「IQが20以上離れていると会話が成立しない」という説を恐らく一回は聞いた事があると思います。これが正しいかは分かりませんが少なくとも自分には当てはまると思います。自分の無能さを誰にも理解されないのは自分の言語化能力が低すぎるのは勿論ですが、そもそも理解出来る土俵が違いすぎるのだと、私の様な低能な人間が誰かに僅かでも理解されると考える事自体が夢物語なのだと最近気づきました。
存在自体がゴミだとか生きる資格がないというのは日常的に言われますが、それは普通の人なら出来て当たり前の事が何一つ出来ないからです。出来たとしても時間が掛かりすぎだったり精度が低すぎたり…。そうなると「要領が悪いのは努力でどうにかなる」と言われ実際にやっても改善しないと結局自分が悪い、となります。自分が悪いのは当然なのですが一般的に無能と言われるのと自分に対する無能というのは意味合いというかレベルが違うと思います。一般的に無能と言われる人は改善の余地があるのでしょうが自分の場合は何をやってもダメで改善出来る余地がないです。出来ないのは努力不足、お前が怠け者だからと断罪されるので本当の無能さが理解されないのです。カウンセラー等に話してもこれは理解されませんでした。そこから思ったのは「本当の無能というのは誰にも理解されないのでは?」という事です。何をやっても報われないのには慣れましたが、自分の身の丈に合わない事を周りの人間が出来ているからという理由で自分にも課せられるのはとても辛いです。
実体験としてカウンセラー等に自分は無能です、と話してもとりあえず「貴方は無能ではない」等と形だけの発言をされる事が多々ありますがそれが説明になっていない事しかありませんでした。例えばカウンセラーは「無能というのはその人が勝手に決める事だから貴方は無能ではない」、という旨を伝えようとしてきますが、私はこの返答を受けて私の伝えたい事が伝わっていない気がしました。 まず大前提として、カウンセラーを除いて今まで出会った人間全てに無能なり怠け者と私は言われてきました。この時点で「その人だけが無能と言っているだけ」というのは主張としては無理があると思います。数人程度ならまだしも、何十人何百人例外なく無能と見做され、学校の先生や親、上司等目上の人にも無能と言われた事しかないのにあたかも「無能と評しているのはごく一部の人間だけ」というニュアンスで話すのは果たして理性的でしょうか。人が無能だと感じるのは相対的な評価が根底にある事が多い故に、その人の知識、経験、価値観等によって左右されるのは間違ってはいないと思いますが、それが余りに多い(というよりそれしかない)なら、そこにあるのは偶発的な現象ではなく必然的な何かがある、と考えるのはそんなに不自然な事でしょうか?仮にこれらを一旦飲み込んで考えて、無能と評するのはその人の価値観に準ずる物、つまり「感想」としてみても、「根本的な質」とは別問題だと思います。この部分がどうしても理解されないのです。話が通じないと書くと相手が悪いという意味合いにも聞こえるかもしれませんがそういう意図はなく純粋に理解されないのはしんどいのです。
上手く言語化出来ないので料理で例えてみます。例えば提供された料理を実際に食べてみて「美味しい」と感じるかと「料理の質」の問題と言うのは必ずしも一致するとは限りません。例えば超一流の和食で食事をしても生魚が苦手な人(全てではないですが生魚を食べる習慣がない外国人がイメージしやすいかと)がお客だったらその人の口に合わない、というのは有り得ない訳ではないです。しかしそれは必ずしも料理の質に問題がある事を示唆する物ではないでしょう。逆に一般的に質に問題がある料理(例えば腐った食材を使う、火を通すべき食材に火が充分通ってない、あるいは異物混入等)でも食べる人によってはそこまでまずいと感じない人も中には居るかもしれません、少なくとも食べた人全員がその場で吐くとは限らないと思います。しかしそういう人が仮に居たとしてもそれは「質」に問題が無い、という事にはなりませんよね。一般的な家庭なら腐った食材をわざわざ使うなんて事はそうそうしないでしょうし、それがプロなら猶更です(一応世界にはそういった根本的な質に問題がある料理を提供する店がかつて存在したのも事実ですが…)。
