アラフォー男、独身です。僕の育った家庭は機能不全家庭で、虐待を受けて育ちました。僕は三人兄弟の長男で、一つ下に妹、六つ下に弟がいます。15,6から精神科に通い出し、「パニック障害」と「うつ」と診断されました。主に心の傷として残っているのは母親からの精神的な攻撃によるものですが、その母親は僕が小学校5、6年生頃に父親と離婚を示唆するような形で出て行きました。父親は長距離運転手ということとギャンブル(パチンコ、麻雀)により家にあまり帰ってきませんでした。僕は高校に進学しましたが体調が悪くて学校にいけなくなり、2年生の初め頃に中退しました。ある晩、父親が僕がパニック発作が起きているときに「お前だけは許さねぇ」と叫びながら、横になって過呼吸を起こしている僕を殴りつけてきて僕は鼻から流血し、僕は殺されるかもしれないと怖くなり、致し方なく大嫌いな母親のもとへ逃げました。妹と弟はもう既に母の元にいました。それは僕がそれ以前に徐々にグレだした妹を見て、そこに無関心な父親に痺れをきらして不本意ながら母に相談し、引き取っていてもらっていて、当時幼かった弟に関しても食事を毎回僕が用意できなくなっていたりして限界だったので同じように母に相談し、引き取ってもらっていたからです。そのことで僕は父親とその親族からスパイだ、と汚名を着せられました。「お前だけは許さねぇ」というのはそういうところから出た言葉だったのでしょうか。
母親は初めこそ優しい素振りを見せていましたが、働けずに引きこもる僕をよく思わず、精神的に追い詰めて病状はよくならないまま何年か過ごしました。二十代前半に精神科とCWさんなどの協力で生活保護という形ではあるものの、家を出ることができました。しかし24歳のときに僕は自殺未遂をしてしまい入院し、それがきっかけでそれまで親からB型だと言われていた血液型がAB型だと判明し、それと同時に兄弟の中で僕だけ父親が違うということが判明しました。それを母親に問いただしにいったところ「教えることはできない」と言われたのでそれきり連絡はとっていません。育ての父親も同じく連絡はとっていません。現在彼は僕が母のもとへ逃げる時くらいに付き合っていた女性と結婚し、新たな家庭をもっています。妹や弟は僕のように父母と険悪ではないため、それに連なって僕は連絡をとっていません。僕は家族を見限ったつもりでしたがどうしても寂しくて、母の発言からヒントを得たり、育ての父親の知り合いに話を聞いたりして血の繋がった父親を突き止めて会うことができましたが、その一度きりで連絡も返してくれなくなってしまいました。
中学二年頃からギターを始めて、バンドをやったりしてきました。しかし人間関係がうまく構築できずにバンドはやめて、自分だけで作詞・作曲してレコーディングをして編集してネットで配信したりしています。だけども今度は手根管症候群という手が痛んだり痺れたりする病気にかかり、10年ほどになります。これまでなんとか鎮痛剤で誤魔化しながら作曲活動をしていました。数年前に左右とも手術をしましたがよくならず、唯一続けてきた音楽も満足にできなくなってしまいました。音楽どころか、日常生活にも支障をきたしていて社会復帰は絶望的な状況です。精神科での現在の診断は「統合失調感情障害」と「発達障害」です。ネットで知り合ってとても親しくなった女性がいましたが、彼女も同じような診断を受けていて、痛みや苦しみを分かち合うことができていましたが三ヶ月前くらいに自死で亡くなりました。
僕の人生とはなんなのでしょう。痛みを分かち合えた人には死なれ、唯一続けてきた音楽をやることまで奪われて。それまでも沢山の苦痛を耐えてきたつもりだよ。それでも生きていれば、と思ってなんとか生きてきたのに、あんまりじゃないか。誰かに分かってほしい。寂しい。なんでこんなことになってるの?誰か教えて。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
自分の辛さを誰かにわかって欲しい。
感想2
