私の家はごく普通の家です。両親と私と弟二人の五人家族でした。両親の仕事は医者で、金銭的に余裕のある家族に生まれ、第三者から見れば仲睦まじい普通の家族です。そんな家に生まれても、私は生きづらくなってしまいました。今も精神科に通っており、「死にたい」という気持ちは三年前から消えません。今日はここで、私の人生を振り返って、なんでこうなってしまったのか考えながら書いてみようと思います。私視点の人生なので、小説感覚で見ていただけたら嬉しいです。
私の一番古い記憶は、泣きながら両親の喧嘩を止めているところです。多分三歳くらいだったでしょう。そのころから両親の仲は悪く、喧嘩しては止めて、母親に「〇〇ちゃんだけだよ」と泣きつかれるのがいつものセットでした。父親は無関心な人で、幼少期のころのイメージは悪かったです。
四歳になると弟が生まれました。両親の喧嘩はなくなりはしませんでしたけど、少なくはなっていたと思います。
小学生に上がったころぐらいでしょうか、母が手をあげるようになりました。軽い平手打ちみたいなものでしたが、怒られるたび手を高く上げられ、痛くないよう体を縮こませていたのをよく覚えています。このころの母はうつ病患っていたと大きくなってから知りました。感情的になるたび母親の機嫌を取って、母親が求めている答えがでなければ大声で頭ごなしに否定される。完璧な答えを出さなければ、怒られないようにしなきゃと。考えれば考えるたび頭が真っ白く、動かなくなっていきました。
過度なストレスのせいで、怒られるときだけ声が出せなくなりました。それが多分小三から小四くらいまで続きました。家だけでなく学校でもなってしまい、ごめんなさいの一つも言えなくなってしまいました。
もしこの頃の自分に会えるなら、大丈夫だよと言いながらゆっくり話を聞いてあげたい、なぜなら私の母親はここで最悪な行動をしてしまうからです。
何を思ったのか私の母親は固まって声が出せない私を動画で撮り始めました。「はーい、今回も何も話さない○○でーす」「これ、△△ちゃんの親に 見せよっかなー」喋らないんじゃなく喋れないのですから、この動画は何分も何十分も撮られ続けました。何回も何十回も続き、とても屈辱的で、悔しくてしかたありませんでした。今もまだその動画は母親の携帯に残っています。多分一生消えない記憶だと思います。
小学五年生の夏、両親の研究でアメリカへ一年間留学することになりました。(二人目の弟は当時生後半年)母親も幼少期に留学経験があり、それを子供にもやらせたいと口癖のように言ってました。そのせいか私は人より海外経験が豊富です、行きたいと言ったところには連れてってくれないけど笑 学校ではクラスの中心にいるようなタイプだったので、盛大に送り出され、「一年後にまた遊ぼう」と約束をして飛行機に乗りました。
そして一年後、健気にまたみんなと遊べると期待して戻った学校は、思いどおりにはいきませんでした。小学生の約束なんてみんなすぐ忘れてしまうんです。クラスの中心だった私は、一年で友達ができない転校生になり下がりました。さらに、不運なことに父親が入院一か月の大怪我を負い、母親のストレスマックス。父親がいなくなった分の家事の穴埋め。一年間できてなかった勉強の追い上げ。さらにさらに、その時の担任は熱血タイプで、少しでも手を抜けば怒られる始末でした。
父親が退院するまでの私の生活がこれです⇩
朝起きる→二歳の弟起こす→朝ごはん食べさせる→弟を幼稚園に送る→学校行く→帰宅→一時間で洗濯物と食器洗い終わらす→二歳の子のお迎え→シャワー入れる→夕飯食べさせる→寝かせる→宿題→自主勉→就寝
ちょっとでも手抜いたら母親と担任のダブルパンチ食らうので、オールするときもあれば、登校中に宿題するなんて日もありました。こんなハードスケジュールが小六の子供に耐えられるわけなく、限界を迎え、ある夜、親に相談しました。「最近ちょっと辛いから、家事出来ないかも」そう言うと、返ってきた答えは「何がつらいだよ、悲劇のヒロインぶってるの?w」衝撃過ぎてこの言葉しか頭に残りませんでした。このころからだんだんと自分には味方がいないんだと思い始めて、小六の冬に初めて死にたいと思いました。思い返せば母親もやばいですけど、同じ家にいながら何も気づいてない父親も結構やばいです。
中学にあがった四月、クラスメイトにつらいことを相談するも話は広がり、「相手の子に迷惑だから相談するのやめな」とまたもや母親に言われ。ついに不登校になりました。
不登校の間はニートも同然みたいな生活しているので、除きます。強いて言うなら、自殺未遂で警察保護されて、精神科病棟に即入院なったことくらいです。
学校に行けるようになったのは中一の秋でした。全てがどうでもよくなり、「人の気持ちなんか知るかー!どうにでもなれー!」という精神で行った結果行けるようなりました。(多分真似はしないほうがいいです、運が良かっただけなので) クラスの中心の子と仲良くなることで、クラスでの地位をゲットし、不登校だったとは信じられるないくらい元気に過ごせるようになりました。
でも幸せって長く続かないんです。
母親が突如前触れもなく離婚すると言い出しました。両親喧嘩はしなくなって、だんだんと仲良くなってきたときにです。まだ純粋に家族大好きだった私は、「離婚しないで」と親に頼みました。それでも、離婚のショックって想像以上にでかいんです。結果的に離婚までには至りませんでしたが、過度な不安でまた不登校になってしまいました。中二の三月でした。
