経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

結局甘えてるだけ

現在高3受験生です。自分は世間でいう落ちこぼれです。高2の1〜3学期、高3の1学期と、何かしらの教科で赤点を取り続けている状況です。それなのに勉強に全く身が入りません。わかってます。勉強しなければならないって。勉強しないと社会に出てから困るって。後悔するって。わかってます。でもできないんです。勉強に関することを考えたり言われたりするするだけですぐ「死にたい」、「消えたい」と思ってしまうんです。
でも、こんな自分でも、中学の時までは勉強ができていました。だから、現在通っている地方進学校に入れました。だけど、今は勉強が全く手につかなくなってしまいました。なんでなんだろう。高1の2学期くらいまでは普通だったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。今もずっと考えています。
高1の冬に、メンタルがどん底になった日がありました。なぜかは覚えていません。でも、思えばそれが始まりだった気がします。冬休みが終わった3学期頃から、学校に行きたくないと思うようになりました。この時はまだ遅刻で済んでいました(遅刻もダメですが)。そして高2の4月か5月くらいだった気がします。ある日、家を出たものの、どうしても学校に行きたくなく、1日学校をサボりました。その日はずっと外をぶらぶらしていました。自分の通う高校は親からしか欠席の連絡ができないため、高校にも親にも無断でした。当然、親にバレました。その時は登校中に体調が悪くなったからそのまま帰ったとバレバレな嘘をつきました。その数日後、また同じように無断で学校をサボりました。さすがに怒られました。理由を聞かれ、何と言ったのか思い出せませんが、とにかく本心は言えませんでした。何で学校に行きたくないのかわからなかったからです。
ある日、その日も学校に行きたくなくて、それを遠回しに母親に言っている時、父親が来て、「行け!”甘えるな”!」と怒鳴られました。その時、わかったんです。自分はただ甘えてるだけで、学校に行きたくないのは、勉強という嫌なことから逃げたいからだったんだって。
そうなんです、自分は嫌なことに立ち向かえない弱い人間なんです。人生、生きていれば絶対嫌な出来事はあります。でもみんな、それを乗り越えながら生きている。たかが勉強で、それも、人生生きていく上で絶対避けては通れない”勉強”で、嫌になって逃げている。そんな自分が憎い、情けないといったらありはしません。いやもしかしたら、自分はプライドが高くて、できないやつだと思われたくなくて、できない自分を認めたくないだけなのでは?
……もう自分がわかりません。どうすればいいのかわかりません。いや、勉強すればいいんです。それで解決なんです。でも、できない…。矛盾してますよね。なんなんですかね。こんな自分が生きていていいんですか。
こんな感じで、いつもぐるぐる考え込んでしまいます。授業中でも。テスト中でさえでも。抜け出そうとしても、抜け出せない。抜け出せても、またハマる。これが不定期に起こる。だから勉強に集中できない。よく、このモヤモヤした気持ちが怒りとなって、心の中で他者を攻撃してしまうこともあります。矛先は主に両親とか、先生とか、自分に危害を加えた(自分がそう思っているだけかもしれないけど)人たちです。怒りの感情が抑えられなくなった時、メタル系(特に好きなのはKoRn、Slipknot)の曲を聴いて、ヘドバンしたりして、強制的に忘れる…なんてことをよくします。でもこんなの、なんの解決にもなっていません。ただの現実逃避です。
若い頃に勉強しなかったら、社会に出てから苦労するのがこの世の摂理です。もっと勉強しとけばよかったと多くの人が口にするのが良い例です。もちろん、勉強だけが全てではないなんて百も承知です。でも、学歴フィルターなんて言葉があるように、否が応でも人は人の能力を判断するのに必ず学歴をひとつの材料にします。
だから、勉強ができない、つまり、必要なことに努力できないような自分は、生きる資格なんてないんです。さっさと死んでしまったほうがいいんです。このまま勉強せず大人になったらどうなっちゃうんだろう。その辺で孤独に野垂れ死んでしまうかもしれないと思うと、不安にならない人なんているんですか。
高1のあの冬の日から、生きづらいと感じるようになったあの日から、ずっと原因を探し続けてきました。うつ病、双極症、愛着障害、発達障害、アダルトチルドレン……いろいろ調べました。仏教や悲観主義など、宗教や思想的なものも調べたりしました。精神科を受診することも考えましたが、自分の親は根性論や精神論を押し付けてくるタイプの人なので、何かと理由をつけて行かせてくれないことは分かり切っています。
でも、こうやって原因を探し続けるのは、結局自分が甘えているからだと思うんです。自分には精神的なペナルティがあるからって、こういう思考だからって、それを理由にして嫌なことから逃げたいんですよ。自分という人間は。嫌なことに向き合わず必死に言い訳を探して。
いろいろ書いたけど、とにかく、早く死にたいんです。というより消えたい。楽になりたい。もうこの苦しみに耐えられない。この苦しみから解放されるには、死ぬしかない。死ななければならない。この先どんな楽しみや喜びや幸せが待っているとしても、死んでこの苦しみから解放されるならそんなものいらない。
もう誰かに迷惑をかけたくない。失望されたくない。家族のみんな、友達のみんな、ごめんね。お世話になった方々、ごめんなさい。こんな自分で本当にごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。