これを私に当てはめると、料理では「美味しい、舌に合う」と感じるのが「無能だと感じる」という感想で、「根本的な質」というのは「私の頭や能力」という事になるかと思います。当然ですが能力が低ければ出来る事も少ないですし、出来る事があったとしても普通の人間より時間が掛かりますし精度も悪くなります。例えばこの文章にしても全く同じ内容を他の人が書いたらより早く、より分かりやすく、字数も少なく書けるでしょうしもっと分かりやすい例えを用意できるでしょう。頭が悪く文才がない私が書けば分かりにくい乱雑な文章になるのは必然です。そうなると「分かりやすい文章」と「分かりにくい文章」、どちらの方が無駄がなく、かつ正確に読めるかなんて火を見るよりも明らかです。最大限甘く見た可能性としては例えばこの駄文を読んだ人にとって丁度読みたい内容だったなら、「無能が書いたせいで無駄な時間を過ごした」とは思わないかもしれません。しかし文章の絶対的な質の低さからくる「読み切るのに余分に時間を使う必要があった」という事実、物質的損失は変えられないのです。つまり無能と言うのは他者にそれだけ余分に時間やリソースを使わせる存在です、他の人は知りませんが少なくとも私はそうです。そして実際に多くの人はそういった物質的損失をもたらす人、つまり私の事を「無能」と評するのです。
上述したような根本的な質の問題が人の頭脳を指していた場合、一般的には「頭が悪い」「容量が悪い」「役立たず」と言われます。つまり「無能」と言うのは無能と感じる事と質が悪いという最低でも二通りの意味合いがあると思いますし、両者は必ずしも同じ物を指してはいないと思います。今まで私に生きる資格なんかない、無能と評してきた人は例外なく感想だけでなく具体的な根拠を出してきました。例えば学習のスピードが同年代の半分以下とか、仕事が出来ない等、具体的な例、数字、根拠を示していました。だからこそ理解力が低い私でも私自身に問題がある事が想像出来ます。このような具体的な実例があるという事はそれはその人だけの主観にのみ基づいた物ではないはずです。
なのに、特定の人が無能かどうかを判断する前提として、人の考えや価値観によるものというのが先に来るという時点で考えとしてはおかしいと思わざるを得ないのです。どんな美辞麗句を使ったところでやっている事は客観的に見る事をほぼ放棄しているからです。しかし、これは無能ではない一般の人達に対してはこのやり方でも良いのでしょう。何故なら一般的な人達なら多少の違いはあれど個々の能力に大きな差は無いからだと思います(少なくともカウンセラーやそれに近い人達、或いは彼らと同じ様な考えをしている人はそう明言していました)。
ではどうしてこれが理解されないのか、それは冒頭に書いた通り「IQが20以上離れていると会話が成立しない」、これに尽きると思うのです。実際問題としてIQだけが会話が成立しない要因なのかは分かりませんが、本当の無能というのは他者に理解されるのは基本不可能だと思わざるを得ないのです。例えば誰でも出来ると言われるような事をやったとしても無能というのは何をやっても無能なのです、少なくとも自分はそうです。いくらやっても良くならないし、仮になったとしても一般的な人の何倍も時間が掛かる、スピードが命とされる現代では致命的な問題です。 恐らく一般的な人はそんな事考えなくてもどうにかなるのだと思います。五体満足な人が意識せず呼吸をしてるのと同じように、特に意識せずとも日々を過ごせるのだと思います。しかし前述したように本当の無能は違うんです。何をやってもダメだし、そもそも現状の問題点(無能の意味合いの齟齬)が一般の人には理解出来ない時点で既に土俵が違う、だから同じ目線で話すなんて事自体が無理筋なので話が平行線のままだと思わざるを得ません。それ故に本当の無能を理解するという事は一般の人には恐らくあまりに難しい事なのでしょう。しかしこれも仕方のない事だと思います、一般の人はそもそもそんな事を考える必要がないからです。自分の事が理解されないのは仕方がないとしても、一方的に真人間が当たり前のように出来る事を押し付けられるのも罵られるのもただしんどいです。
そう考えると「無能は死ねばいい」等と私に言ってきた人達にはむしろ共感を覚え、逆に「誰でも生きていて良い」という甘い言葉を囁く人達というのはそういった闇の部分を見ずに済んだ幸せな人達なのだなと思わざるを得ません。表立って無能は死ねと言うのが良いとは言いませんし、それが理想だとも思いませんが、少なくとも私は「無能は死ね」と私に言ってくる人達を責める気にはなれません。というのもこれは発言者からすればせめてもの慈悲に見えるからです。自分程の無能が他に居るとは考えられないので事実上自分の為になりますが、安楽死導入を切望しています。何をしても疎まれる人がどうして生きなければいけないのか、納得どころか理解出来る説明を私は知りません。
感想1
私はプロでない人の文章をわりとたくさん読んできた方だと思いますが、この経験談の文章は比較的まとまっている方に属するよ、とまず伝えたくなりました。これは励ましの意図ではなく、私は事実にこだわる理屈っぽい人間なので、単純につっこみたい気持ちが抑えられずに書いてしまいました。
