経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

どうしてもつきまとう

何かあったときの感情の結論が死にたいになるのが辛い
これしたいみたいな前向きなのでも、何らかの芸術作品をみたときの感想でも、出力がバグっているせいで死ぬか~に帰結してしまう。
最近うまく付き合ってるはずだったのに、どうしても以前の状態が恋しくて、いまの状態が悔しくてどうしようもできない。
元々の趣味が芸術鑑賞だったし、なんか素晴らしいものをみて感情を動かされる経験が全て希死念慮に邪魔されるのが本当に悔しい。友達と遊んでも、たのしかったな!死ぬか!になる
最近は遺書を書いて希死念慮を分散させているけどそれはそれで辛い。なんか親に申し訳ないし、回りにも迷惑をかけている気がして辛いからもうどうしようもないかも

感想1

投稿読ませていただきました。
「以前の状態が恋しい」の一言に投稿者さんの気持ちが集約しているように感じました。
以前は色鮮やかに見えていたものが今はグレースケール…のような、希死念慮が彩度を連れ去ってしまったような感覚が頭に浮かび、前向きな感情をすべてと言っていいほどに持って行ってしまう希死念慮に対し「それ返して!!!取らないで!!!」と大声で叫びたくなる思いです。
「感情の結論が死にたいになる」のは私も過去に経験し、どうしようもない、行き場のない感情がひたすら渦を巻いていたように感じます。そういった行き場のない感情の新たな「行き場」として死にトリを利用してもらえたらなって個人的に思いました。また気持ちを吐き出したいときは書きに来てもらえたらと思います。
投稿ありがとうございました。

感想2

投稿読みました。「生きたい」「感じたい」という繊細で真っ直ぐな願いが、いつの間にか「死にたい」という結論にすり替わってしまう、その理不尽さへの深い苦しみが伝わってくるような感覚に読みながらなりました。
喜びや感動などの本来ポジティブな感情が、すぐに希死念慮へと変換されてしまう感覚はまるで心の回路の一部が勝手に書き換えられてしまったような違和感や無力感があったりするのではないかなと想像していました。(違っていたらすみません)本当は感動したい、味わいたい、楽しみたいという衝動があるのに、その余韻の先に必ず“死”が顔を出すような…その繰り返しが続くほど、自分の心の構造に不信感が募っていくような感覚もあって、「なぜこうなってしまったんだろう」と悔しさもこみあげてきそうだなと…。
遺書を書くという行為も、ただの衝動ではなく、自分を壊さないための“整理”のように私は感じました。私も遺書というほどではないですが、自分の死にたさをそのままにしておけなくて、感情を言葉にして発散させていたこともあって、でもその瞬間はいいですがそのあとに虚無感みたいなのも襲ってきたので、あなたの感覚に共感できるところもあり、ただ何もしないよりはまだいいのかな?と自分に言い聞かせているところもあります。
個人の弱さとしてではなく、“希死念慮が常に付きまとう生きづらさ”という、もっと社会的に理解されるべき課題のひとつだとあなたの文章を読んで改めて考えていたところです。“死にたい”という言葉が自動的に浮かんでしまう背景には、心のクセや過去の積み重ね、安心できる環境の欠如など、様々な要因が絡み合っていると私は思うので、それを“個人の気持ちの問題”として片付けてしまう社会のまなざしの冷たさが、あまりに現実離れしているよなと何だか本当この社会の在り方に嘆いても仕方ないのですが、そりゃ生きるのも嫌になるよな…と思ってしまいます。
ただ、あなたの言葉には、苦しい中でも絶望に飲み込まれてはいない印象も受けます。自分の気持ちとうまく付き合っていくことの難しさを感じている同士(と、私は勝手にあなたに仲間意識を抱いてしまっていますが…すみません)、また言葉を交わせられたなと思っているので必要な時はいつでも死にトリを活用してほしいです。

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