結局不登校は六月まで続き、中高一貫だったため進学できないかもしれないと両親に言われました。なので仕方なく、近くの公立中学に転校することになりました。
転校する前、不登校を克服してから仲良くしてくれていたAちゃんが私の悪口を言っていたことを知りました。友達なんてこんなもんだと小学生で経験していたおかげで深く傷つきはしませんでしたが、親友を失ってからの二度目の転校になりました。
そしてそして、またもや私の母親は余計なことを言います。初日登校前日、食事がのどを通らないほどの緊張で固まっている私に母は「精神病のフリすんな」と言いました。なぜこんなことが言えるのか、私には理解できません。ちなみに、このことを後々問い詰めて謝ってくれと言いましたが「不安がっているように見えなかった」と言われました。どうしようもない人です。
ここまで読んでくれるとわかると思いますが、私の母親は自己中心的です。自分の気持ちをわかってくれる優しい人が好きで、それ以外の扱いはゴミ箱同然です。私はどちらかというと嫌われていて、真ん中の弟のほうは気に入られていました。
そして父親は一つ屋根の下でともに暮らしているのにもかかわらず、約15年間。母から私へのいじめに気づいていませんでした。
これ以外にも小さいものだと、陰口、笑われる、馬鹿にされるとかもされてきました。多分細かく見れば人格否定も多々。
私自身もこれが普通と思って生きてきました。やばいと知ったのはここ数か月とかの話です。
軽く書いていますが、母親の言葉、友達の少なさ、に当時はかなり傷ついてきました。そして警察、児相、精神科、カウンセラー、すべてを頼っても環境が改善することがなかった。この二つが私の自己肯定感を下げ、希望をなくし、死にたいに直結しているのだと思います。
今も自殺未遂を繰り返しながらも、のうのうと生きています。
またいつかお会い出来たら、母の愚痴でも聞いてください。
感想1
最後の「母の愚痴でも聞いてください」の一文に思わず「聞けるものなら、いくらでも聞きます」と答えたくなる自分がいました。最初に「小説感覚で」とありましたが、これは小説でもなんでもなく、ルポルタージュだと思いました。私自身、過酷な子ども時代を生き抜いた若者たちと関わることが多いため、いろいろな形の逆境体験を聞いたことがあったことから、より一層あなたの現場からの報告が身に沁みました。そして、たくさんの支援につながっているのにもかかわらず、環境が改善しなかったことに対して相当な悔しさもあります。本当ならあなた自身が悲しんだり、悔しがったりする権利があり、気持ちを自由に表現することすら自動制御しているように感じるため、経験談を読んだ私が先に勝手に悔しがってしまうのは、申し訳ないと思うのですが、助けられない社会が悔しいです。そして大人の一人として申し訳ないです。今はまだ中学生なのでしょうか。高校生年齢になると自立援助ホームという仕組みで親の意向に関係なく自分の意思だけで利用できる生活の場があります…などなど、経験談の感想というより、何とかあなたの生活環境を改善する方法を考えてしまっています。
最初に「ごく普通の家です」と書いていたのが印象的でした。子どもの権利や子どもが健やかに育つ環境という軸で考えると、普通とは言えないと私は思いました。(そもそも何が普通という基準が難しいのですが…)家族構成としては普通?という意味かもしれませんが、今や家族構成も両親と子どもという核家族だけではなく、ひとり親家庭やひとり親同士が再婚するステップファミリーなどもあり、核家族が普通でもなくなっているかもしれません。ただ、形として両親がそろっていて、社会的地位のある職業についているという状況があなたの苦しさを家庭の中に閉じ込めてしまう要因になったのかもしれないと私は感じています。つまり、世間にある「普通」とか「立派」とか「安心」というイメージや思い込みがあなたの環境改善を妨げたのではないかと思い、またまた悔しくなっています…
母があなたにしてきたことがたくさん書いてありました。どれも、子どものあなたが一人で受け止めて処理するにはあまりに過酷な出来事だろうと感じました。ただ、母親をひどい奴だと責める問題ではないと私は思います。だから、最初に戻りますが、母の話を聞いてくれる人が本当に必要なのだろうと思いますし、親だけに子育てを押し付けない、親以外が子どもともっと関わりをもてる仕組みが必要なのだろうと思います。
母が離婚するといったときに「まだ純粋に家族大好きだった私」と書いていて、最後の方には「やばいと知ったのはここ数か月とかの話」とも書いていました。この経験談を書いたのも、自分の状況が客観視されてきたからだと感じています。自分の環境についてやばいと知り、こうして他の人に伝えらえる表現をしたあなたはおそらく、自分が蓄えていた力で自分を助けることを始めたように思います。これまでも、何度もあなたは自分自身を守り助けてきたと思います(何とか全力で頑張って期待に応えて切り抜けたこともそうですし、限界を超えて声が出なくなるという守り方もあったと思います)。そこから、次のステージの一歩を踏み出したのがこの経験談だと私は思いました。私たちは直接何かをすぐにはできませんが、全力で応援したいです。また、続編を書きたくなったらいつでも書いて送ってください。続きを待っています。