経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

これからの自分に向き合っていけません

某スピリチュアルのような何とも言えないメソッドを試そうとした日でした。
それまでも、借金苦でしたが家族には話せず、自分自身の手で何とかしようとしていました。
そのうえで、このメソッドを本気で3ヶ月やって、駄目だったら諦めよう、そんな気持ちでした。

しかしながら、本気で実践を決意したその日の夜、姉が部屋にきて借金について言及してきました。
その素振りは全然出してないのに、突然です。それがメソッドの答え、と最初は考えてもみましたが、
それはあくまで自分がこうしたい未来を思い描いてそれを演じるものでしたので、そこに私以外の
登場人物は想定していません。なので、突然の話でかつ、全て払うというのも、普通に考えれば
「何と有難いことだ」と思うかもですが、それについては、幼少から自分が正義で母親や父親と喧嘩しても
何時だって自分が正しい、自分中心に世界が回っているような性格の人間です。
訳が分かりません。今までなら「何借金してんだ!」と怒鳴り散らして正論しておしまいです。
それがなぜか、その日に限っては、返していこう考えていこうといわれました。
その瞬間、私のメソッドは初日で終了だと感じました。同時にこれから先、返済してもらったとして、
どの顔して私は生きていけるのでしょうか。また、原因となったギャンブルやゲームは辞めたので、これといった趣味も全くないです。その中で、今まで通り仕事に行って仕事しろと?休日はもっと辛いですよ、借金返済してもらっても、どんなふうに接して毎日を生きていけばいいのかわかりません。
それならば、少額でも返済している生活の方がまだ、仕事して返済して、と考えられるのに、それが崩された私はどんな顔をして毎日をどのように過ごしていけばいいのでしょう。
それならば、いっそ借金返済はありがたいですが、自分の罪なので自責の念をもって死んだ方がマシだと考えています。何も楽しくなくなった人生や会社で私はこれからの自分がどうなってしまうのでしょう。それを考えるのが本当恐怖です。そうであれば、本当何も考えない死を選びたいのが心情です。

感想1

自らの課題にいよいよ取り組もうとした矢先、思ってもみない選択肢が現れ、良くも悪くも計画が振出しに戻ったような様子が伝わってきました。自分の中で抱えておこうとした問題について、怒られるどころか協力的な姿勢を示されたら、ありがたいようなペースが狂うような、不思議な感覚になりそうです。姉はどういう意図で突然言及したのだろう、というのもなんだかずっとモヤモヤ気になるのかなと想像しました。

返済後のことを考えたあなたの心情が印象的でした。借金に長く思い悩み、返済という責任を果たそうとする思考が、いつしか目下の「生きる目的」になっていた節もあったのかなと感じました。もしかすると「なんのために生きるのか」という漠然とした問いはずっと前からあなたの中には存在していたのでしょうか。借金苦ということは自分のコントロールを超えてギャンブルやゲームをしていたのかなとイメージしています。そこにのめりこんでいくときのあなたも、それを辞めたとき、そして楽しさを失くした感覚で途方に暮れている今のあなたも、どの瞬間もそれぞれの生きづらさや人生への失望感があったのではないかなと思いました。

タイトル含め「自分に向き合う」ということに対する恐怖や抵抗感のようなものが強くあるように推測しています。課題に取り組んだり、本質的な問いを持つことも大事ではあると思いますが、今回のようにまず不安や戸惑いを自覚することもまた「向き合う」ことだと思いますし、私的には「自分に向き合えない」という言葉こそが向き合っているように感じられました。投稿ありがとうございました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。読みながら、ひとつの“破綻”の瞬間にどこか立ち尽くしているようなそんな印象を受けました。それは金銭的な意味での破綻ではなく、自分が「どうにかして立て直したい」と信じていた世界のほころびが、突然他者の手によって引き裂かれたような感覚に近いイメージです。
借金という現実をどうにか自分の力で解決しようと試みていて、それは決して無謀な挑戦ではなく、「まだ自分にできることがある」「自分で責任を取る」という、かろうじて残った自尊心だったのかなと…。そこにお姉さんが不意に介入し、しかも怒るでもなく、助けようとしてくる、その優しさが、むしろあなたにとっては耐え難いものとして作用しているのだと想像します。その優しさは、自分を取り戻すため、立て直すために築こうとしていた“苦しみの手順”をあっさりと奪うものだったのではないでしょうか。お姉さんの行動が理屈では“良いこと”であっても、心の奥では“自分の人生を自分で回復する機会を失った”という喪失感があなたを覆いつくしたように私には映りました。自分でやったことの責任は自分でとるというその道筋こそが、唯一「生きていてもいい」と思える理由だったりしたのかなと…、それを善意の介入で断たれた今、「生かされる自分」が居場所を見失ってしまったところもあるのではないでしょうか。(全然違っていたらすみません)
何だか、自己責任と助けを受けることのバランスの難しさをあなたの文章を読んで思わされました。「支える」ことと「奪わない」の間にある繊細な線引きをもっと考えていかなければならないなとも…。
あなたの中に交錯している複雑な感情も、「死にたい」という感覚も、単なる絶望ではなく、自分で自分を立て直す力を奪われたことへの“抗議”であると私は受け止めました。自分の中で気持ちの折り合いをつけて生きていくことは容易なことではないですが、感じているままにこうして自分の中の考えや思いを言葉にすることがあなたにとって何か役に立つようであれば、またいつでも死にトリに声を届けてもらえたらなと思いました。

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