私は、無能と世間では言われるだろう人、IQという指標でいうと極端な人(支援や教育の業界にいたので、相手のIQを実際に知っているケースが結構あり、平均より大きく高い人低い人両方を知っています)と関わってきた機会が多い方だと自負しています。その経験や感覚で言うと、あなたの「自分は絶対的な無能で、話が通じないのはIQが20離れているから」という認識は全然しっくりこなかったというのが正直なところです。ただ、あなたがそう感じていること、その根拠になると感じる経験を重ねてきたことは経験談でよく伝わってきましたし、それを否定する気は勿論ありません。また、そもそも、自分の生きづらさをどう解釈するかはその人の自由だと私は思っています。だから私があなたの認識に対して、「私はこう感じる」と感想を述べることを、あなたの認識への否定だと捉えないでもらえると助かります。事実は一つですが、解釈が人と場合の数だけあることは、自我というものの性質上、どうしようもないことなのです。
まず一つ(あなたへというよりは、主に全員に対して)言いたいのは、「存在自体がゴミ」とか「生きる資格がない」とかの発言は、ある意味では言葉ですらないということです。それらの言葉は、自分の鬱憤をぶつけるためや他者を打ちのめすための「道具」として使われているだけだと私は思います。例えるなら、動物が好きな方には申し訳ない例えですが、犬がマウントして吠えているとかに近いと思います。今の日本社会では、他にも励ますためや操作するためなど、意図をもって言葉が使われることが多いと私は感じていて、言葉が伝達ツールとして活用されていることは少ない気がします。その観点でいうと、あなたの文章は今の日本社会では珍しく、伝えることを目的とした言葉だと私は思いました。
その論をさらにあなたの経験談に当てはめていくと、あなたが立場が上の人に無能だと言われ続けるのは、相手の求める実務能力などに満たないという側面よりも、否定の言葉をを吐いていい対象とみなされる側面の方にポイントがあるかも…?という仮説が浮かんできます。それは反抗してこないだろうと思われているからかもしれませんし、何かしら感情を刺激してしまうからかもしれませんし、その他の要素からかもしれません。ただ、どんな要素があろうとそれは相手を強い言葉で否定していい理由にはならないことを、私は世間に向けてここで宣言しておきたいです。
私があなたについて思ったのは、理解に自分なりの厳密さがあり、それが他者の視点では揺らがないという、自分軸(という言い方はちょっとニュアンスとして雑かもですが)が強くあるということです。自分軸の偏差値があるのだとしたら、私の体感としては70程度はあると思います。その偏差値が高くて得をする機会よりは、損をする機会の方が多いかもしれませんが…。
これは、生きるスタイルにおいて感情と比較して思考が優位だと言えるかもしれませんし、性質的にはこだわりが強いといった言い方もできるかもしれません。あなたの生きてきた世界そして歴史から考えれば、違和感がありすぎて自分の感覚がありありと浮き上がってしまう、意識せざるをえない、という側面があるかもしれません。
世界への違和感やモヤモヤ、ストレスやしんどさがあるほど、人は厳密な自分なりの言葉と理解を求めるのだろうと思います。逆に、なんとなくうまくいっていて困ってないなら、考える必要性はあまりない気がします。
だから、あなたが理解されないと感じる背景の一つとしては、生きづらさから切実に言葉を必要し突き詰めるあなたと、なんとなくや感情で気軽に言葉を扱う周りとで、言葉へのスタンスにかなり大きなギャップがあるのが関係していそうに私は思いました。
これもどちらかというと世間向けに言いたいことになるのですが、「無能」という概念について私はとても懐疑的です。確かに一つの基準を定めると、その基準に関しての優劣は存在します。身長、テストの点数、100m走の記録、万人受けする性格、事務能力の高さ…無数に比較の指標はあります。それらのいくつかを総合した、いわゆる今の社会への適合度でも優劣はある程度つけられるでしょう。ただ、その今の社会の適合度みたいなものが、私にはあまりに偏った、生きる本質からかけ離れたものだと思えてなりません。
生きることは、自然環境を守りながら、衣食住をみんなで確保し、存在を認め合い、苦手を補い合い、弱ったときは互いに助け合うことだと私は思っています。その指標で言わせて貰えば、学校やらビジネスやらで優れているとか有能と言われる人間の中に、有能といえる人はほとんどいないと私は感じます。自然を破壊しながら生きて、家も建てれなければ、火もおこせず、農業もできなく、知らず知らずまたは時に容赦なく誰かの存在を否定してるのではないでしょうか。とはいえ自分もその指標では無能寄りですが、生きる本質への自分を省みることなく自分を有能だと思っているなら、それは視野の狭い勘違いである、と私は言いたくなってしまいます。
書きたいことを好き勝手書くような感想になってしまい失礼しました。経験談の投稿、ありがとうございました。