経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

どこでもない

私はユートピアにいた。それなりに裕福で虐待のない家庭。大きないじめのない学校。悲しい事件が起こらない平穏な田舎。この身体に発達障害もない。リストカットもODもしたことがない。宿題で眠れない夜はあったが、それ以外はしっかり眠れた。食事は喉をスムーズに通り、吐き戻すこともない。
いま思えば、なぜだろう。苦しかったはずなのに……。中学まではよく泣いていたけど、高校になるとまったく涙が出なくなった。文化祭の準備で無視されて、無能になって、教室の隅に怯えながら立っている日々も、大学受験で周りが団体戦をしている中、私だけ学校と親のストレスを相手にして個人戦をしている日々も、辛かったはずだった。だが涙一滴出ない。眠れない夜はない。苦しみを証明するものが何もない。学校を休む理由もない。学校で嫌なことがあっても家では何もなかったかのように笑った。苦しみはちっぽけだったのか。その蓄積で幸せを恐れ、孤独にしがみついているというのに。
誰ともわかり合えない。ネット上で心に闇を抱える人に出会っても、幸せな人と同じくらいわかり合えない。共感できることがほとんどない。家族ともわかり合えない。私が大学を辞めたいと言って家族会議が開かれたとき私は苦しみを伝えようとしたが、脳が拒絶しているかように声がどもってうまく発することができなかった。結局何も説得できず、一方的に攻撃を受け続けた。わかり合えない人間のすべての声を無視して大学は辞めた。
もう人と関わりたくない。皆、私を嫌うのだ。嫌われるのは構わない。だが迷惑にはなりたくない。高校、大学ではグループワークで無能で邪魔で迷惑になっていた。私にコミュ力がないから。この人生の苦しみの多くはコミュ力のなさから来ていると思う。だがコミュ力を上げたいとは思わない。理由は複雑だが一つはこれだ。皆が私から声を引き出そうとした。喋れよ、何か言わないとわからないぞ。声が必要なこの世界には、もううんざり。私にチームワークに関する向上心はない。こんなガキのようにわがままな私が仕事にありつけるのだろうか。アルバイトには十五回以上落ちた。やっと受かった仕事もすぐにクビになった。社会は私を拒絶している。どんな人間も生きていいというのは偽善だろう。
大変な人生は覚悟していた。自殺も考慮に入れていた。だが親は案外優しく、私が仕事につくまで援助してくれるらしい。いまは勉強中。やっとよさそうな仕事を見つけた。誰ともわかり合えない私は、誰の助言も頼りにせず、独りで道を決めて勉強している。少なくとも希望は持っている。だが生活環境が最悪だ。だけど相変わらず涙は出ない。夜も眠れるし、腕もきれいだし、部屋もきれいだし、それに、それに……。
いまも私はユートピアにいる。ユートピアとは「どこにもない場所」。私は苦しいのか? 幸せなのか。この人生は悲劇でも喜劇でもない。私は障害者や精神疾患者でもないけれど健常者とも言いがたい。幸せと孤独、希望と絶望、信と不信の間で揺れ動いている。ここはどこでもない場所。誰もいない名前のない世界。自分のことがわからなくなってしまう。何もかもなくなって、空っぽになっていく。

これを送ったのは二回目。一回目もだが、長い拙い稚拙で幼稚な文章で申し訳ない。きっと独りが寂しいのだろう。どうかまた何か言葉をください。

情けない、愚かだと感じてる。私は独りで生きないといけないのだ。なんだかそれが、神が私に与えてくれた使命のように感じる。人は独りで生きられないという言葉は、私の心には響かない。独りでいれば誰も傷つけることはない。私以外の人には幸せになってほしい。涙さえ出ない私に救いの手は値しない。そもそもいったい何から救われる必要があるのか。
いい加減、独りで生き続けることを決意しないと。

感想1

自分の苦しみと、苦しみの証明と、その証明のむずかしさについて、あなたが悩み抜いてきたことを感じました。独特な表現が多く、それはあなたの実感に近い表現を選んできたからなのかなと思いました。
このあいだSNSで、「体調が悪いときは(電車の椅子やベンチなどの)椅子に座るのではなく、床に倒れ込んで!」というような投稿を見かけました。たとえば熱中症などで体調が悪いときも、椅子に座っていると周りに気づいてもらいづらく、しゃがみ込んだり倒れ込んだりするほうが、周囲にイレギュラーな状態だと伝わりやすく救急車を呼んでもらいやすい……みたいな話だったと思います。私の実感としても、苦しさはなかなか外から見えないようだと思っています。とくに精神的な苦痛は、ほんとうに可視化されづらく、自分自身にすらわからないことが多いと思います。

