経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

やっぱり人と関わるのは嫌い

中学生の時にここに書いたきりだんだんと消えたい気持ちは無くなっていたけど、高校生になった今また消えたい、話を聞いてほしいと思うので投稿します。すごく長くいろんなことを書いてしまうかもしれないです、すみません!

今は運良く中学生の時に不登校でも受け入れてもらえる高校があり、全日制の高校へ通っています。
入学してからもう5ヶ月経ち部活に毎日行っています。去年とは全く生活が変わり忙しい夏休みを過ごしていて消えたいという気持ちは考える間もありませんでした。
新しく親友と呼べる人もできました。その子も不登校を経験していてお互い勉強とか学校生活頑張ろうねと言いながら学校へ行っています。ですが親友に追いつけるのか、周りの人におまけとして私が認識されているのではないかと最近は不安で辛いです。
親友は色んなことを考えすぎてよく気に病んでしまう所は私と似ているのですが、行動力、優しさ、クラスからの信頼など……その他もろもろの能力の違いを感じてしまい、結局私はひとりじゃ何もできないんだ、みんなに「親友さんにくっついてるお荷物みたいな人」って思われてるんだと思うようになっています。
私は人と喋るのが苦手だし、勉強だってしっかり聞いて復習しないと分からないし、私を好きになってくれる人もいないし、ただ親友に依存しているだけの人なんだな、全部負けてるのは私なんだだって……..
もちろん親友にも私には話せない悩みを抱えていると分かっているんですがそれでも親友は担任とかクラスの人たちから信頼されていて、気になる異性と遊びに行けたりしてる事実になんだ人と上手く関われてるじゃん、私だけだったんだ。とモヤモヤしています。今日もこっちから見たい映画があると遊びに誘ったのにやっぱり今日会うのはちょっとキツイな..と体調が悪くなったと嘘をついて他の日にお願いしたら心配のLINEが来て……嬉しいけどそれよりも優しさが刺さりました。親友は私のことを1番の理解者としてくれているのに、私が中学生の頃に1番求めていた人なのに、最近はそれすらも鬱陶しくなってしまいました。
私のことを優しいとか繊細とか言ってくれるけど私はうるさいクラスの人の事をいじられキャラなの辛くないかなって心配したことないし、嫌いな人の愚痴もあなたに言ってるよね?それのどこが優しいの「𓏸𓏸ちゃん(親友)の方が優しいよ」って言ってほしいの?とも思う時がありました。もうどう接したらいいか分かんないです、結局は他人の目が気になっているんだと思います。

クラスの人とももっと話したいんですがキラキラした人、所謂陽キャと言われる人とはどうしても合わせると疲れてしまうし、そうじゃない人ともこの人達と関わったら地味な人、陰キャ、って分類されちゃうのかなと話せなくて結局親友に固まってしまいます。人を陽キャ陰キャ分類するのは良くないと自分が1番嫌っていたのに無意識に差別しています。私が行動しなきゃ変わらないのに……私は優しくないです。
もう中学生の時のように自分に自信がないのはなしだ、学校を休まず行かなきゃと誓って高校生になりましたが、まだ自信が足りないのか学校での行動を全て人に笑われている気がしてならないです。この前も体育系のキラキラした人たちの集団に学校で誰かも分からないまま悪意あるニヤニヤ顔で話しかけられたことがあって…まぁ高校生らしいな、そういう人たちなんだと思うようにしましたが正直すごく怖くて、ますます学校に行くのが嫌になりました。

人と上手く関わるぞと意気込んで高校生になりましたが自分を大事にしてくれる人にさえ嫌と思ってしまう、やっぱり人と関わるのは好きじゃないです。
学校に行くのは私には向いてません。夏休みが終わるのが嫌で嫌でしょうがないです。
ですがもう休んだら私の将来に影響してくるのであと数年頑張るしかないと思っています。

