経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ガラス越しの世界

小さい頃から
恋愛感情や他者に向ける性欲がなかった。

小学生までは本も映画もドラマも好きだったが、その中にいつだって当たり前のように存在する「恋愛」が実感としてわかず、中学生からはそれらから自然と遠ざかった。

高校生までに数回告白されたが、向けられる恋愛感情が理解できず、付き合うことはなかった。

大学生からは、周りが当たり前のようにできている恋愛というものがなぜ私はできないのだろう、付き合ってみればわかるかも、と何人かと付き合ったが、全く分からず、相手からの恋愛感情が酷く重苦しかった。
手を繋ぐ意味もわからず、軽いハグも背筋が凍った。

30代になり、世間や昔から「普通」を求める親からの目がキツく、婚活をしてみたが、やはりわからず。
毎回相手から気に入られるが、また会いたいと言う気持ちがどうしてもわかず、いつもお断りしてしまう。

「自分はアロマンティック、アセクシャルなんだろうな」と思い、勇気を振り絞って友人達に言ってみるも、
「まだ運命に出会ってないだけ」「また付き合ってみたら」と皆口を揃えたように同じような回答。今までの経験で恋愛感情や他者に向ける性欲がないと自分でわかりつつも、恋愛感情がいつか生まれるかも、という期待も捨てきれない。

1人で生きていける体と財力があれば、「私はアロマンティック、アセクシャルだから1人で生きて行くけど、平気!そんなの気にしないで人生謳歌!」と自分を認めて生きていけただろうか。
そんな想像をするも、現実は虚弱すぎる体質から週4のパートが限界で、自立さえできていない。

30手前からかかっている心療内科医(精神疾患は現在ほぼ寛解)なら、なにか少しでも受け入れてくれるかも、生きるヒントになる考えをもらえるかも、と勇気を振り絞って言ってみるも「そのうち恋愛感情はでてくる」とのこと。
虚しい。

親になんて言えない。
昔から「普通」に執着していて(それが私の幸せになると思っているからかもしれないが)、
親の思う「普通」のラインからすこしでも外れると、否定されてきた。
ここ数年は緩んできた部分もあるが、やはり言葉の端々からまだまだ感じ取れることがあるので、言うことはできない。
はなから諦めているし、悩ませたくない。

いまだにドラマも映画も本も見る気が起きない。
途中まで見ても、恋愛描写が出てきた時点でため息をつきたくなる。
ラブソングに共感だなんてできたためしがない。
街ゆくカップルや家族がガラス越しのよう。まるで異世界。悲しいのではなく、羨ましさもなく、ただ別世界に生きている感じ。
どこかに私と同じような人は必ずいるはずなのに、実生活ではで会えないから、こんな気持ちは実は私だけなのかな、と沈む。

1人で自立して生きていける体が欲しかった。そうすれば、恋愛感情、他者に向ける性欲がない自分を誰の言葉にも左右されずただ受け入れて生きていくことができたかもしれないのに。
そう思う反面、そういう考えは、これまで様々な困難にあいながらも一日一日頑張ってきた自分の体を否定するようなものだなと嫌な気持ちにもなる。

いつだって人生に軸が刺せていない感覚で生きている。
生きるのは本当に難しい。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。
私は最近アロマンティックやアセクシュアルをテーマとする研修の運営に携わり、そこで「まだ運命の人に出会ってないだけ」は傷つき発言の一つの代表例として出てきていたので、それを改めてリアルに実感しました。
また、Aro/Aceスペクトラムという概念も研修で知って、自分のセクシュアリティが、アロマンティックやアセクシュアルの仲間に属するものだとも初めて知りました。(あまり自分語りするのもあれなので名称だけ言うと、デミロマンティック、デミセクシュアルだと自分では思っています)

