経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「幸不幸は糾える縄の如し」と言える人が羨ましい

幼少期からの病気、暴力、家族の失踪、経済的な貧困を経て、就職した会社が書類送検され離職したり、交通事故やその相手との訴訟に重ねて事故の障害を抱え、友達が自死し、膠原病になり、という山と谷をどうにか歩いてきました。
最近は少し落ち着いてきて、ようやく自分の人生を考えられるかなと明るく思っていた矢先、ずいぶん昔に連帯保証人に名前を書いた知人の借金の取り立て通知が家に届きました。健診で「心臓の状態が気になる」と言われた直後でした。
知人は私に直接の一言もなく自己破産するようでした。私が借りたわけでもない借金を返済しなくてはならない、そのやり取りのために仕事も休まなくてはならない。
そして何より、心臓病がわかったことも大きく私の気力を削ぎ落としました。
医師が真面目な顔で深刻そうに病名を告げてくれた時、『私は今それどころじゃなくて、借金をどうするかで困ってます、先生』と心の中で思いました。多分私は笑っていたんじゃないでしょうか。今まで苦しい時はずっとへらへら笑って生きてきたからです。
連帯保証人になったのがそもそもの問題だったのはわかるけれど、『今じゃなくても』と思うことは許して欲しい。
私は頑張って生きてきたけれど、やっぱり生きていてもいいことはないんだなぁと、私も思ったし、私の人生を眺めていた人は誰でも思うんじゃないでしょうか。「生きてて良いことってあるのかなぁ」と呟いたら「何言ってんの、そういうこと言ったらダメだよ!」と嗜めてくれた人がとうとうこの前は「不幸すぎる」としか言いませんでした。
あまりにも問題だらけな人生で、何もしていないのに問題が降ってくるのです。なんだかここまで来ると、心配性で迷信深い人には私自体が闇を吸い寄せる魔物みたいに思われそうだし、そもそも信じてもらえなさそうな気もします。こんな盛り盛りなドラマ小説があってもネタが多過ぎて面白くないでしょうし、せめて笑い話にできるくらいの量の不幸で良かったのになと思います。
最近は私の機能不全な心臓が可哀想でなんだか愛おしくもあり、共に戦ってきた戦友のような気持ちになってきました。以前は「私が突然死んだりしたならドナーとしてせめて私の心臓が誰かのところで幸せな人生を歩んで欲しい」なんて夢も見て、健康保険証の裏の臓器の提供希望に強めな丸をつけていたけれど、そのささやかな願いも叶わなくなりました。この心臓がもう無理だというならもう無理なんでしょう。心臓が拍動できる回数は決まっているという話もあるし、私の人生は山と谷を越え過ぎて拍動を使い切る直前なのかもしれません。せめて死ぬ時くらい一瞬で、心臓発作で一気に死にたいというのが最近の私の神社での神様へのお願いです。神様に文句も言わずに頑張ったのでそれくらいは願いを聞いてくれてもいいんじゃないかなと思うのですが、これまでの人生を振り返ると好転したこともないし、結局苦しんで死ぬのかもしれませんね。でもやっぱり苦しいのは嫌なので、最期くらい自分で決めて死にたいとも思います。『どこでどうやって死のうかな』と色々調べるのが残りの人生の生きがいになりそうです。

感想1

投稿読みました。あなたの文章を読んで。“これ以上、何を耐えればいいのだろう”という深い疲労感というのかどこか諦念に近い感情が伝わってきました。苦しみの波が途切れることなく押し寄せる中で、それでもなお“笑ってきた”と書かれているところに、どれほどの力で日々をしのいできたのか…と考えていました。なんとなく自分の痛みを受け止めるよりも先に“生き延びること”そのものが仕事(使命というのか…)になってしまったように感じられました。
“生きていれば良いことがある”ってそんな常套句を信じたくても、現実がその希望を裏切り続けるものだよなと私は感じますし、あなたの言葉は、そうした“善意の物語”の外側に立つ人のリアルな声に感じました。連帯保証人、病、事故、貧困、喪失…どれも“自己責任”では片づけられない社会的な不運の連鎖でありながら、この国ではなぜか個人の「選択の失敗」として背負わされてしまうものだよなと改めて痛感しています。あなたが「今じゃなくても」と呟くそのささやかな願いに、勝手ながら胸が詰まるというか、何とも歯がゆい気持ちになってしまいました。
「幸不幸は糾える縄の如し」と言える人を羨ましいと思う気持ちは、ただの嫉妬ではなく、この社会における“公平感”のなさへの嘆きでもあるのかなと思ったりします。不幸の量やタイミングがあまりに偏ってしまったとき、人は運命よりも構造そのものを疑うものでもあるのかなと…。どんなに努力しても、社会のシステムや他人の選択によって再び不幸に引き戻されることに、「生きる意味」を見出すことの難しさを考えさせられています。あなたが抱く死への願いは、決して衝動的ではなく、むしろ長い時間をかけて形づくられたある種整理された感情のようにも私は感じました。誰かや何かに怒るでもなく、それでも「最期くらい自分で決めて死にたい」と願う様子に、悲しみと同じくらいの切実さがあるように思えました。
今の社会の現実を等身大の声であなたが伝えてくれたように私は感じています。もしこうして言葉にすることがあなたにとって何か役に立つようなら、またいつでも死にトリを訪れてほしいです。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

子どもの頃から数多くの困難を経験してきたあなたのリアルな声が私に響いてきました。特に印象的だったのは機能不全な心臓を愛おしく、戦友のように感じているという部分でした。この記述に触れたとき、私は今の社会の不完全さを鋭く指摘しているような気持ちになりました。何事もできる方がよく、不完全なものはダメ…という能力主義の考え方が私たちの周りには強くあります。しかし、私たちは本来は不完全であり、その不完全さを認め合い、補い合いながら生きていくことが大切なのだろうと私は思っていました。その大切なことをあなたの経験と言葉が強く届けてくれていると勝手ながら感じました。
医師に診断名を告げられた時の様子も風刺のようだと思いました。医師は身体を見る専門家ではあるけれど、その患者さんが一人の生活者としてどのような悩みを抱えているかについては関与しない…医療をはじめとした高度な技術や福祉などのいろいろな制度があっても、一人の人を部分的にしか見ないような実態があり、結局は不幸や不運は個人の努力や責任として押し付けられていることも普段から感じていたので、それもまたあなたの経験が物語っているように感じました。
残念なのはこうした今の社会のリアルが力のあるところには届かないことです。まさにタイトルにあるような「幸不幸は糾える縄の如し」と言えることがスタンダードとして世の中が回っているのでしょう。だからこそ、苦しい人はより苦しく、厳しい人はより厳しくなり、死ぬことを心から願う気持ちを持っても何らおかしくないと私は思いました。
そんなことを考えていると、あなたが今回こうして経験を書いて送ってくれ、今の社会のリアルを届けてくれたことをありがたく思います。臓器移植の夢は叶わないかもしれませんが、あなたの経験と声は誰かの人生の力になっていると私は思っています。
また、何か伝えたいと思ったときにはいつでも声を届けてください。

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