感想1

「やっぱり人と関わるのは好きじゃない」…そのつぶやきに真剣に賛同する私がいます。私も、表向きではそれなりに人づきあいをしますが、内心ではかなり人と関わることの煩わしさや面倒さのようなものを感じて、一人で勝手に疲れていることがよくあります。私はあなたよりも随分と年上なので、立場や環境はかなり違うと思いますが、社会で生きていく中で避けて通れない人との関わりへの違和感や負担感ということでは何だか通じるところがあるなぁと感じました。
ただ、あなたの場合は学校というちょっと特殊な集団の中での独特の苦労があるような気がしています。最後に「夏休みが終わるのが嫌で嫌でしょうがない」と書いていましたが、もう夏休みが終わり学校が始まっていると思いますが、その後、どんな気持ちで学校に向かったのかなと思いを巡らせています。そして、もしも嫌だったら時には休んでもいいよと声をかけたくなっています。そんなことを考えていたら、自分も高校生の時にいろいろなことに疲れてしまって、学校に行きたくないなぁと思ったことがあったことを思い出しました。そして、実際に休んだこともあったことも思い出しました。休んだことで気持ちがリセットできたこともありますが、何よりも「必要な時には休んでもいい」という実感がとても貴重だったと今になって感じます。だからこそ、あたり前の日々を過ごすことはそんなに簡単なことじゃないし、避けられない煩わしいこともあるし、疲れてしまうこともあるから、疲れたときには立ち止まったり、休んだりしてもいいのだと伝えたいですし、世の中が全体として少しおおらかになってほしいと願います。何かと一生懸命やらなくては、頑張ることが前提で手抜きやサボりはいけないなどというプレッシャーがあるように思いますが、もう少し緩やかに大らかにいられる社会がいいなぁと思っています。
そして何より、あなたがこうして自分の気持ちに素直に耳を傾けて、それを言葉にできることに意味があると思いました。自分のことに目を向けると、嫌になることも多いですが、そのことで自分との付き合い方が少しずつわかっていく側面もあると感じています。身近な人に言いにくい本音もあり、自問自答をすることも多いかもしれませんが、こうして書き起こすことで見えてくることもあると思います。中学生の頃と、そして今回と迷ったとき、立ち止まったときに死にトリに声を届けてくれたことを嬉しく思います。これからも、必要な時にはいつでも来てください。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。また再び死にトリに繋がってくれたこと嬉しく感じています。親友との関わりの中で感じる安心や喜びと同時に、比較してしまう不安や劣等感がじわじわと濃くなっていき、その揺れ動きの中で自分をどう受け止めればいいのか迷っている様子が伝わってきました。誰かを大切に思いながらも、その関係性の中で自分の未熟さや弱さを突きつけられる感覚は、特に思春期の学校という閉じられた社会の中ではより強く意識させられるものだよな…と私も学生時代を振り返って感じることです。
周囲の人たちとどう関わるかという悩みについては、個人の“性格の問題”だけとして片づけられるものではなく、学校という場の特殊な空気が大きく影響しているように私は思います。集団生活の中では、少しの言動が「目立つ」あるいは「地味」といったその人の評価に直結してしまいがちで、そこから自分を守ろうとすることで自由に動けなくなることがあるのかな…と。そうした状況で「もっと関わりたいのに、うまくできない」と感じてしまうのは、その環境の特殊さをあなたは敏感に受け取ってしまい、心が疲弊してしまっているのではないかなと想像していました。
他者からの自分への見え方(「優しい」「繊細」など)について、否定的というのか相手からの言葉がむしろ突き刺さるように感じてしまう(のかな?と私は感じました)のは、あなたが人との関わりの中で、どこか「こうあるべき」といった理想像があったりするのかなと考えていたりしました。そこで測ろうとするからこそ、自分の行動や感情がその基準に届いていないと苦しくなってしまうのではないかなと。でも、人は完璧ではないし時に妬ましく思ったりしながら、それでも関わり続ける存在であって、その不完全さもまた人間らしさの一部なのではないかなと私は思ったりしています。
「学校に行くのは向いていない」と感じながらも、将来のために通おうとしているところに、私自身も学生の頃にしんどいけど休むことへの抵抗は強くあったし、自分の先のことへの不安が漠然とあったな…と思い返していました。私の場合はそもそも休むことは親の許しが得られなかったし、よほどのことがない限り休めなかったのですが、そのことが社会に出てからも染みついてしまい、自分でも限界に気づけず、気づいた時には動けなくなってしまったという経験がありました。頑張り続けることは人によって限界値が異なるとしても、どこかで歪みが生じるのは確かなことで、気持ち的にもそう簡単なことじゃないかもしれませんが休めるうちはとことん休んでほしいですし、どうしようもなくしんどい時は休んでも良いんだよとお伝えしたくなりました。(学校だけが全てではないよと、大人になった今だから言えることだよなとも思いつつも、そう伝えたい気持ちにもなりました)
「人とつながりたい」という願いと「その中で自分が傷つくことへの恐れ」の間で揺れる様子が文章全体を通して伝わってきて、その揺れは決して無駄なものではないと思いますし、人間関係の中で自分の居場所を探していく過程そのもののように私は思えました。こうして言葉にして表すことができている時点で、すでに自分をしっかり見つめる力をあなたは持っていると私は感じています。あなたにとって自分のことを言葉にすることが気持ちの整理に繋がったり、何かしら役に立つようであれば、またいつでも死にトリを活用してくださいね。お待ちしています。

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