要因があっても、なくてもどちらでも、それぞれのつらさはあるんじゃないかなと感じたところでした。要因があったとしたら、それはそれで自分の行動を正当化しやすいところはあるかもしれませんが、過去に縛られてしんどくなることもあるかもしれませんし、ない場合にも、どうして自分がそうなってしまったのか何もわからず、しんどくなることもあるのだろうかとも考えたので、そう私は感じました。

今は、本当の自分を知らしめられて、自分が生きやすい未来を描きづらい状況かなと思います。しかしながら、あなた自身の経験談からはそんな自分を受け止めようとしていること、そんな自分でどうやって生き抜くか、そんな気持ちも垣間見れたような気がしてます。

またよかったら、書きに来てください。

感想2

経験談を読ませていただきました。
まず文章の中の「高尚なことをして楽しさを得たかった」という一文が気になりました。投稿者さんのなかで「こうゆうものに楽しさを感じなければならない。感じられない自分はおかしい」みたいなものがあるのかな?と感じました。
そしてこれは私の個人の率直な感想なのですが、とても文章から人間臭さを感じていて、投稿者さんは自分の心を偽らないで、自分の心に素直な方だと思いました。
「いろんな女の子と遊んで、帰ったらショート動画を見て、眠るだけの生活がしたい。できれば今すぐにでもそうしたい。」という一文は、投稿者さんの文章の中にもありましたが、それをするために彼女を試したのだとしたら。自分のことを好きでいてくれる恋人に対しての行動としては不誠実だと私は思いました。でもお互いそれを最初から認知してる相手同士の行動だったとしたら。だとしたら、私は別にそれが心から楽しいことでも別にいいんじゃないか?と思いました。
文章の中で「クズ」とありましたが、思わず、クズとは?と考えてみました。そしたら、案外クズな部分もっている人って多い気が私はしていて。そんなに正真正銘に綺麗に生きている人ってどのくらいいるのだろうと?私はふと考えてしまいました。ちなみに私は自分の中で「自分クズだな」と思うところはたくさんあり、正真正銘の綺麗な人間ではないです。私は芸術が好きなのですが、芸術の作品のなかには、どう考えても正真正銘の綺麗な人間ではない人が多く登場することが多いなと感じています。でもだからこそ、その登場人物のクズな部分に私は救われることが多いです。そのクズな部分に私は人間らしさを感じ、ああ生きてるなこの人って思います。私は教科書通りになんて生きてこれなかったので。(いきなり自分語りしてしまってすみません。)
クズといっても犯罪行為を実際にやるのは絶対ダメだけど。でも私は最初から悪意があって人を傷つけるのはだめだと思うけど、いろんなことがあって結果的に、人を傷つけてしまったことは誰の人生にもある気がしています。生まれてから死ぬまで、誰一人傷付けず、死んでいく人ってどのくらいいるのかな?と思わずこれを書いていて考えてしまいました。綺麗なとこもあれば、人によってはクズなところもある。そんなに正真正銘に綺麗に生きれないのが人間ではないでしょうか。少なくとも私はそう思います。
ただ読んでいて「何をしていても楽しめない――――」のところもまた気になりました。そうなった投稿者さんの背景にはどんなことが隠れていたりするのかなと。
文章を読んでいて投稿者さんがこの世の中で自分の心に素直に生きながらも色々葛藤して、それでも生き続けている姿に個人的に人間らしさを感じました。経験談ありがとうございました。

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