経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

結局は目先の楽しみなのか?

哲学や心理学を学ぶと、素晴らしい発見や学びがある反面、身の回りには物事の分別や吟味することもなく、認識操作によって現実を捻じ曲げいじめをおこしたり、事実を見ずに評価して、気に入らない人を蹴落とそうとする。
また職場や家族にその話をしてもほとんど気のせいで済ませたり、認識の統一の難しさ、馴染みのなさが露呈し、一生懸命に話す自分自身を無力に感じる。
そのギャップに消えたくなる。
具体的な話は日常的には必要ないのだろう、目先のことが楽しければそれでいいのだろう。
この先のことを考えることは心理学でも変えられることだと学んだが、そのようなことは本人にしか必要ではなく、同僚や上司に通じる話でもないのかと絶望したりした。

学びは無駄なのか、それとも生かせるのだろうか。苦しみながらも生きてきたが意味が感じられない。

感想1

深く思考する扉を一度開けた後、もう閉められないのかも知れないな、と思ったことがあります。その扉は、苦しみの始まりだったとも思うし、本当の真実や幸せを追い求めるためには必要不可欠なものだとも思います。

あなたの言うとおり、哲学や心理学を通じた話ができる人というのはほんの一部かも知れません。それでも、哲学や心理学は人類が作ってきた学問である事実が証明するとおり、話せる人というのは全くいないというではないとも思います。もっと言えば、自分が考えつくことというのは、すでに誰かが考えついていることばかりだったりもします。

日本人は「哲学学」をしており、自分の「哲学」を持ちにくい国だと聞いたことがあります。国によっては、個々人が深いレベルでそれぞれの哲学を持っている国もあるようで、あなたの生きにくさというものは、もしかしたら日本という国の柄というのもあるかも知れません。

苦しくて孤独な道かも知れないけれど、きっと学びを通して考える力のある、そしてそれを実生活にも落とし込める力のある、あなたの使命というものがこんな国だからこそあるんでないかな、と私はそういう気がしています。

感想2

私は哲学や心理学を学んだことはないですが、内省して深く考えようとするタイプではあるので、ちょっと共感できる部分も感じながら読みました。
でも私は、誰しもが多かれ少なかれ認識操作をする、という点に最近は興味があります。人はそれぞれ世界を自分なりに理解・解釈しているわけで、私たちが語ることの全ては「自分サイドの物語」の域を出ないと私は思っています。その物語を相手に対しても押しつけたり、他者の安全を侵害するような物語になっていたら(例えば、極端にいえば、こんなに自分は不幸なのだから誰に何をしてもいいとか)問題ですが…。
目の前のことを感覚的に処理していく⇔広く深く思考として物事を捉えていく、真逆のものというよりはアプローチの違いで、どちらからでも(もしくは自分の中にある両方を活かして)普遍にたどり着くことはできると私は考えています。例えばいじめをしてしまう人を止めたいという目標で考えてみるなら、こういう理由でいじめはダメだと深めなくても、感覚で「これは正しくないことだ」と感じて適切な行動をとることは可能だと思います。(あなたの話とズレていたらすみません)
また、人間は結局は感覚や感情が先にあって、思考は後付けで発展していくものだとも私は考えています。私はかなり思考する人だと思いますが、そこには先立って世界への違和感や自分の孤独や傷があり、それをそのまま放置するのがつらくて、思考を深めてきただけだと感じています。だから、あなたの哲学や心理学への旅が、どんな気持ちやきっかけから始まったのかが私は気になりました。

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