私もいちばんつらかった10代と20代はものすごく眠れていて、むしろつらい状況がすこし改善した最近になってから不眠の症状が強まり、自分の体もわからないものだなぁと感じています。涙が出ない=つらくない、というような認識があるのかなぁとも思ったのですが、つらいことが続くときには、人の体は感情をすこし切り離すような非常事態の対応をすることもありますし、一概には言えないのかなと思いました。たとえば、緊張しているときには問題なく見えたのが、緊張がすこし解けたときに感情が顕在化することもよくあるようた気がします。
ただ、可視化されるなにかや、自分のつらさをストレートに表す表現が見つからないとき、自分でもそれを「あるもの」として扱うことがむずかしかったり、どのようにとらえていいかわからなかったりすることもあるのかなぁと想像しています。
読んでいて、あなたはつらいと言ってもいいと思いました。ただ苦しかった、怖かったと声に出してみてもいいと思いました。それらをあなたの感情として認めても大丈夫、と(第三者が決めることではないとは思いつつ、)思いました。

「わかりあう」ことはむずかしいですね。人の話を聞いて、どのくらいの範囲を「近い」と感じるから人によってかなり違うと思います。すこし近い部分があれば「同じだ!」と思う人もいますし、あまり思わない人もいます。
そもそも感じ方にもかなり違いがある中で、私自身も、どこかに似たような人はいないだろうか……と探している人生でもあるような気がします。

「独りで生きる」ということについては、私はそれはたとえば家族や友達やパートナーといった関係の人と生きるのではなく、という意味なのかな?と気になりました。私たちはだれかに提供された電力を使い、だれかが運んだ食料を食べ、水を飲み、だれかが整備した町に生きています。病院や公共福祉も人間によって運用されているものですし、インターネットもそういうインフラの上に成り立ち、さまざまな人の関わりの中にはじめて存在することができるものです。その意味で、私たちは「ひとりでいきる」ことは不可能だと私は考えています。
そうではなく、日常的に対面で人間と言葉を交わすことを前提とせずに生きていく、という意味であれば、それも一つの生活のあり方だとも思います。私は人間よりも植物と関わっているほうがいいなと思うこともあります。
ただ、あなたにとって「使命」とも感じられるというだけでなく、「迷惑をかけてはいけない」という思いが根底にあるなら、私はそんなことはないとも感じました。
もちろん人と関わりたくない時は関わらなくてもいいと思います。ただ、必要に感じたり、あなたが関わりたいと思うタイミングがもしかしたら今後あるなら、それもまた生活のあり方のひとつだと思います。なんだかぐだぐだ書いてしまってすみません。
私はここであなたと関わることができてうれしかったです。ふたたび投稿してくれてありがとうございました。

感想2

あなたの固有の考えや感覚、経験が書かれていました。それを何度かじっくり読ませてもらいました。今回の投稿では書いていない誰にも伝えないあなたがいるのかもしれません。
中学生の頃までは涙を流しながら無理解に耐えてきて、高校になる頃にはどこか諦めと言うか人に見切りをつけて、自分の心に蓋をしたのかもしれない…そんな想像しました。(違ったらすみません)
「皆、私から声を引き出そうとした」この言葉も私の中で印象に残りました。それはその時のあなたの気持ちを想像したからなのかもしれません。分かり合えないことが分かっているのに声を出すことを求められる日常だとすればもう誰にも関わりたくないと思うのは自然なことだし、人は話せばわかるとか、わかり合えるなんて言葉はあなたにとって気休めにもならないのかもしれません。みんな違ってみんないいとか言葉ではわかるけれど、社会はその言葉が空虚に聞こえるほど厳しい現実を突きつけてくると私は感じています。私は他の誰でもない、“自分の言葉”が大事だと思っています。自分で感じ、自分で考え、自分で言葉にする。それは誰かと話し合ってもいいし、自分ひとりで信念や理想として持っていてもいいような気がします。あなたの経験を読むと、声に出さない、もしくは出せないだけなのにまるで言葉がないかのように扱われる理不尽さを抱えていたのかもしれません。それでもあなたは独り、自分の道を見つけようとしているところにあなたの地力を私は感じます。
私はあなたと少しだけ似たようなことを考えることがあります。孤独とつながり、希望と絶望、可能性と不可能性、相反する中で揺れるのが人間なのかもしれません。本質的に人間は孤独であり、だからこそつながろうとして、やっぱり孤独であることを気づくような気もします。
孤独で生きることを決意しようしているあなたが経験談を投稿してくれて、こうやってつながって、私は感想を書いています。どこにもない場所からまた時々ここにも来てもらえたらと思います。

一覧へ戻る