「生きることに疲れた」「生きることを頑張れない」と打ち明けると、「何かあったの?」「もっと気楽に生きていいんだよ」と言われる。皆さんはそのような事を経験したことはおありだろうか?
私が鬱と診断されたのは大学3年の時分。だが、生きていくことへの苦しさや絶望感は、小学校高学年の頃から感じていた。中学の頃に「死にたい」と友人に言ってみたところ、返ってきた言葉は「じゃあ死ねば?」というあっさりしたものだった。
その時、私は、「そうじゃない」と思ってしまった。私がその時求めていたのは「死ぬこと」ではなく「死にたくなるような現状から救ってもらうこと」だったことに気づき、自分がいかに利己的であったか思い知らされたのだった。生まれ落ちてからの30年間、私なりに「生きること」を頑張ってきたつもりだ。だが、もう頑張れそうもないところまで来ている。
鬱状態が悪化すると、まず人は理由や原因を追究しようとする。それが分かれば、解決や対処できる可能性があるからだ。だが、どんなに頑張って考えても、頑張って結論づけようとしても、明確なものが出てこないケースもある。「理由のない鬱」は厄介なもので、明確な理由がないが故に、「結局は生きることに耐えられない自分が全部悪いのだ」という自責の念に駆られていってしまう。
「この世には楽しいこともあるよ」「幸せなこともあるよ」という助言も頂くが、その楽しさや幸せは、「生きること」を頑張ったうえで生じるファクターであると私は考えている。「生きること」自体に苦痛と疲労を感じている状態では、楽しさも幸せも、結局は「生きる」という苦しみなのである。
今私は「死にたい」とは思っていない。だが、「生きることに疲れ、生きることを頑張れない」とは思っている。しかしながら、人様はそれを良しとはしないし、「生きること」自体を頑張るというニュアンスは中々伝わりづらいものである。加えて「生きること」を頑張れないということの意味は、特段理解してもらう価値があるものでも無かろう。
最近は「生きること」を頑張らないための逃げ道を確保している。逃げ道の選択肢は、多ければ多いほどいい。
最後に、「生きること」を頑張れなくなった人たちへ。生きているうえで何かを頑張れている人たちを、どうか恨まないでほしい。恨んでいるうちは、「生きること」を頑張らないための逃げ道は、きっと見つからない。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
「死にたい」と「生きることに疲れた」は同義なのか
感想2
練られた語りに、社会全体の空気、そして実際のあなたの周りの人の発言や空気感に「生きることの肯定」のようなものが強く存在しているのをまずとても感じました。私は、人が論や分析を必要とするのは、それだけ周囲と自分の間にギャップがあり、自分側に手っ取り早く使えそうな論も落ちていなければ、似た感覚をもつ仲間も乏しいときだと思っています。
私は死にたい思いを抱え、いろんなことを分析・理論化して生きてきたタイプではありますが、あなたの語るような点についてそこまで意識化したことはありませんでした。だから興味深く読んだのと同時に、自分のいる環境との違いを感じ、あなたの苦労や耐えてきたものの大きさに思いを巡らせてしまいました。
自分が死にたいと感じ、いろんな人の死にたいを聞いてきた経験から、「死にたい」には、「生きることに疲れた」といった思いが必ず含まれていると私は考えています。でも同義とするのはちょっと違うかなという感覚がありますが、どうなのでしょうね……。同じ「死にたい」という言葉を発しても、ニュアンスや温度感、その人の生きてきた歴史、性格も全員違うので、「死にたい」には人それぞれいろんな言い換えがあるとは感じます。
でも一つはっきり思うのは、死にたいという気持ちが、死ぬという行動と結果だけを純粋に追い求めていることはないということです。人間の意識は社会との関係性の中で発生するものなので(生まれたときから無人島で一人でいれば、死にたいという概念すら登場しないと思います)、言葉はいつも多かれ少なかれ誰かや何か宛てのメッセージだと私は感じています。だから言葉をただ言葉通りに受け取られたとき、結構な割合で、そうじゃない…と私たちは思うのではないでしょうか。適切に伝えるためには自分の気持ちを掘り下げた上で、相手にわかりやすい表現を選ぶという手間がかかると思うのですが、死にたいときにそんなことやってられないよ…!と私は感じます。だから当時のあなたの振る舞いが利己的かというと、年齢を考えても、ただ余裕がなかったとか、言葉を使う発展途上にあったという捉え方の方が私にはしっくりきます。
