小学生時代から、ずっと自己肯定感が低い。自分はまともに生きていくことは出来ないだろうと思いながら生きてきた。実際、その通りになってしまった。
対人関係が苦手で、新しい環境で友達を作ることはできなかった。コミュ障で不細工なため、話しかけることが恐怖だったし、仮に勇気を出して自分が話しかけたとしても、それは相手にとって迷惑だと思っていた。とにかく、人が怖い。昔も今も。
何かを頑張ることも苦手だった。勉強は並か、少し低いくらい。好きじゃなかったため、頑張ることはしなかった。
運動はからっきしダメだった。生まれつきだし、出来なくたって困らないからどうでもいいとすら思っていた。
そんなだから、これまで勉強を頑張ることもなく、人と関わることが怖いから避け続けて、まともに生きるための努力を全くしてこなかった。
小さい頃から学生時代は、絵を描くことが好きだったためイラストレーターになりたいという夢もあった。
だから専門学校に通わせてもらったくせに、唯一好きなことすら中途半端で、本気で勉強なんてせず、楽しい趣味であっただけ。
自分を売り出したりなんてイラストレーターになるための努力なんてせず、絵を描いているだけでやった気になって、他の資格を取ったりの勉強は全くせず、就職もできずに卒業。
就職だって、自分は何をしても無駄だという思いから、活動すらしなかった。何も持たない自分を求めている会社があると思えなかった。面接で一度でも不採用を貰おうものなら、お前に価値はないと烙印を押されているようで、自己肯定感の低さに拍車をかけられるようで、とても怖くて怖くて活動なんて出来なかった。
私の人生はこんな風に、何も努力なんてせず、夢もなく、やりたいこともなく、何のスキルを得ることもなく、ただ、だらだらと生き続けてしまった。
気づけば30代。
何も持たないまま、卒業後はとりあえずパートで5年間働いてきたが、仕事中の接客トラブルで心に不調をきたしてしまった。
出勤することができなくなり、精神科で適応障害、社会不安障害、うつ状態と診断された。休職をすることになった。
治療を続け、良くなったと思ったら復帰して、でも結局また状態が悪くなりを繰り返し、かれこれ3度も休職を繰り返している。期間でいえば、もう2年くらいはまともに働いていない。
業務も変えてもらったり、短時間勤務にしてもらったり、あれこれ配慮してもらっているのに、頑張れない。どう考えても自分に問題があるだろう。
そろそろ会社側も限界かもしれない。
こんな私に、どうやって生きていけというのだろう。他人に聞いたって困るだろう。だって私は何も持たないのだ。
自業自得なのは痛いほど分かっている。だけど、私にはやりたいこともないし、努力をするのもめんどくさい。頑張ることが嫌い。そもそも、自分はまともに生きていくビジョンが、昔からずっと見えなかった。だから頑張れなかった。
今、唯一好きだった絵を描くことすら楽しめなくなってしまった。
好きなことも、やりたいことも、自分に出来ることもない。ただ布団に篭って寝て過ごしている。
気力もやりたいこともなく、一目につくことが怖くて外にすら出られず、寝ることしかできない。
休職してきたこの2年だって、服薬はしっかりやってきたが、肝心の対人恐怖は治らず、むしろ今悪化している。
カウンセリングを検討しているが、お金がないため、もし効果がなかったらと考えると踏み出せずに、先延ばしにしてしまっている。
次の仕事はどうするか、そのために自分がするべきことを考えたり、行動したりといった努力を一切やってこず、いたずらに時間を消費しただけだった。療養と怠けを履き違えた結果だろう。
3月までには、今後どうするかを決めなければならない。あと一ヶ月しかないのに、状態は停滞、あるいは悪化しており、苦しい未来しか想像できず、今「もう死にたい」がピークにきてしまった。
私は何も出来ないのだから、本当は死にたい。楽に死ねるなら死んでいると思う。
けれど、臆病な私は痛いのは嫌で、誰かに迷惑をかける死に方もしたくなくて、ズルズルと生き続けている。
大事にしてくれる両親には申し訳ないけれど、とにかく、とてつもなく、生きていくことが怖くて仕方なく、つらく苦しいです。
今更何を言ったってどうにもならないけれど、努力してこなかった自分が情けない。あの時頑張っておけばが止まらない。好きなことに打ち込んで、本気で夢を叶えようとする気概がなかった自分を責めたい。
「まとも」に生きられない自分が嫌で仕方ない。
「普通」になれない自分が苦しい。
感想1
「普通になりたい」と願っては絶望してきた私にとって、感覚的にとてもわかる部分の多い内容でした。もっと言えば、「せめて普通になりたい」という表現がより近いかもしれません。自分にできる「何か」の才能があったり、人よりもたくさん努力できる、そういう突出の仕方ができるならしたかったけど、それが無理ならせめて人並みに…というような感じです。投稿者さんの指す「普通」もどこか似た雰囲気なのかな、それとも少し違うのかな、といろいろ思いを巡らせています。
何かを頑張ることが苦手、という一文に「わかるなあ」と思うと同時に、どうして他の人は頑張れるのか?という疑問に永遠に答えが見つからない私がいます。出来ないことをやるのって嫌じゃないのかな、何をモチベーションに頑張るんだろう、とぐるぐるします。長い間、成績の高い人や目立つ何かを持った人が評価される能力主義・結果主義的な環境(学校や、今はSNSもあって社会全般がそうなっている気もします)に身を置いていると、「嫌なことを乗り越えて結果を出してこそ偉い」というような価値観が自分に強く内在化されていることを感じます。私自身、いわゆる「週5フルタイム正社員」は早々に無理になって辞めて、辛い環境に耐えられなかった自分を今でも責めています。特に資格があるわけでもなく、明確な夢もなく、漠然と「自分には何もないなあ」という気持ちに苛まれながら世の中の隅っこでひっそり生きています。
一方で、「なぜ頑張れるのか?」という疑問以上に「なぜ頑張らなくてはいけないのか?」という気持ちも、ここ数年でじわじわと湧いてきました。たとえば投稿者さんが今回書いていた不安や恐怖、仕事や生活の様子は、どれもとても素直に自分のコンディションに従ってのものという気がしました。なので私から見るととても自然で健全なものに見えます。しかしそれに対して「頑張れない」「まともになれない」と感じることには、曖昧な普通を振りかざす社会、何かしらで動き続けることや高すぎる「最低ライン」の維持を要求してくる社会の要請が強く影響しているように感じました。ぼーっとしながら、ときどき何かをして、それで暮らしていける…そんな生き方で世の中に存在するのって、理想論なのでしょうか…。
こんなことを書くと「やっぱり社会って怖い場所だ」と思わせてしまうのかも、と思いつつ、実際広くて漠然とした「社会」全体に対しては私も怖くてほとんど出られずにいます。ただ、この死にトリという場が一つのささやかな場所として存在しているように、自分が息をすることができる、何かを要請されない小さな「社会」も部分的には存在しているのかな、と思ったりします。「嫌なことを頑張れない自分」ではなく「無理なくぼちぼちやれることだけやる自分」だと、私は自分に対してそう思えるようになりたいなと感じますし、(それを押し付けたいわけではないのですが)投稿者さんにも少しでも心静かな日々があるといいなと勝手ながらに感じています。
自分の経験や価値観と照らし合わせながら書いたので、自分語りのようになってしまっていたらすみません…。投稿ありがとうございました。