経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

本当の私はどこにある?

小さい頃から大人の顔色をうかがって生きてきた。
ヒステリックで夢見がちな母と、昭和の家族感覚で育ってきた父。
その間に板挟みにされる私と妹。
母も父も私達も、機能不全家族の被害者だ。

母の機嫌を損ねないように、父の逆鱗に触れないように、神経をすり減らして生きてきた。少女のような考え方の母の代わりに、私が大人にならなければならないと思い無理やり強がった。
いつしか自分の人生ではそれがデフォルトになっていった。

友達といても学校にいてもどこにいても、他人の顔色をうかがい、その人が喜びそうな言葉とテンションを選び、その場に合わせた「私」になってきた。

そんな人生を歩んでいるうちに、本当の自分なんて、もう分からなくなってしまった。
信頼している人?誰を信頼しているんだろう?1番よく話すから、信頼している体にしているだけではないのか?その人に見せている自分は本当の自分ではないのに?

考え始めたらキリがないほどに…
これまでの人生の中で、「私」を作りすぎてしまった。
もう本当の私はきっと、とっくの昔に戸棚の奥の奥にやられてくしゃくしゃになってしまっているのだろう。

そんな私に今更、本当の気持ちを出せと言われても…生まれ変わらない限り到底無理だ。

感想1

経験談を読ませていただきました。
家庭環境のことがあり、自分の気持ちに蓋をして他者の顔色をうかがって生きてきて、自分の本当の気持ちが分からなかったり、本当の自分を知っている人がいないという孤独感を抱いていたりするしんどさを、私は経験談から感じ取りました。
経験談に「本当の私はどこにある?」と投稿しているあたり、自分を偽っているという今の状況に対して「嫌だなぁ」と感じる気持ちがあるのかな…と思いました。なので、「到底無理だ」と言いつつも、心のどこかで「いつか本当の自分になれたら…」と思っているのかなという印象を抱きました。
あなたのお母さんは夢を見ていて現実を見ておらず、あなたのお父さんは昔の感覚を見ていて今目の前にいる人たちの感覚を見ていないのかな…というふうに私の目にはうつりました。つまり、何かと向き合えていない…そんな感覚を私は抱きました。向き合うのが怖いとか何か不都合なことがあるから向き合わないのだと私は思うので、向き合うことが必ずしも正しいとは限らないかもしれません。しかし、そういったところへのやるせなさがあなたにはあるのだろうな…と私は思いました。それは「向き合ってよ」というあなたの悲しみや怒りでもあるのでしょうか…。
他人と向き合うことは自分と向き合うことでもあるんだろうな…と思うと、自分が自分と向き合わないから人に嫌な思いをさせているのかもしれないな…と感じるときが私にはあります。でも、時には逃げたくなるとき、言い訳したくなるときも私にはあります。
そういった部分に気づくことって結構難しいことなのではないかと私は考えていますし、気づいて本人が「変わろう」と思わない限り変化は起きにくいと思います。だからといってあなたがずっと嫌な思いをし続けないといけないいわれはないだろうなぁ…という気持ちを抱きました。
経験談を投稿してくださり、ありがとうございました。

感想2

目に留まって読ませていただいた文章があまりにも私の家庭環境・家族関係に酷似していたり、私自身が長らく感じながら生きてきた気持ちにとても似通っていたので、とても近しいも感覚を覚えながら書かせて頂きました。

いつどのタイミングで機嫌や怒りにスイッチが入るかわからない両親と一緒にいる空間で過ごす日々は言葉以上の大変さや苦痛があるように(私の経験としても)思います。気まぐれにやってくるであろうそれらの瞬間は、「こうなったらこう」という正解があるわけでもなく、とにかく「機嫌を損ねないように、怒らせないように」、はたまた「2人同時にスイッチが入らないように」と投稿者さんが答えのない選択を間違えないように迫られる時間の連続であったのかなと想像しています。

そういった日々が続く中では、常に気持ちに蓋をして相手を優位に立てなければならず、繰り返す日々の中で「どれが本当の自分なのか?」「何が本当の自分なのか?」と「私」という自己像がぼやけて、家族はもとより友達も含めた人との関わりに影響を及ぼしてしまうのもある意味当然のことのように私には思えました。

一つとても印象的に感じたことが、それだけの配慮を強いられてきたことや人の顔色を窺う辛さを投稿者さんが感じて生きてきて、こうして文章として自身のこれまでや気持ちや考えが客観的に綴られている中で、「母も父も私達も、機能不全家族の被害者だ」と書かれているように、自分自身のことだけではなく自分以外の近しい他者(影響を及ぼされたであろう両親)にもその意識が向けられていることでした。

というのも、本来は他責的に相手にぶつけたくなるものになりえそうな気がしますが、投稿者さんはそうしておらず(少なくとも私にはそう感じられました)、「私」という単位を含めた構成するその全てを投稿者さんが紐解こうとしているように感じられたからです。それは(言葉遊びになってしまうようでもうしわけないのですが)「私」というものがわからなくなっている「私」に気づけている今に繋がっている気がしますし、たとえ今が戸棚の奥の奥にやられてくしゃくしゃになってしまっていたとしても、それも含めて自分を知ろうとするにはとても大切なことのように私には思えます。

自分を見失っている中で「私」という個を他ならぬ自分自身で見つけるには時間がかかることなのかもしれませんし、簡単なことではないのかもしれません。ですが、少なくともここに書かれた投稿者さんの気持ちや考えは、「自分でもわからなくなっている私」に他ならない気がするので、こうして気持ちを書いて整理しながら様々な自分の気持ちに向き合う中で少しずつでも形にしていってほしいなと思いました。投稿ありがとうございました。

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