でも、本当は死というものに甘えているだけなのかもしれない。

感想1

読んでいて、「ほんとうに、お疲れ様です」と言いたい気持ちになりました。それから、「すごくわかる……」とも思いました。それぞれの事情は違うし、わかった気になるのはほとんど間違いに近いとも思いつつ、なにかわかるように感じたのは、私も高校のときに勉強に集中できなくて、成績は悪くなって、学校もしんどくて死にたくて、そしてそんな自分を甘えだとずっと責めていたからです。その中で、精神医学・宗教・哲学などの本を読み漁ったのも高校生のときでした。

大人になって改めて社会構造や教育の状況などについて考えてみると、学校教育は「学ぶ」ということのごく一部のやり方にすぎないし、集団としてはかなり特殊なトップダウンの形で、それが当たり前だと思わされるのも変な話だと私は感じています。
「若い頃に勉強しなかったら、社会に出てから苦労するのがこの世の摂理」という社会構造は、少なくない若い人たちを疲弊させるものでしかなくて、むしろそうであることで社会はより社会をしんどいものにしているように思えます。それは本来社会が変わるべき社会課題であって、個人の問題ではないと私は思います。
あなたは「根性論や精神論を押し付けてくる」親への距離も感じつつ、自分自身でも、自分が頑張れば解決するはずなのにと思わずにはいられない気持ちもあるのかなぁと想像しました。

周りを見渡してみて思うのは、頑張りというのは走るみたいなもので、ずっと続けられるものではないということです。私の場合は、振り返れば学校という場所自体や、毎日同じ場所に通うことも、そんな中で集中して勉強をすることも負担で、常に少しずつキャパオーバーが積み重なる日々だったのですが、学校には友達もいるし、大きな問題があるわけでもないはずなのに、自分が無理をしているわけはない、ただ甘えているだけなんだと思い込んでいました。

自分が疲れているのか、ただ怠けているのか、休んでいいのか、甘えなのか。それを見極めるのってすごくむずかしい……というか、基本的には自分一人でわかるのは不可能に近いと思っています。だからこそ、私は本当は学校で一番教えるべきことは、自分のペースや自分が取り組みやすい方法を見つけたり、試行錯誤したり、上手に回復できる休み方を覚えたりすることだと思っています。
だけど学校も世の中も家庭でも、自己責任論的な考えや根性論的な考えが蔓延っていて、おかしな話だと思っています。それ以外の考え方を忘れてしまうくらい、余裕のない世の中ということなのかもしれませんが……。大人から子どもへ、人から人へ、弱い方へと伝播してしまうそれらの考えをどこかで食い止めたい気持ちにもなっています。

怒りの感情が抑えられなくなった時、メタルを聞いてヘドバンで対処しているのは、解決になっていないと書いてありましたが、個人的にはものすごくいい方法!と思いました。感情はエネルギーみたいなものの部分があると思うので、それを愚直に受け止めるのも、抑圧するのも心身に多大なダメージになると感じています。そういう感情を一時ではあっても、発散する方法を自分なりに見出しているのは、あなたの力だと思いました。
私も音楽や小説や漫画などで自分の感情を一時逃したり、どっぷり入り込むことで上書きしたりしてきましたが、大人になってもわりとこれが役に立つ方法だなぁと思っています。

