経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
孤独の中で生き延びてきた自分の記録
自分の人生を整理させてください。
初めて「死にたい」と思ったのは小学6年生のときでした。悪いことをしてしまい、自分の犯した罪の重さに押しつぶされ、自分をずっと責め続けていました。そのときは数ヶ月で気持ちは落ち着きましたが、中学1年生になると、仲間外れにあい、また「死にたい」という気持ちが湧いてきました。小6のときよりも深く、根強いものでした。
元々明るい性格だった私は、人に相談することが怖く、「私のキャラじゃない」と思い込んでいました。そこから母親への反抗期も重なり、家も落ち着ける場所ではなくなりました。兄弟とも会話が減り、孤独感がどんどん強くなっていきました。学校へ行くことが苦痛で、自傷行為をするようになりました。
先生に伝えても軽く扱われたり、無視されたりしましたが、「自傷している」と告げた瞬間だけ心配そうな言葉をかけられました。とても悲しかったし、「相談しても無意味なんだ」と思うようになり、ますます独りで抱え込むようになりました。
なんとか中学校を卒業し、高校入学の頃、私は双極性障害と対人恐怖症と診断されました。スマホを持つようになり、逃げ込んだ先はネットでした。病み垢を作って感情を吐き出し、ネットだけが唯一の救いのように感じていました。しかし、リアルの人間関係だけでなく、ネットの人間関係にも悩むようになり、自傷行為や自殺未遂はどんどん酷くなっていきました。
本当は母親に「頑張ったね」と抱きしめてほしかった。それが叶わなかった分、今は過去の自分に優しい言葉をかけてあげたいと思っています。
今も気分の波はありますし、「死にたい」と思う日もあります。それでも、以前より自分の状態を客観的に見つめられるようになりました。これからも少しずつ、自分を理解するための自己分析を続けていきたいと思っています。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます。
タイトルがいいなぁと、稚拙な語彙ですが、真っ先にそんなことを思いました。
文字の向こう側にいるあなたはいま何歳で、どんな環境に身を置いているのだろうかと想像しながら、これまでのことを読ませていただきました。
状況は違いますが、お返事を書いている私も同学年の頃に同じ思いを抱いていたことがありました。なので、勝手に仲間を見つけたような気持ちになりました。
大人になってふりかえってみると、学齢期の自分の世界は「家」と「学校」の二つしかなかったように思います。
自分の苦しさをどう表出していいか分からないまま、なす術もなく、ただただ日々が過ぎるのを待つしかなかったような、そんな時間を思い出しています。
自分の心をひらいて、思っていることや考えていることを人に話すことは、実はとても勇気のいることだと私は思っています。
「私のキャラじゃない」と思い込んでいました、と書かれていましたが、他者に内面を覗かれる恐怖とともに、周囲からどう見られるのだろうかという不安の中で、防衛的な反応でもあったように感じました。
相談しても取り合ってもらえなかったり、極端な発信をするときだけ関心を向けられることは、傷つく経験になってしまったことを感じています。
「相談する」ということに不信感を抱くのも無理のないことだと私は思いました。
人間関係に追われ悩みながらも、わずかでも自分で自分の手を離さない瞬間を、積み上げてきたように感じました。
望みは叶わないのかもしれませんが、あなたの日々はまさにタイトルの通り「生き延びてきた」ことだと、私は思いました。
私もまた、自分を見つめ、知ろうとすることを諦めずにいたいなと思います。
またよかったらお話を聞かせて下さい。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます。
タイトルがいいなぁと、稚拙な語彙ですが、真っ先にそんなことを思いました。
文字の向こう側にいるあなたはいま何歳で、どんな環境に身を置いているのだろうかと想像しながら、これまでのことを読ませていただきました。
状況は違いますが、お返事を書いている私も同学年の頃に同じ思いを抱いていたことがありました。なので、勝手に仲間を見つけたような気持ちになりました。
大人になってふりかえってみると、学齢期の自分の世界は「家」と「学校」の二つしかなかったように思います。
自分の苦しさをどう表出していいか分からないまま、なす術もなく、ただただ日々が過ぎるのを待つしかなかったような、そんな時間を思い出しています。
自分の心をひらいて、思っていることや考えていることを人に話すことは、実はとても勇気のいることだと私は思っています。
「私のキャラじゃない」と思い込んでいました、と書かれていましたが、他者に内面を覗かれる恐怖とともに、周囲からどう見られるのだろうかという不安の中で、防衛的な反応でもあったように感じました。
相談しても取り合ってもらえなかったり、極端な発信をするときだけ関心を向けられることは、傷つく経験になってしまったことを感じています。
「相談する」ということに不信感を抱くのも無理のないことだと私は思いました。
人間関係に追われ悩みながらも、わずかでも自分で自分の手を離さない瞬間を、積み上げてきたように感じました。
望みは叶わないのかもしれませんが、あなたの日々はまさにタイトルの通り「生き延びてきた」ことだと、私は思いました。
私もまた、自分を見つめ、知ろうとすることを諦めずにいたいなと思います。
またよかったらお話を聞かせて下さい。