経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

贅沢な悩み

私はごく一般的な、なんなら少し他の家族より仲の良い家庭で生まれ育ちました。頭も平均より上の方。地元ではそこそこいい進学校に行って、大学では好きなことを学んで、憧れだった職業にもついて。なんだって話せる親友もいる。職場は優しい人ばかり。ほんと、かなり恵まれた環境で生きてきた(そして現在進行形で生きている)と思います。

けれど、私は死にたくてたまりません。

正確には、「生きたいと思えない」「生きている限り、私の苦しみは終わらない」「苦しみを終わらせるために死にたい」と思いながら、日々を過ごしています。

理由は本当に贅沢なものです。
家族のために、友達のために、他人のために生き続けてしまうのが嫌だから。
「生きてほしい」と思われているその願いを叶えるために今生きている私にとって、「死にたいという気持ちにしたがって死ぬこと」が一番の自己実現になるから。

小さい時からわがままを言わない子だと言われてきました。あまり自我のない子どもだったのでしょう。気づいたらできるだけ両親が喜ぶことを選んで、物事を選択するように生きていました。両親はとても真面目で愛情深く、私のためにたくさん考えていろんなことをさせてくれました。そして当時の私にとって「やりたいこと」=「両親が喜んでくれること」でした。
習い事をいくつかさせてもらいましたが、別にどれひとつ自分でやりたいと言った記憶はありません。「やってみない?」と言われて、やってほしそうだったからやりました。進学先は父が行った学校を選びました。父の家系の人はみんなそこだったし、何より地元で一番の学校だったから。大学も、就職先も、実家からそう遠くない場所を選びました。父が「遠くに行かないで」「何かあったときに近くにいてほしい」と乞うから。そして今は最低でも1シーズンに1回は実家に帰省して、家族の時間を過ごすようにしています。「次はいつ帰ってくるの?」「毎週末帰ってきていいんだよ」「今度親戚が来るから顔出しにきて」「おじいちゃんが入院することになったから帰ってきて」「仕事とか忙しいかもしれないけど、家族優先でしょ?」などなど定期的に連絡が来るものもあれば、緊急で呼び出されることも。
大学受験の時、私はプレッシャーに押しつぶされて一度壊れたので、大学や就職先は別に親の意向を汲まない選択肢を選ぼうと思えばきっと選べました。壊れた時に、自分が親の期待という呪縛に囚われていることに気づいたのです。けれど、壊れてしまった反動で、勉強をしなければならない状況に対してトラウマのようなものができてしまい、受験期も就活時もひどくメンタルの調子を崩して思うような動きができませんでした。その結果、地元近くの場所でしか私は行き先を選べませんでした。
たどり着いた大学も就職先も、本当にいい場所で、胸を張って好きな場所だと言えます。でも、そこにたどり着くまでの過程で負った傷がずっと消えなくて。冬になると、その頃の気持ちがフラッシュバックして毎年メンタルの調子を崩します。

私には家族の次に大事な親友が一人います。
彼女には家族に話せないことも話せるし、何かあったら自分の命に代えてでも助けたいとすら思っています。
彼女とは幼馴染で、気づいたら仲良くなって気づいたらいつも一緒にいました。きっと小さい頃に出会ってなければ一生仲良くならなかっただろうな、というくらい性格は違うし、喧嘩もたくさんしてきたけれど、私のダメなところをちゃんと叱ってくれる貴重な友人です。
本当にいい友人だけれど、彼女は少し私への当たりが強くなりがちです。
「足臭い」「口臭い」「メイク下手」「下っ腹でてるよ」「なんでもっと自分大事にしないの?無理して合わせられる方が迷惑」「どんくさいなぁ」
どれも本当のことだし、友人としては私に改善してほしいから強く言っているだけなんですが、傍からみると言葉が強くて基本引かれます。私がいじめられているみたいに見えますし。でも本当は私が被害者顔してるだけで、友人の言ってることの方が正しいのです。
本当は私の方が友人よりもズボラで汚部屋だし、人に迷惑かけるようなお酒の失敗たくさんあるし、化粧はしないし、時には不貞だって働くのに、見た目は正反対の印象しか持たれないから、友人は私が周りから「良い人」だと思われることにとてもいらだつのだそうです。
たまに合う休日は基本一緒に何かするし、言葉が強すぎるだけでちゃんと私の性格を鑑みて言ってくれていることもわかってはいますが、心が弱っている時は彼女から飛んでくる言葉の槍に「本当は嫌いなんじゃないか」と思うこともあります。
しかし、彼女は私に「死ぬな」と言うのです。「自分が死ぬより先に死ぬことを許さない。死んだら殺す」と。せめて死ぬときは「今から死ぬ」と連絡しろと。
そう言われる度に、彼女もまた少しいびつな愛を持った人だなと思います。