恋愛がどうしてここまで当たり前のもの、自明のものとされているのか、訳がわからないしなんか居心地が悪いなあ、という感覚が私はあります。私は恋愛感情がわからないかというと、わからなくはないというのが答えですが、「恋愛はこういうものだよね」みたいな文化が苦しいと感じます。
付き合うにしても、恋愛感情(と自分が呼べると思う好意)にしても、それぞれ形は違うはずです。本来は丁寧なすり合わせの上で関係が作られるべきなのに、なんでこんなにふわっと「好きならこうだよね」みたいになっているんだ…?と戸惑うし、実際にそのせいで自分らしい人間関係を作ろうとしてもうまくいかないもどかしさがあります。(それ以外にも、うまく人間関係が作れない、続かない要因はあるとは思いますが…)
恋愛に限らず、「人間ならこうだよね」「普通はこうだよね」といった、根拠もない圧力みたいなものが世の中にはたくさんあって、私は納得できなかったり、時に傷ついたり、傷ついた人を見て世の中に腹を立てたり、もやもやを抱いてきました。

私は情緒的な結びつきのパートナー願望はほとんどないですが、働くことへの自信のなさやこの社会でやっていく自信のなさ由来のパートナー願望はあるので「1人で生きていける力があれば…」の部分はわかる気がしました。
異性愛の結婚が人生の到達点、子どもはほしくて当たり前、みたいなものが出てくる作品もとてもアレルギーがあります。

共感していますといった趣旨のことを色々書いてしまいましたが、あなたの苦しみを簡単にわかるとか、仲間だと思っていいとは私は思っていません。苦痛のあり方は個別性があるもので、一般化や矮小化も勿論ダメだし、安易に「私も」みたいに共感するのも違うと私は考えています。
でも社会的に何が自分を苦しめているのか、排除しているのかの部分は共有できるものがあると感じているので、恋愛脳の社会に(というと表現にちょっと悪意がありすぎですかね…苦笑)一緒に「待った」をかけませんか?という気持ちで書きました。
生きるのは確かに難しいですが、それにしても、今の社会は生きるのを余計に困難にさせていると私は思います。

感想2

世界との距離感を表現したタイトルに惹かれて読み始めました。自分の価値観だけでなく、自分なりに恋愛を知ろう・近づこうとトライして尚難しかったこと、そして他者からその感覚に無理解を突きつけられる経験が積み重なったことで、ただ「離れている」以上の「違い」「隔たり」を社会に対して長年感じてきたあなたの姿が浮かび上がってきました。そのガラスがただの「壁」ではなく、社会の厄介なまなざしや様々なものからあなたの心を守ってくれる「盾」だったらいいのになと思うのですが、それには社会の恋愛(結婚)至上主義的な風潮があまりにも強すぎる…となんともやるせない気持ちです。社会の中に恋愛や結婚のイメージが蔓延しすぎていて、たとえ性欲や恋愛感情がなくてもその内在化されたイメージから抜け出すことは難しいくらい、強力なものだと感じます。

親が「普通」に執着してきたこと、それからすこしでも外れると否定されてきたことは、あなたが自分の価値観に心揺らぐ背景になっていると感じました。これは私の考えですが、人は社会通念的なものや他者の考えをを知ったうえで「自分はそれとは少し違う」とか「もうすこし付け加えたい」みたいに足し引きして相対的に自分の価値観を構築していくと思うのです。自分と社会との距離感を測ったり、自分を知っていく作業にもなり得ると思います。しかし自分の価値観を構築する過程で「自分の考え」を否定されたり型にはめられたり、あるいは社会の中に自分の持っている価値観の所在がなさそうに感じると、そこに自分を肯定できない(責めてしまう)芽が生まれるのではないでしょうか。形作り、認め、信じる過程が奪われてしまうようなイメージです。他者に否定され交わらないこと、それによって結果的に自分の価値観と他者の目が切り離せなくなり、なじめない価値観があるべき姿のように思えてしまうこと、そのどちらもがあなたを苦しめているように感じました。

自分の価値観が周りと違うと感じ続けること、そしてそれが「言わないでおこう」と簡単に受け流せないレベルで世の中に浸透しきった話題であること、年齢と共に「人間性」についての話にもすり替えられてしまいがちなこと…どれをとっても苦痛でしかないと想像しましたし、何らかの他者や事柄と接触するたびに多かれ少なかれ傷ついてしまいそうだと感じました。どんな言葉を使っても誰かの何かを(自分自身をも)型にはめてしまいそうで上手く表現できませんでしたが、自分の価値観と社会との距離について考えたことをあれこれと書かせてもらい、感想とさせていただきます。

一覧へ戻る