自分が全ての環境に適合しない気がします。
4年間も引きこもってやっと就職した先でも数ヶ月で2回会社を辞め、今も引きこもっています。大人になってから精神科でADHDと社会不安障害と言われました。
今振り返ると小学校の頃から自分は普通じゃなかったんだと遅れて気付かされました
提出物は出さなかったし、そもそも家で勉強したことがありませんでした。どれもこれもADHDのせいにしたいけど、自分がやる気を出せていれば、もう少し真面目だったなら勉強もできたのかとか、後悔してもキリが無いって分かってるはずなのに、もう大人にならなきゃいけないのに、いつまでもこんなことを考えています。会社じゃ仕事が遅すぎるし、ミスも多いしで次第に自分の評判は悪くなっていくし、そもそも車通勤に不安があることの2つの問題を自力で解決できなくて結局会社を辞めました。自分でも何やってるんだろうと悲しくなります。感情に振り回されてる子どものようだと思います。未だに学校で先生や先輩、同級生から言われたことを思い出して悔しくなったり申し訳ないと思ったり、こんなことは時間を無駄にするだけだと分かっているのにいつまでも思い出す。
カウンセラーに相談するのも最近は時間の無駄だなとしか思えなくなりました。どうせ自分がどんな思いをしてきたかなんて分かりようがないし、自分が何百回思いついたか分からないようなアドバイスしか言われないし、結局現実は変わらない。
こうやって勝手に無駄だ無駄だと削ぎ落とすからどの環境にも適合出来ないんでしょうね。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
上手くいったことがない
感想2
最初の一文に、勝手ながら深く共感し感想を書いています。社会人になってから特性が発覚し幼少期の答え合わせが起きること、「特性の影響を乗り越えられない」という自己否定感
についても、身に覚えがありすぎました(特性は乗り越えなきゃいけないようなものではない、1つの性質の話、と頭ではわかりつつなのですが)。
私はこれまで「どこにいても上手くやれない」という感覚を他人に話してもあまり理解されたことがないので、あなたもそうだろうかと感じ、あえて共感を伝えさせてもらいました。
「子どものようだ」という言葉が特に印象的でした。相対的に考えると「大人らしさ」は感情を抑えて淡々と役割をこなすことや、生産性のあることを選択すること等でしょうか。たしかに大人として社会に適応し続けるには必要なことなのだろうと思いつつ、「じゃあ私(あなた)の”嫌だ”はどこにいくんだろう?」と思ってしまう私がいます。実際、その時々の自分の心が求めていない言葉やアドバイスを投げかけられるのは疲れてしまうし、不安や居心地の悪さを抱えたままその場に留まることも苦しいと思います。それは決して「勝手な削ぎ落し」ではなくあなたが自分と向き合った「判断」の結果だと私は思うのですが、そう思えない(自分を責めるしかない)社会ってなんだろうなあと…。その点で、あなたが自分自身に対して悲しくなったり、皮肉を言わなければならない背景には、社会の不寛容さが横たわっているように思いました。なので社会のほうが変わってほしい(変えていきたい)と私はずっと思っていますが、そう簡単には変わらず、同時に自分自身が社会から離れても社会(他者)のほうから追いかけてくれるわけではないので、そこが何より悩ましいなと感じます。こちらが適応するばかりでなく、歩み寄り合える社会にしたいなあと思います。
感想1
「無駄だ無駄だと削ぎ落とすからどの環境にも適合出来ないんでしょうね」という文章が、世の中への皮肉にも感じ、呼び止められた気がしました。「多様性」「一人一人違っていい」という言葉を謳い文句にしつつ、社会がガイドするような選択肢しか広がってこなかった結果、それを選択しなかった、できなかった人々が生き難さを持つ世の中になっているような気がします。「ちゃんと」「きれいに」「早く」「人に迷惑をかけない」などの言葉が、子どもの時の学校からそして大人になった職場にまで当たり前の価値として定着しきっています。いびつな社会が原因で、あなたがうまくいかないと思うことが多かったのかもしれない。誰かのできないやしないが、誰かの役割や仕事になり、なんとなく社会を形成している、このまぎれもない事実を誰かとしっかりと確認し合いたいと思ったりします。あなたは何も悪くない。周囲に対しての申し訳なさや劣っていると思う気持ちが、これまでたくさん散り積もり自分自身を埋めてしまった。埋もれた自分を見つけ出し、喉が渇いてないかとお水を渡してあげて欲しいそんな気持ちになりました。投稿いただき、ありがとうございました。