当たり前のことがこなせない。だったら当たり前の幸せなんて手に入っちゃいけないし人のそれを邪魔しちゃいけない。
ずっと苦手だった服への関心をようやく持てたのに、結局管理出来なくてぐちゃぐちゃの部屋のどっかに散らばってて見つけられない。私が自分で考えて服を買ったときの母の嬉しそうな顔が浮かんで死にたくなる。ぬか喜びさせてごめんね。どうしても普通にできない。
食事も薬を飲むためだけ、体調を崩さないためだけ。どうせ味なんてよくわからないし物が入った胃は気持ち悪い。体ももう使用期限が来てるんじゃないか。
体に寿命があるように、心にも寿命があると思う。生まれつき弱い心だからこれ以上は持たない。それだけのこと。
あんなに好きだと思ってた読書もろくに出来なくなってただスマホの文字をダラダラ眺めているだけ。くだらない人生。なんの価値も無い。
死んだら悲しむ人がいるのを知っている。だから死にたいけどそれじゃダメだ。最初から居なかったことにでもならないとダメ。私みたいな人間でも死んだら大事な人たちが傷ついて悲しむなんて。なんて人間って優しいんだろうな。その心は私なんかに砕かないで、自分や他のもっと価値のある人の為に使ってって言ってもそう言われたことに傷ついちゃうだろうな。これ以上罪を重ねたら本当に償い切れなくなるから言えない。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
間違い
感想2
「これ以上罪を重ねたら」という文中の言葉が、思ったようにできていないと自分を責めるあなたを表現しているように感じ、大変苦しくなりました。あなたの言うように、目に見える身体の疾病や傷には当然のように、私たちは消毒をしたり薬を飲んだりと手当てをして、極端に言うと寿命を延ばしています。でも、目に見えない心や生き難さへの手当てには、大げさだよという風潮がつきまとい、心の寿命に対しては無頓着にしている社会があるように思いました。
死んだら悲しむ人がいることを知っているが故に、それが、ちゃんと生きなきゃというプレッシャーのように感じているあなたを想像します。日本の社会では、自分自身が何かが出来る、出来ない、が生きる評価の真ん中に来ています。そんなことを考えていると、私は息苦しくてたまらなくなってしまいます。誰かの不足を誰かが補い、その誰かの不足をさらに他の人が補う、それぞれの出番は本当は誰かの「出来ない」から始まっているように思います。頭から足の爪の先まで「できる」で溢れている人は本当にいるのだろうか。その時はできたが、ずっとでき続ける人は、どのくらいいるのだろうか。誰かの邪魔をしているあなたはどこにもいない、と率直に思いました。投稿いただき、ありがとうございました。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。
とにかく自分を責める姿に、胸が詰まるような思いで読みました。
「当たり前のことをこなすこと」と「幸せ」は交換条件なのだろうかと考え込んでしまいました。たえず同調圧力が働くこの社会で、「普通」「当たり前」がもたらす影響力がどれほどのことか、あらためて考えさせられています。
多くは語られていませんでしたが、これまで幾度となく、自分を責めずにはいられない苦しい瞬間があったことを想像しています。
母親の嬉しそうな顔が浮かんで死にたくなる、と書かれていました。一見すると回復のステップを踏んだような場面に、周囲は肯定的な反応を返すことが多いように思いますが、嬉しい反面、諸刃の剣にもなり得ることを思いました。
「心の寿命」という表現は、いろいろ考えさせられました。私には、あなたがずっと「当たり前」と戦ってきたように見えました。弱い心というより、戦いの日々に疲れ果てた心のように思いました。
周囲の優しさが返って傷に染みることもあるように思います。自分の発信を相手がどのように受け取るか懸命に考えるあなたもまた、優しい人だと思いました。
顔の見える関係では言いにくいことなど、またよかったら書き置いていってほしいなと思っています。