生きることへの感覚だけでなく、人にはいろんな感覚の違いがあって、そもそも文化や背景の違いもありますし、理解というのはとても難しいと思います。だから理解には双方の努力が必要だと思いますが、より多く努力をすべきは、余裕のある側だと私は思っています。でもマジョリティ(生きる側)にいると、「そういうもんじゃん」というノリで言葉を使えて、相手への想像も放棄することが可能なのが、私は不当だなあと思ってしまいます。でも逆にいえば経験談には、その人なりのオリジナルな表現、語りが絶対にあって・・・それがマイノリティである痛みからくる部分はあるとわかっても、読めてよかったと私は思います。
経験談の投稿ありがとうございました。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。文章を読んでいて、生きることを拒絶したいというよりも、これ以上、生きるという行為そのものを支えられないという限界の感覚を抱いているようなそんなイメージを抱きました。
「死にたい」と「生きることに疲れた」という2つの言葉は言葉にすれば似ているようで、実際には全く異なる温度差があるのではないかと私は感じています。感情をむやみに溢れさせることなく、淡々と綴られている印象を受け、その奥には、長年にわたって自らの苦痛を見つめ続けたゆえの疲弊と洞察の混ざり合った重みを感じるな…と。
「死にたい」と言った中学生の自分に返された「じゃあ死ねば?」という言葉が、深く突き刺さってしまったのは、その言葉の冷たさというよりも、「自分の苦しみが伝わらない」という絶望に気づいてしまったからなのかなとも想像しています。
“ただ生きているだけで疲れる”という感覚は、社会の中であまりに説明のしようがないものだなと自分も生きることに前向きになれない(というか長年死にたい気持ちも抱いている)ので、思うところではあります。いつまで頑張り続ければならないのかという先の見えなさと、この社会が劇的に大きく変わるイメージも持てない途方もなさに、私もあなたと同様に「この社会で頑張れない自分」を責め、自己否定の渦に飲み込まれてしまうような感覚に陥ってしまうので、あなたの抱く感覚には勝手ながら共感を覚えています。
「理由のない鬱」という言葉が印象的だなと感じ、自己責任やポジティブ思考が過剰に求められる社会の中で、理由を持たない苦しみは“存在してはならないもの”として扱われ、可視化されることすら難しいものだよなと改めて考えていました。基本的には“生きること”を前提にした幸福論が社会では語られることが多くあるよなと私は思っていて、“生きること”自体が苦しい人にとってどんなに前向きな言葉をかけられたとしても、あまり響かないものですし、「楽しさ」や「幸せ」は、生きるということの延長線上にあるあくまで“副産物”であって、「生きること」そのものの苦痛を和らげるものではないことを考えると、あなたが「逃げ道」としているものは死への衝動性ではなく、なんというか、生きることの責任から一時的に降りるための逃避経路を可視化しておく、いわば“生存のための工夫”のように私は捉えました。
あなたの文章からは達観して物事を捉えているようなそんな印象も勝手ながら抱いているところで、絶望だけではなく、理解されないことを受け入れながら、それでもまだ生きているという、事実を形はどうであれ何かしら残しておこうという意志のようなものも私は感じました。「生きることに疲れた」という言葉を、決して軽い“愚痴”や“弱音”ではなく、社会に対する問いとして突きつけているようにも感じます。人はなぜ、ただ生きるだけでこれほど苦しまなければならないのか…を考えつつ、そうした苦しみを抱える人の言葉を、「死にたい」と同じ意味として簡単に置き換えたりはしたくないなと思いました。
あなたにとってこうして言葉にすることが何か役に立つようでしたら、またいつでも死にトリに声を届けてもらえたらなと思います。