現在高三です。躁鬱気味です。(最近は躁の時も少なくなりました) 僕が「チェーホフの銃」という言葉を知ったのはの去年だったと思います。この言葉は、「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。」というロシアの劇作家チェーホフの格言に由来する概念です。言い換えれば、創作物語において全ての伏線は必ず回収されるというものです。この言葉を知った時、僕が苦しんでいる理由は、僕の人生に横たわったまま回収されなかった無限の伏線ゆえなのだと思いました。恋愛、部活、勉強、友達、進路、僕にはたくさんの未練があります。そしてそれらを思い返しては、「どこで間違えてしまったんだろう」と死にたくなることが多いです。もちろん、拳銃の引き金をひけなかったのは僕が弱いからです。
恋愛を例に出すと、入学式の日に桜の木の下で声をかけられるのは紛れもない伏線です。しかしその後同じクラスになって、連絡先を聞くのは自分の決断しだいです。もしその後想いを伝えることなく卒業してしまったら(告白すらできなかったら)、あと引き金を引くだけの状態だった拳銃はその後の人生にずっと未練としてぶら下がったままです。壊れてなくなってしまったりもしてくれません。勉強面も同じです。昔あの大学のパンフレットを見たり、あの大学の卒業生の話を聞いたりしても、気づけば高三です。こんな自分ではなかったと思っても、もう既に間に合わなかったりします。試合で活躍することを夢みて入った部活を途中で辞めてしまったり、未来を語った友達と疎遠になったりもしました。
このまま何者にもなれずに終わるなら、もうあまり生きる意味を感じません。僕は今後の長い人生で、山積みになるであろう発射されなかった拳銃の重みに耐え切れる気がしないのです。人生の(青春の)前半に出てきた伏線を回収できなかったのは全部僕に勇気や覚悟がなかったからなのですが。
毎日、人生を映画にしたらカットされるであろうくだりを何度も何度も繰り返して、今日を繋いでいます。別にそれほど見たくもないのに、その間は他に何も考えなくていいし面白いと思えるからtwitter やYouTubeを見る生活です。生きている気がしません。典型的な鬱症状なのでなのでしょうか。最も僕の人生を映画にしても、逃してきた伏線が多すぎてクライマックスがなさそうですが。
悲観的なことを言いましたが、積極的に死にたいなんて思ってないし面白みのない映画をつくりたい訳でもありません。僕はどうせなら世界に名前を残したいです。一年浪人してシンガポール国立大学(東大より上♪♪🤩)を目指そうと思います。鬱のきっかけは、かつて天才だった自分が落ちこぼれてしまい自信を失ったことだと思うからです。そしてある程度勇気を取り戻したら(たとえ上記の大学に行かなくても)通り過ぎてしまった伏線を一つずつ遡って回収していければいいなと思っています。(昔好きだった人に会いに行く、バスケやバンドをまた初めてみる、新しくできた友達と今後こそ起業する等)
P.S.
なんかカッコつけて書いちゃいましたが、相変わらず鬱ですし孤独感は拭えないし、25過ぎても相変わらず納得できないような人生ならもう死んじゃいたいにゃん。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます。
小説のようなタイトルに目を引かれて読みました。「チェーホフの銃」という言葉は知らなかったので、思わず調べてしまいました。
自分が選ばなかった、あるいは選べなかった選択肢を「人生に横たわったまま回収されなかった無限の伏線」と表現しているところに、あなたの感性の豊かさを感じました。
誰しも「あの時こうしていれば・・」と嘆いたり悔やむことは大なり小なりありますが、あなたが自分の行動や選択を「間違えた」と捉えていることが印象に残りました。
選択という行為には何かと自己責任の考え方がつきまといますが、実際には個人の意思以外にも多くの要素や状況が複雑に絡むように私は思います。「引き金をひけなかったのは僕が弱いからです」とも書かれていましたが、私にはあなたが間違っているとも、弱いとも思えずにいます。
入学式の日に桜の木の下で声をかけられる・・確かに「物語」であれば伏線なのかもしれませんが、現実において回収を前提とした伏線は存在するのだろうかと考えています。もしかすると、選ばなかった選択肢を「あれは伏線だったのかもしれない」と何かしらの意味合いや解釈を見出すことで消化しようとしているのかなと、そんなことを思っています。
「こんな自分ではなかった」との言葉がありましたが、「未練」と表現された不全感の背後には、理想の自己像との対峙や、周囲との比較による焦りや不安が表れているように感じました。
「このまま何者にもなれず終わるなら、もうあまり生きる意味を感じません」と書かれていましたが、言い換えると「何者かにならなければ自分には価値がない」と感じている、ということでもあるのでしょうか。あるいは「人生の手応えをもっと感じたい」という純粋な願いのようなものでしょうか。
現代の社会を生きる私たちは、絶えず「何者であるか」の物差しで測られ、何をするのか、何ができるのか、何を持っているのかと常に問われているように感じます。そういった価値観が内面化されると、やがて自分の中でいつまでも終わらない競争が始まるように私は感じます。人の生き様はもっと深く多面的であり、物語のようにはいかない瞬間がたくさんあるところに、面白さや語れることがあるように思ったりします。
追伸に書かれた25という年齢は、あなたの中で何かしら節目を考える数字なのでしょうか。
過去の出来事や選択をどのように受け入れるかは、これから積み重ねていく「時間」や「経験」によっても変わっていくんじゃないかと私は思っています。
思ったことをつらつらと書いてしまいましたが、あなたがあなたらしくいられる日々を過ごしてほしいなと、陰ながら応援したい思いでいます。