あなたにとっての「解決」とは、たとえば問題なく勉強ができる自分になることなのかなぁと思ったののですが、この経験談を読んでいる私は、死にたいくらい辛い思いをさせる社会構造やシステムの課題だから、世の中が変わっていくことが解決の道筋だと感じています。そのためにどんなことができるだろうとも考えつつ、この感想を書いていて、まずはこうやって言葉にすることもすこしは意味があるかもしれない、とも思ったりします。
……そんな悠長なことを言われても困るとは思うのですが、すくなくとも、あなたが悪いという話ではまったくないということだけは言いたいと思いました。またその上で、日々のあなたの苦痛が減る方法はファストに見つかるものばかりではないかもしれないですが、それでも、あなたに安心して過ごせる空間や時間があってほしいと願っています。
あなたの思いを言葉にして投稿してくれてありがとうございます。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。“勉強ができない苦しみ”という表面的な言葉の奥に、もっと深い“存在していることへの否定感”があなたの中で静かに積み重なっているのを私は感じました。あなたは“勉強ができない自分”を責めているようでいて、実際には“努力できない自分”、“理由もわからず苦しい自分”、“他人に理解されない自分”…など、つまり「どうにもできない自分」そのものを責め続けているのではないかなと想像しています。(全然違っていたらすみません)
「わかっているのにできない」というこの感覚があなたの中に繰り返されてきたのかなと考えながら、理屈では理解しているのに、心が追いつかないことは“怠け”でも“甘え”でもないと私は思います。この社会(特に教育の場で)は「頑張れること=人の価値」という価値観の上で成り立ってきたところがあると私は感じています。努力の手段が途切れた瞬間に、人の存在そのものが否定されてしまうような空気を感じ取ってしまうことが多いよなと。あなたの「死にたい」「消えたい」という感情は、その息苦しさの中で生まれた自然な悲鳴だと私は思ってしまいます。
高1の冬から“理由のわからない落ち込み”が始まったと綴られていて、きっと、その時から心と身体が何かを伝えようとしていたのかもしれないなと感じました。でも、あなたの周りの大人たちは、残念ながら「甘えるな」「やる気の問題だ」等、“根性”で判断してきたのですよね…。それによって、あなたは“自分の限界”ではなく“自分の存在を否定“する方向へ追い込まれていったのではないでしょうか。
学校の成績は、確かに社会での評価軸の一つではあることは否めませんが、それはあくまでシステム上そうせざるを得ない言語(数値)であって、人間としての価値を測るものではないはずです。それにも関わらず、自己否定につながるような価値観を刷り込まれてしまう構造があるのが現実で…そうした中で、自分を責め続けるあなたの様子に、まるで社会全体の歪を引き受けてしまっているようにも私には映りました。
印象的なのは、“怒りの感情が抑えられない時はメタルを聴いて強制的に忘れる”という部分で、心が完全に折れていたら、怒ることも、音楽を感じることも難しいですし、怒りは、あなたが「本当はこうありたくない」「自分を取り戻したい」と思うことの裏返しなんだと私は思いました。(疲れてしまう時もありますが、怒りのエネルギーって原動力にもなるものだと私は思ったりします)
「本当は死というものに甘えているだけなのかもしれない」という言葉には、あなたの誠実さが伝わってきました。苦しみの中にいても、自分を分析しようとする力が働いていて、自分の心をまっすぐ見つめようとするそのまなざしは、もしかすると勉強よりもずっと大切で深く、人間の本質に触れているのではないかと私は感じています。
あなたが“落ちこぼれ”だと感じている今この瞬間も、実は「生きるとは何か」「努力とは何か」「他者とどう関わるのか」という、誰もが避けて通れない大きな問いと向き合っている証のようにも私には映りました。
“死にたい”と感じるほどの心の痛みはそう簡単に消えたりもなくなったりもしないものだと私も長年死にたさを抱えながら生きていて思うことではありますし、本当はもう少しだけあなたが自分を責めなくても過ごせる瞬間が訪れたらなとも思いますが、でもまずはあなたが感じるままの気持ちを安心して出せる場所や人に出会えることを強く願っています。そしてそんな場所の一つとして死にトリがあれたらなとも思っています。また必要に感じた時は、いつでも訪れてください。

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