全体を読んだうえで改めてタイトルに戻ったとき、「わかってほしい」という言葉がとても切実な響きをもって届いた感じがしました。あなたの辛さがこれまで誰かに受け止められてこなかったことに加え、理不尽な(必要以上の)辛さの重なりと、「辛い」という感覚を訴える機会や権利すら奪われてきたような印象もありました。
あなたの心や身体を想像すると、日々身を固くし堪えながら過ごし、ときどき、安心できる兆しをわずかでも感じる(しかし長続きしない)という緊張と緩和の連続のようなイメージが浮かびました(ほとんどの時間は緊張状態だったのでしょうが…)。その「緩和」も本当に心から安心できる(望ましい)環境というよりは、生き延びるためにやむを得ず取るような行動も多かったと思うと、ふと立ち止まったときに人生への徒労感を覚えるのも無理はないことだと感じました。逆に言えばこれまで、立ち止まる間もなくどうにか自分の心や生活を保ち、走り続けてきたということでもあるのかもしれないと思いました。
「わかってほしい」という言葉の中に、まだまだ多くの願いと、癒されていない傷が詰まっているように想像しました。できることならできるだけわかりたいと思うからこそ、その「わかってほしい」の中にどんな感情が込められているのか、何をもってそれが叶うのか、深めてみたい気持ちになりました。そこに、あなたがこれまで環境から押し付けられてきた理不尽とは別の、「あなた」自身の声があるように感じました。
投稿いただき、ありがとうございました。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます。
読み終えたいま、「よく生き延びてきましたね」と思わず声をかけたくなるような思いでいます。
暴力や支配、抑圧に晒され続け、心身に精神的な不調をきたすのも無理のない状況に身を置いていたことを想像しています。
親同士も複雑な関係にあることが伺えましたが、大人の勝手な都合と不満の矛先があなたに向いてしまっていたことに、やるせなさと憤りを感じています。
家族のことが書かれた部分は状況の描写が多かったように感じましたが、当時のあなたはどんなことを感じ考えながら日々を過ごしていたのだろうかと思いました。
「殺されるかもしれないと怖くなり、致し方なく大嫌いな母親のもとへ逃げました」と書かれていましたが、命の危険を感じるほどの暴力を受けながらも、それが十分にケアされることもなく、安心できない場所からまた別の安心できない場所へと逃れなければならなかったことに、こちらも苦しく胸が詰まるような思いで読みました。
自分だけでも精一杯なところを、妹や弟の心配もしていたのですね。あなたの行動は何一つ間違っていないと私は思いました。
感情のままにぶつけられた父親の一言は、忘れたくても忘れられない言葉となってしまったように感じています。
周囲の協力を得て家を出ることができたとの部分には少しだけ安心しましたが、ご自身の出自について知ることは、あまりにも突然のことだったのではないかと思いました。
「家族」というつながりは、あなたにとってつらく苦しいものでありながらも、失うことに強い寂しさがあったように感じました。
手根管症候群についても調べました。あらゆる日常の動作に加え、詩を書くためにペンを持つことや、ギターの弦を弾くにも手を使うことを想像すると、人生を支えてきた音楽制作を手放さなければならないことは、言葉にもならない悲しみがあったことを想像しています。
同じ境遇にあって、お互いの苦悩を分かち合えた相手がいなくなってしまったことの寂しさも、計り知れないものがあると感じています。
最後に、「人生とは何なのか」と問われていました。お返事を書いている私自身も、人生の果てしなさや理不尽さを前に、うまく言葉が見つからない思いでいます。
あなたの苦しさを「同じように分かる」ことは出来なくとも、ただただ受け止めたいと、そんな思いでお返事を書きました。
そして、それぞれに状況は違えども、ここには生きていくことのままならなさを共有できる仲間がいることも伝えたい気持ちです。
またよかったらあなたの声を届けてほしいなと思っています。