経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

あなたの存在が恥ずかしい

ずっと苦しい。今も。
子どもの頃、優しくて面白くて、尊敬の対象だったお母さんは変わってしまった。お父さんの長年の海外への単身赴任でお母さんが1人で家を受け持つことが増え、お父さんが帰ってくるたび喧嘩、二人がお金の話で揉めて離婚しようと言った夜中、私が二人の間を取り持ち話を聞いていた。その日を境にお父さんは家で笑わなくなった。お母さんは家で傲慢になっていった。姉が上京してお母さんと1人取り残された家で、私はお母さんの言いなりになった。まずお母さんはほとんどご飯を作らなくなった。あなたの手料理はもう2年くらいはろくに食べていない。姉が帰省したときにだけ豪華な手料理が並ぶ食卓にも慣れた。もう傷つかない。あなたがゲームで負けた時にチームメンバーに言う悪口は幼稚で耐えられない。ゲームごとき、とは思うけど普段からそんなふうに考えてるんだと思ってその幼稚さに、幼稚な親を持つ自分に吐き気がする。毎日夜ご飯を私に作らせるための仕事疲れた、の一言。老犬の排泄物を私が処理するまでほったらかしにする姿勢。朝起きるとあなたはゲームをしていて、床には犬の排泄物が落ちている。匂いはひどく、なぜ処理しないのか聞くと面倒臭いから。私はあなたが恥ずかしい。許せない。苦しい。
私が短期間の海外留学に行った時、愛犬は痩せ細っていて、家は綺麗になっていた。なぜなのかも考えるだけで苦しい。容易に想像がつく。昔は一番可愛がっていたのに。
今大好きな付き合っている人がいて、結婚したいと思うけど、いつかこんな不衛生な家で、こんな親で(しかも両親とも)育ったのかと明かすんだと思うと、しにたくなる。嫌われる前にしにたい。振られる前に死にたい。
親に愛情をいっぱいもらったんだろうなって伝わる友達といると、苦しい。
親が子供のことをどれだけ大切に思っているか〜みたいなドラマとかを見ると、私には一生経験できないものなんだなって、むなしい。
将来こどももほしいけど、あんな人がおじいちゃんおばあちゃんとして自分の子供に接すると考えると本当になんか死にたくなる。
家でも、家の外でも両親のことでしぬまでしんどいならもうしにたい。
誰かに頼る方法も甘える方法も愛される方法も知らない。きっと彼にもいつか振られる。このまま何も手に入れられない人生かもしれない、ずっと心が空っぽでどこかであきらめているみたいな、そんな人生だと思うともう生きている意味がないと思う

感想1

投稿読みました。“親が変わってしまった”ということそのものよりも、その変化を止められなかった自分、引き受けてしまった自分について長年責める気持ちと、そんな気持ちを理解されることなく取り残されてきた現状への疲弊感が伝わってきました。両親の不仲によって、仲裁役を担わされる経験は、私もあなたと全く一緒というわけではないですが経験しているので決して他人事とは思えませんでした。本来背負う必要のない重さだったはずですし、その時から家庭の空気が静かに歪み、笑わなくなったお父さんと、支配的になっていったお母さんの間で、安心できる場所が少しずつ失われていったのではないでしょうか。
どことなく「慣れた」「もう傷つかない」という言葉を繰り返し自分に言い聞かせているような印象を抱き、そう言い聞かせないとやってられない切実さがあるように思いました。食事を作らなくなったこと、犬の世話の放棄、幼稚な暴言や不衛生な環境など日常として積み重なれば、尊厳をじわじわと削っていくものだと感じます。怒りや嫌悪を抱く一方で、“幼稚な親を持つ自分に吐き気がする”という感情にまで矛先が向いてしまうところに、家庭内で長く抑え込まれてきた自己否定がそれだけ深く刻まれているのではないかと私は感じました。
また、今のパートナーとの関係についての不安も、ただの恋愛の悩みというより、“自分の現状を知られた瞬間に価値が失われるのではないか”という恐れに近いように私には思えました。家庭環境を“恥”として背負わされてきたことで、将来や子どもを思い描くほど、親の影が重くのしかかるのは個人の弱さではなくて、家族神話や「親は無条件に尊敬すべき存在」という社会的な前提が強いほど、より苦しくなるものなのかなと改めてあなたの文章を読んで思うことですし、自分でどうにかできる問題ではない中でどう折り合いをつければいいのかとぐるぐる考えてしまっています…。
また、「頼り方も甘え方も愛され方も知らない」という言葉から、学ぶ機会をずっと奪われてきたのだと感じますし、親から与えられるはずだった安全な関係性のモデルがないまま大人になると、どれだけ誠実に人と向き合っても、心のどこかで「どうせ失う」という諦めが先に立ってしまうものだと自分を振り返っても思うことです。その空っぽさは、あなた自身の気の持ちようでは決してないですし、長く続いた後遺症であると私は思います。
家の中でも外でも、親という存在がある限りついて回る苦しさ…その現実を直視しているからこそ、「生きる意味がわからない」という言葉があなたの中に湧いてきてしまうのだと感じました。まずは、ここまで一人で耐えてきた時間と、その中で失われたものの重みを、そのままの形で私は受け止めたいと思ったということをお伝えして感想とさせていただきます。また死にトリがあなたにとって必要に感じられたらいつでも訪れてほしいです。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

言葉に乗った温度と体重、それだけ切実な思いを感じながら読ませていただきました。
子どもの頃から、あなた自身の気持ちや安心できる空間、自己決定の権利がすこしずつ親の都合に塗り変わっていった様子を感じ取りました。それに伴って親に対する心の距離も生まれ、あったはずの信頼が失望に変化していったのでしょうか。
勝手な推測ですが、あなたはかなり早い段階で両親の関係性を取り持つという「役割」を必死に果たすようになったのだと思うので、その点で「親」や「大人」としての責任を放棄した両親に対してより一層強い「許容できなさ」を抱き、苦しんできたように想像しました。

また心の距離の反面、親の身勝手さに振り回され続けることで次第に「自分(あなた)」の自己像と家庭環境の結びつきが(望まざるとも)強くなってしまい、親に対する怒りや失望が自分自身にもまるごと向くようになっているのかなと感じました。何をしていても、どんな存在を手にしても、常に「恥ずかしい」と感じる親や家庭環境の「影」がつきまとい引っ張ってくるような感覚が、あなたの「”自分の人生”感」を薄めて(奪われて)いるように思えました。自分だけでどうにかできる範疇はきっと超えているのに、切り離そうとすると自分の身を切るような形になってしまう…そんな痛みとして受け取りました。

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