そしてこうやって形成されてきた私は、他人に対して基本イエスマンでいてしまいます。別にひどく無理してる自覚はありません。でも気づいたら小さい我慢をたくさんしながら、人との付き合いをしています。来るもの拒まず、去るもの追わずの人付き合いをしてるので、気づいたら「構って欲しいタイプの人」ばかりが周りにいて、ある日急にそれに応えるのに疲れて連絡を絶ってしまったりします。
仕事ではきつそうな人の仕事の手伝いを、自分もきつい中してしまうから、いつも夜中まで仕事をしてしまいます。仕事は嫌いじゃありません。残業も別に人より苦に思いません。だから色々引き受けてやるのに、気づいたら引き受けたものたちに押し潰されて動けなくなっています。

私にとって家族も、友人も、本当に大事で特別な人たちで。私にたくさんのものを与えてくれた人たちなのだけど。
大事だからこそ、家族や友人の望むことを多少無理してでも叶えようとしてしまう自分が嫌なのです。
別に彼らは私に心身を疲弊させるほど尽くして欲しいなんて思っていません。ただ勝手に私が合わせてしまうだけです。なんの拘束力だってありません。でももうこの癖は染みついてなかなか剥がせないのです。

だってあなたの人生なんだから好きなことをして良いんだよ、という癖に、私がしたいと言ったこと、ほとんど肯定してくれたことも応援してくれたこともないじゃない。
だってもっと自分を大切に、あなたはそんなに能力の低い人間じゃないっていう癖に、「なんでそんなこともできないの?」って私がしてしまったことを永遠に咎めるじゃない。

あなたたちが許す範囲で動く以外、私はどうしたら良かったの。

全ては私が勝手に「そう望まれている」と思って生きてきてしまったのが悪いのだけど。今からこれをどうら改善したら良いのか、もうわからないのです。
これでも色々改善しようとしてきました。
その度に絶望してきました。
「ああ、私はまた同じことを繰り返している」

それでも私は今日も生きています。
社会が自ら死ぬことを良しとしないから。
家族が悲しむから。
親友が死ぬなと言ったから。
それでも私の心は死んでいます。

感想1

これまで他者からあなたに向けられてきた言葉や態度を、ゆるやかな自己否定だと感じながら読ませてもらいました。家族というつながりを重んじられることや、厳しさの中にあるやさしさ、積極的で明確な暴力を受けないこと…どれも「恵まれている」というふうに表現することが出来得る一方で、あなた自身の言葉や感情を静かに掠め取るような、じんわりと自己主張の筋力を奪われるような、そんな側面も確かにあったのではないかなと感じました。これを書いている私自身の育ちにも多少通ずるところがあるため、目に見えて何かを奪われてはこなかったはずだが死にたいという気持ちに、勝手ながら共感を抱いています。

あなたはかなり早い段階で、親が求めているものを見つけ、それに応えるという判断軸を手にしていたのかなと想像しました。それ自体は、幼い時点ではある意味自然なことだったのかもしれません。しかし年齢を重ねていき、あなたの中で自分なりの主張や価値観が生まれてきた一方で、親側は「子どもに対しての接し方(要求)」を手放さず、それが結果的にあなたの「自己」を育てることを阻み、他者に応答しつづけるルートに誘導していったようなイメージが浮かびました。個人的に、「応答」は相手の要求にこたえることだけではなく、相手の一挙手一投足に自分の心が反応する(そして定着する)ことも含まれていると思っているので、トラウマとして残ったり、言葉が槍のように刺さったりすることもその一環なのかな…と推測したところです。

