経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

片親の母(65才)との関係

私には兄弟もおらず、物心ついた時から母と二人暮らしをしていました。ただ、自分のゲームの課金などで私に対してお金を無心したり、生活費にまで手をつけてしまう母とはあまりうまくいかず、3〜4年程前から別居しています。2年ほど前に母は仕事中に怪我をし手術を行いました。
ある時、たまたま実家に行くと手術の時からずっと働いていなかったようで家賃や税金、携帯料金の滞納やカードローンなどの借金が発覚しました。生活保護や年金については、貰い方がわからないからと貰わずに生活していました。
その後地域包括支援センターの方々に相談を重ね、全ての滞納、借金は私が返済し、実家(公営住宅)も引き払いました。今は年金もらってケアハウスに入居中です。ただ、入居後1ヶ月で血液検査の数値が悪くなり身体障害者手帳をもらうかもしれない状況で、地域包括支援センターには再度相談しました。
今までの対応を全て私が担ってきましたし今までや今回も私の貯金を切り崩して何百万円も注ぎ込んできましたが、母は感謝をしないどころかわがままや幼稚な行動、母の依存的な態度に対して不満や怒りを感じるようになりました。
私が精神的に病んでご飯も食べられない眠れない、色々な情景がフラッシュバックして泣いて過呼吸になった事を母に伝えても、メンタルが弱いねと言われ唖然としました。
母がケアハウスに入ったら自分の人生をようやく始められると思ったのに、母に振り回されてもう無理です。限界です。私の今までの人生なんだったの。私も皆んなみたいに自分に投資したかった。解放されたい。
周りには母が悪いと言われますが、私が母から逃げなければ、あの時もう仕送りはできないと伝えなければ、こんな風にはならなかったのではと自責してばかりです。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。
「私の今までの人生なんだったの」という言葉に、お金の問題以外にも書かれなかったさまざまな苦労があったことを想像しながら読みました。
母親の節度を超えたお金の使い方を目の当たりにすることは、不安もそうですが、どこか虚しさもあったのではないかと感じています。
借金が発覚して、相談から債務整理、引っ越しなど、どんな思いで対処に追われていたのだろうかと考えました。
あなたの時間と労力、貯めたお金を犠牲にしなければならない状況には、思わずやるせなさを感じてしまいました。やっとの思いで伝えたSOSも一蹴されてしまい、さらに傷つきを深める出来事になってしまったのではないかと思います。
自分のやってきたことは何だったのかと膝から崩れ落ちてしまいそうな絶望感とともに、不満や怒りを感じるのは当然のことだと私は思いました。
周囲から母親が悪いと言われても、自分の行動で何か変わっていたのではないかという後悔や自責の念があるのですかね。
私は、あなたは充分過ぎる母親と向き合ってきたのではないかと感じてしまいました。
「母に振り回されてもう無理です」との言葉には、「家族」という関係性のしばりの中であなたがケア役を引き受けざるを得ないことや、母から離れたいのに離れることができない葛藤があるように感じました。
まだ言葉になっていない気持ちも、これから先湧き上がってくる気持ちもあるのではないかと思っています。そんなときは、思いを吐き出す場所として、また死にトリを使っていただけたらと思っています。

感想2

投稿読みました。お母さんとの関わりの中で長い間背負い続けてきたことの疲弊と、そして“自分の人生を生きたいのに生きられない”という切実な思いが伝わってきました。
お母さんが生活費にまで手をつけてしまい、借金や滞納を繰り返していたこと、それを何百万円もの貯金を切り崩しながらあなたが一手に引き受けてきたことは、ただの「親の手助け」という範疇をはるかに超えているのではないかと私は感じました。加えて、支えられる側であるはずのお母さんが感謝を示すどころか依存やわがままを繰り返し、さらには「メンタルが弱いね」と突き放すような言葉を投げてきたことは、想像以上に心に深い傷を刻み続けているのだと思います。こうした状況は「家族だから助けるのが当然」という暗黙の圧力の中で抱える問題だと感じますし、介護や生活困窮などの支援の領域においてもしばしば見過ごされがちな課題であるな…と私は思いました。
お母さんがケアハウスに入居すればようやく自分の人生を取り戻せると信じていたのに、その期待は裏切られ、むしろ再び振り回されているという感覚が、強い虚無感や怒りにつながっているのではないでしょうか。「私の人生なんだったの」という言葉は、人生の貴重な時間とエネルギーを他者のために費やしてきたにも関わらず、自分自身のことには投資できなかった喪失感の表現なのではないかなと私は捉えています。一方で、周囲から「母が悪い」と言われても「自分が仕送りをやめなければ」と自責に囚われてしまうところに、長年にわたり形作られた“自分が支えなければ”という役割意識があなたを縛り付けているのではないかなと…。この自責は決して理屈の問題だけではなく、依存的な関係性の中で心に刷り込まれてしまう構造で、そう簡単に解き放てるものではないことの難しさを考えさせられました。
文章全体から、疲れ果てて「限界です」と言わざるを得ないほど追い込まれている今の状態が伝わってきて、安易な慰めはしたくないとは思いつつ、それでもこれまであなたが一生懸命にお母さんと向き合ってきた姿勢や時間に、労いの言葉を送りたくなっている自分がいます。
「解放されたい」という言葉に込められた願いは、重荷を手放したいという切実な心の叫びであり、自分の人生を取り戻したいという強い意志でもあるように私は感じました。
あなたが本当はどういう人生を送りたかったか聞いてみたいなと思いましたし、もしここには書ききれなかったことがあるようでしたら、また声を届けてもらい言葉を交わせたらなと思っています。経験談の投稿、ありがとうございました。

お返事

感想をいただきありがとうございます。
拙いかもしれませんが返信を送らせていただきます。
だいぶ端折ったので無茶苦茶な文章だったかと思いますが、丁寧に感想を書いていただいてありがとうございます。
暖かく寄り添った感想をいただき泣きながら読ませていただきました。
凄く追い詰められてましたが家族には言えないし、友達には重すぎる内容なので言えなくて苦しかったです。
死にたいという思いは、なかなか周囲には言えないく同意もできないことだと思うので死にトリ様に出会えて良かったと思います。
もし私の経験が誰かの支えになれたら嬉しいです。

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