わたしの世界は、静かだ。
静かすぎて、耳鳴りすら心の音のように響く。
誰かが笑っている。誰かが話している。
けれど、その輪の中に自分の席はない。
わたしはただ、空気のようにそこにいる。
「いつも笑顔の子」と呼ばれながら、
その笑顔のほとんどは、空気に馴染むための仮面だ。
皮膚をめくる。
口の中の皮を噛み千切る。
痛みが走るたび、心の鈍いざらつきが少しだけ静まる。
シャーペンの先で皮膚を削ると、そこに赤が滲む。
血の色を見ると、不思議と安心する。
「わたしはまだ、生きている」
そう確かめられるから。
けれど、治りかけの皮膚をまた剥ぐ。
傷はいつまでも癒えない。
それがまるで、わたしの心のようで笑えてくる。
笑うといっても、可笑しさなんてない。
教室の中、窓際の席。
光の中で他人の笑顔がまぶしすぎて、
「いいな」とすら思えない。
羨ましいという感情も、とっくに壊れてしまったらしい。
だからわたしは、静かに笑う。
何も感じないまま、心が壊れた音だけが、
自分の中で響いている。
去年の失恋のあと、何かが完全に止まった。(突然彼に無視されるようになりました。)
あの人はもう、いない。
学校に行く理由も、世界を見つめる理由も消えた。
成績は落ち、忘れ物が増え、
教室の声は遠く、心の音は近い。
たまに、線路を見つめる。
包丁を握る。
高い場所に立つ。
「消える」という言葉がふと浮かぶ。
それが怖いとか悲しいとか、そんな感情はない。
ただ、「それも一つの終わり方かもしれない」と
頭のどこかで囁く。
親は言う。「そんなに大げさに考えないで」
「私だって辛いのよ」
そう言われるたび、
わたしの痛みは小さく扱われ、
誰もいない場所で膝を抱えて泣くこともできない。
泣きたいときに泣けず、
泣きたくないときに涙が出る。
感情は反応しないまま、
どこか遠くの自分が、わたしを眺めている。
それでも不思議なことに、
わたしの中にはまだ人を想う心がある。
新しい好きな人が近くにいると知ったとき、
ほんの少し胸が温かくなった。
会えなくても、同じ空気を吸っているかもしれないと感じるだけで、
夜が少しやわらかくなった。
そんなわずかな希望の残り火を、
誰にも見つからないように手で隠している。
昼は笑顔の仮面をかぶり、
夜は布団の中で静かに息を整える。
世界が嫌いで、人が怖くて、
でも完全に壊れきれない自分に苛立つ。
「普通になりたい」と思っていた。
でも“普通”を演じるほど、
周りの“普通”との差が痛い。
だから今は、異常者でいい。
化け物でいい。
せめてそう思えば、少しだけ楽になる。
そんな自分を嘲りながらも、
心のどこかで“まだ救われたい”と叫んでいる。
電話相談窓口に電話した夜、
「消えたい」とは言えなかった。
代わりに「人間関係がつらいです」と笑って済ませた。
誰にも本当の声を出せない自分が、
いちばん情けなくて、いちばん愛しい。
そういえば、いつだったろうか、涙が出た夜があった。
「まだ泣けるんだ」
そう気づいた瞬間、
胸の奥が少しだけあたたかくなった。
生きてることの証拠が、こんなにもささやかで、
それでも確かであることが、不思議だった。
世界は相変わらず静かで、
人の声は遠い。
けれど、修学旅行で韓国に行ってNANTAの舞台で鍋が打ち鳴らされたあの日、
わたしは初めて“音”をきれいだと思った。
日常の中に芸術があり、
騒がしさの中に生のリズムがある。
あれは、生きている人間たちの音だった。
あの日の鼓動を思い出すと、
少しだけ呼吸ができる。
それでも夜になると、
タンスの奥の薬を思い出す。
“最終手段”があるという安心感に包まれて、
今日も何とか生きている。
でも本当は、そんなものに頼らなくても
笑える日がほしい。
いつか、心から「おいしい」と言える日がほしい。
そう思う自分がまだいる。
無表情な顔で笑っている。
でも、確かに呼吸をしている。
感情を失くしたようで、
まだ心の底で生きようとしている。
ほんの少しの光を、
自分の中で探している。
――世界は壊れやすくて、
安心なんて不安定なガラス細工のようだ。
それでも、
壊れたガラスが光を反射するとき、
そこに確かに“生”のかけらがある。
わたしはその光を、
まだ手放せないでいる。
感想1
文章全体から、あなたが持つ感性と、あなた自身があなたの感性を大切にしているのだろうということを感じました。文体としても詩みたいなリズムがあり、否定形で結ばれる言葉の連なりも多いながら、なにか優しさを感じる文章でした。生成AIに相談内容をまとめてもらったということですが、きっとAIはかなりいろいろなアウトプットが可能だと思うと、あなたにとってこれがしっくりくるリズムや響きだったということなのかなぁと思いました。
感性や感覚は人それぞれ違っていて、私もそれはとても大切なものだと感じています。個人的には、なにを感じて、なにを受け取って生きているかということが、人のコアみたいなものだと感じる瞬間もあります。だからこそ、感じていることを受け取ってもらえなかったり、否定されたり、そんなことが続く中で、自分自身でも間違っていると思わなければいけない気がしたりするようなときは、自分自身が削れていってしまうようにも思います。「そんなに大げさに考えないで」といった言葉も(あなたの親にそんなつもりはないかもしれませんが)、あなたが感じていることを否定してしまう言葉になっていると思いました。他の人からどう見えるかとか、平均値はどうかみたいなことは関係なく、あなたのつらさを否定しなくていいと私は思います。
笑顔の仮面をつけていなければいけないのも、クラスの中であなたに必要な処世術みたいなものなのかなと思いました。私も学生のとき、つらくてもとりあえず口角をずっも上げていよう…死にたいと思っていることがバレないように笑っていよう、と無理に頑張っていたことがあり、そのことを思い出しました。
それから、私もずっと物語の怪物や幽霊に共感しながら、自分は怪物みたいなものだと思って生きてきたので、「化け物でいい」という言葉にもなんだかとても共感しました。このあいだ「ドラキュラ」という有名な吸血鬼の小説を解説する番組を見たのですが、ドラキュラは強くて悪いものだと思われているけれど、作者はこのキャラクターや作中の人物たちに自分のマイノリティ性を重ね合わせながら描いたのではないか、というようなことが話されていました。これまでも、そんなふうに芸術や文芸などでは、居場所を見つけるのがむずかしい人たちが密かな居場所を探し求め、作ってきたという面もあるのかもしれないと思います。
「NANTA」の舞台のことははじめて知りました。教えてくれてありがとうございます。紹介動画などを少し観てみたのですが、言葉中心の劇表現とはまた違う非言語の多様な音によるミュージカルなのですね。一瞬を動画で観ただけでもとても素敵で、実際にその場で演出や音や振動などを感じたらまたずっと違うのだろうと思いました。
世界はたくさんの切り取り方、視点の持ち方があって、言葉だけではとうてい語りきれないことがたくさんあるような気がします。私も死にたい日々の呼吸ができないような苦しさの中で、芸術や自然のうつくしさに救われてきた部分があります。あなたにとって呼吸しやすい空間や時間や記憶が増えてゆくことを心から願っています。あなたの言葉を死にトリに届けてくれてありがとうございました。またよかったら立ち寄ってください。