私は宗教3世で、祖父祖母世代が受けた戦争トラウマにより毒家庭に育ち、トラウマを持つことになった3世です。両親は宗教を盲信しており言葉が通じず、きょうだいは恐らく自己愛パーソナリティ障害であり、ここには書けない位のお金を言葉巧みに献上させられ続けました。
親戚も祖父祖母の死後、相続で裁判沙汰になるような家庭ばかりです。
私にはパートナー関係にある人間がいます。相手と結婚しようにも、パートナーと私の間では、日本では婚姻の制度がありません。付き合いは20年近くになるでしょうか。
パートナーは、家庭関係が良好で、両親ともきょうだいとも仲良くやっており、肉親の人たちもまともな人が多いようです。パートナーは私の育ちの悪さを理解してくれていますが、それでもやはり埋まらない断絶された部分が多分にあります。
パートナーが良好な親子関係、肉親たちとの関係を結んでいるのを見ると劣等感や疎外感、孤独感を募らせてしまいます。連休やお盆の時期など、「家族で集まるイベント」にパートナーが出向くと、どうしても気分が下降します。
先日、連休でパートナーが実家に帰った際、私には何の予定も入っていませんでした。なので、「私なりに楽しいことをしよう」と考えてその行動を取ろうとしたところ、パートナーには「あなたのその行動は迷惑だと思っているが、諦めている」というようなことを言われてしまい、激しいショックを受けました。
パートナーには、私の育ちの話をしてはありますが、だからと言ってそもそも毒家庭で育ってない人間に、全てを理解するのを期待過ぎたのがよくないのでしょうか。住んでる世界が違いすぎるのがよくないのでしょうか。
パートナーとは何かがあると「話し合い」をすることでしか乗り越えることができませんでした。なぜなら婚姻という制度が使えないので「なあなあにしておくこと=関係の終わり」だからです。私は、子供の頃からですが嫌なことがあると回避する傾向があります。回避することで全てを乗り越えてきました。その手段が取れないのは幸いか、不幸か、わかりませんね。婚姻の自由がこの国に無いことを皆さんはどう思いますか?私はもう疲れました。疲れていても話し合いを持たねばどうしようもなくなるという、関係性に疲れました。育ちが良すぎるパートナーは、私の劣等感や疎外感のことはさておいて自分の人生をやる必要があるわけです。誰でもそうですね。
「毒家庭」の戸籍から抜けるためにも婚姻の自由は必要ですが、それが日本にはありません。どうして、逃げることができないのでしょうか。
私のような毒家庭育ちの人間であれば恐らく理解頂ける方もいると思いますが、「お盆」などをなんとか乗り越える為の方法を取らねばならないという苦痛について、世間の人間たちは無理解です。「私なりの楽しさ」なんていうのはパートナーには関係がありません。だってそれによって実害を被るのはパートナーなのだから。
私はとにかく傷ついて、だけど「自分の感情は自分で処理をする責任がある」とのことだけれど、私にはもう、「どう処理をしたらいいのか」がわかりません。
親のせいで人生が歪みに歪みまくり、その歪みを正そうと頑張ってきても、些細なことで足元を掬われて、頑張っても頑張っても毒家庭の毒は抜けず、ひたすらに苦しみ喘ぎ、それでも週5勤務に耐えて毎日戦って、帰宅してもパートナーの勤務は終わらず、パートナーに理解してもらえないことを苦しむ様、そんな燃え滓の様な人生を送っています。
早く死にたいな、ここから消えたいな、という波のある感情を持ちながら送っています。「楽しい」ことと「死にたい」ことは両立します。
しかし、人間を一人この世から消す、というのは並大抵のことでできる訳では無いそうです。死にぞこなった時のことを考えると、安易に死ねません。
死んだように生きる人生を掴ませてきた、親と日本国の制度が憎いです。
世間の無理解に殺されそうです。
自分の中のもう一人の自分が「お前は無価値で甘えたカスの様な人間だ」とがなり立ててきます。
感想1
表現の1つ1つに、実感と感情が詰まっていると感じながら読みました。この経験談をどんなふうに書いてくださったかわかりませんが、的確で洗練された言葉たちだと思いました。それはあなたがこれまでに幾度となく理不尽や虚しさ、無理解の暴力性に苦しみ、もがきながら、自分の心をあらわす言語化を模索してきたからなのではないかと想像しています。子どもの頃から回避傾向があると書かれていましたが、目の前に立ちはだかることは自力ではどうしようもないことの連続だったのではと思いますし、今も人生の理不尽さを浴びながらどうにか生きようとしているからこそ、今回のアウトプットがあるのではと感じました。
パートナーさんの「迷惑だが諦めている」という言葉は、あなたにとって育ちの違いによる価値観の違いを痛感させられ、同時に自分が必死に形作ってきた生きる術(対処法)を否定されるショックを与えられる場面だったのではと感じました。(行動の内容にもよるのかもしれませんが…)あなたの視点でみれば、その行動はパートナーさんとの埋まらない距離を直視せず自分に集中する行為、それによってパートナーさんに違いを埋めることを強要しないための行為でもあったように感じます。だからこそそれを「迷惑だ」と言われてしまうと、自分が相手のことを考えて動いても相手は歩み寄る気をもってくれていないような感覚が生まれ、それが強まっていった先で「相手と自分の育ち(価値観)の違い」がより深い溝として立ち現れたのではないでしょうか。加えて文脈から推測するに、これまでにもあなたはその行動を取ってきたのだと思うので、「今になってそれを否定されるのか」というような、遡って否定されることによる平時以上のダメージの大きさをもイメージしました。
自分の中にないものを他者から受け取った(聞いた)とき、それを頭ごなしに否定したり非難したりせずに受け取る(受け取られる)ことが叶ったとしても、それだけでは寄り添われない、埋まらない溝が常に私たち(自分と他者)にはあるよなと思います。そのままならなさを諦められることが正解だとは全く思いませんが、諦められたら楽なのに(それが上手くいかないのは親や家庭で受けた傷のせいなのか?)と考え始めると途方もない気持ちになると感じます。そうした自分の思考や価値観、感情の揺さぶられるポイントが自分と他者の生きやすさに決定的な違いを生んでいるとしか思えないとき、人は自分の人生に先を見出せなくなるのかもしれない、などと考えました。自分の中での苦しみと外の世界が本当の意味で相容れない限り、楽しいことと、死にたいことは両立しつづけていくのだろうなと感じました。今回の経験談ではパートナーさんの話を中心としたあなたの話でしたが、あなた自身が苦しんできたこと、自分の中の自分とのやりとりについても、よければまた聞かせてください。