大学受験時には一度、呪縛に気付いたタイミングがあったとも書かれていました。たしかに、理屈としてはそこが親の意向を汲まないきっかけになり得たのかもしれないと感じますが、「自分で決める」「自分がどうしたいのか」と急に自分に問いかけても、それまでの積み重ね(自己決定の練習機会のようなもの)がないとなかなか難しいのではないかと私は思いました。これまでに応じてきたものを「応じない」という行動に変えることは、エネルギーを使うことであり、同時に自分が悪いわけじゃないはずなのに謎の罪悪感が生まれる判断でもあると感じます。小さな我慢を積み重ねて心を殺していくことと、これまでのものを跳ね除けることに大きなエネルギーを割いて(しかも傷つくかもしれない)こと…できることなら、天秤にかけたくないなと思います(かけないと日々を過ごせないこともあるよなと思いつつ…)。

他者の意向を汲むことは悪いことではないはずで、その対応を相手がどう扱うかまではこちらでは選びようがなく、自分と他者はいつでも飛び越えてしまえるような薄い壁で隔てられているだけ(壁ですらない場合もある)の、容易に互いに影響し合えてしまうような存在なのだろうなと時々考えます。だからこそ、きっと私たちが思うよりも人は人に振り回されていて、それは責めることでも不自然なことでもないんじゃないかなと。その難しさと、それでもやっぱり苦しい心の内について、よければまたここで言葉を交わせたらなと思います。改めて、投稿いただきありがとうございました。

感想2

書き込み読ませていただきました。
まず、贅沢な悩みというより、社会的な動物である人間の根源的な悩みだという感想を持ちました。
人間は脳が大きくなったことで、未熟な状態で産まれてきます。誰かから育ててもらわないと生きられない状態で産まれてくるわけですから身近な人達の中で生きるためのふるまいを身に着けます。
なので大なり小なり誰しもが身近な人に好かれるふるまいをしてしまうし、好かれるための思考を刷り込まれてしまうのが人間だという気がします。それから脱するために反抗期があります。
あなたの文章からは、ある種の怒りを感じました。
それは適切に反抗期を過ごすことができなかっことで湧き出ているようにも思いましたし、自分の感情をどこか殺していきてきた人間の怒りというようにも感じました。

特に下記の文章

あなたの人生なんだから好きなことをして良いんだよ、という癖に、私がしたいと言ったこと、ほとんど肯定してくれたことも応援してくれたこともないじゃない。
だってもっと自分を大切に、あなたはそんなに能力の低い人間じゃないっていう癖に、「なんでそんなこともできないの?」って私がしてしまったことを永遠に咎めるじゃない。
あなたたちが許す範囲で動く以外、私はどうしたら良かったの。

この文章からは言葉と本音の解離が感じられます。本当は心で感じていることがたくさん言葉に押し込められてしまったんだろうなと想像します。
あなたが心の奥で感じている怒りや悲しさは誰からも否定されるものではありません。
唯一無二のあなた自身が感じた痛み、怒り、苦しみ、それらはあなたがここに居る証拠でもありますし、それは全部正当なものだとわたしは思います。
ご友人のことも気になりました。本当は傷つくことも多いのではないでしょうか。本音というのは難いですよね。その時には分からず、あとでじりじりと感じる感情もあるし、言えないことも多々あります。
あなたがあなたの感情や怒りを表現する場や時間は今ある環境にはないんだろうと思います。死ぬことが唯一の自己肯定のように感じているかもしれませんが、そうではないと思います。
同じような苦しみを多くの人々が感じていると思いますし、私もその一人です。音楽や演劇や絵画や多くの表現にもそうした怒りは隠れているし、どこかで自分の怒りを共有できる場と出会ってほしいなと思わずにはいられませんでした。

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