経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

わからない

私の味方はいつだって音楽だけでした。音を大きくして聞けば、お母さんの怒鳴り声も弟や妹の鳴き声も聞こえなくてすむ。聞きながら勉強すれば、いつもより集中できる。
でも、お母さんに怒られるときと友だちといるときなど、人と関わるときには聞けません。会話ができないし失礼だから。友だちと話すのは楽しいし、家での苦しいことも全部忘れられます。でも、外の音が私は苦手です。車の音や人の話し声、音楽以外私にとっては「騒音」にしか聞こえなくなってしまいました。友達の声は大丈夫なのに、なぜこうなってしまったんだろう。
ある日、塾に自習をしに行ったとき、いつも通りイヤホンをつけて勉強をしていたら先生に注意されました。「イヤホンをつけて勉強はだめだよ」と。
音楽は流さず、携帯の電源を切り、音楽も何も聞けない状況で、イヤホンだけつけていました。
 私の通っている塾は個別指導で、自習室が別であるわけではなく、授業が行われている教室内の開いてる席に座って自習をする形式でした。授業をしている声は、私にとって「騒音」にしか聞こえなくて、息が苦しくなりました。結局、その日は自習をやめて家に帰りました。
私はそれから「外の音」が怖くなってしまいました。
 またある日、部活で大会が近く、体育館で練習をすることになりました。部活は演劇部です
その日は貸切にはできず、男子バスケ部と体育館を半分づつ使いました。ボールの音がだいぶ大きく、やはり息苦しくなってしまい、私は部室で休むことになりました。
顧問の先生は優しかったので心配してくれましたが、友達からはこんなことを言われました。
「本当はサボりたかっただけなんじゃないのか」と。
そんなわけないのに、必死で弁解しても冗談を軽く流す程度。
私はこの世界で生きていくのは向いていないと実感させられました。とても辛く、悲しかった。でもなぜか、涙が出ませんでした。悲しいのに涙が出ないということが、さらに悔しかったです。
今、私は生きづらいです。苦しいです。息をするのがやっとなくらいに。私はこの生きづらさとどう向き合っていけばいいんでしょうか?
家の環境は最悪、学校では愛想笑い、すべてどうしたら良かったんでしょう?
何もわからない。もう、何を書けばいいのかもわかりません

感想1

投稿読ませてもらいました。あなたが音に対してどのように感じて暮らしているのかよくわかりました。音が味方にもなり、敵にもなる…そんな印象を持ちました。
音にも色々あるなって改めて考えました。心地よい音楽はスーッと耳に入ってきて気分を変えてくれます。怒ったり、泣いたりしている音(声)は耳をふさぎたくなり、その場から逃げたくなるかもしれません。車の大きな音、雨の土砂降りの音、クラスで騒ぐ音は耳障りになる人もいます。生活していると“自分が必要な音”以外の音が一方的に聞こえてきます。時々音(や光)を敏感に感じる人に会うことがあります。聴覚過敏と一言で言ってもその感じ方は本当に人それぞれ。周囲からは分かりにくいので人知れず苦しんでいる人も多いですね。
授業やバスケットボールの跳ねる音…あなたの集中を遮ってしまったり、何かと結びついて苦しくなっていそうです。もっと印象に残ったのは母が怒る声や妹弟が泣く声です。怒りや悲しさの感情が乗っかっている声は本当に聴くに耐えないものです。自分の安心も脅かす音ですね。そう考えると家でのあなたは音楽を聴いている以外はずっと緊張しているのでは…。私も子どもの頃、母がヒステリックを起こした時に出す高い声が嫌いでした。それがいつ始まるのかも自分に向けられるのかもわからないから安心してはいられない時も結構ありました。あなたは学校で疲れて、家では音で自分を守っていないと安心していられないんですから、息がつまるような感覚になるのも当然だなって私は感じました。
だから家にいる時も、勉強する時もイヤホンするのは私は賛成したいです。
きっとあなたの投稿を読んで「わかる」「私も同じかも」って思うひともいると思います。「わからない」って最後に書いてくれましたが、あなたが自分の考えを持っていること、そして自分で自分を守ろうとしていることが私には伝わってきました。そんなあなたのことは顧問の先生とか分かってくれているのかもしれませんね。私はあなたがこれからも音楽を味方にすることで少しでも安心できる環境を得られるように願っています。最後になりますが、私は経験談を読む時は夜遅く部屋にこもります。音を遮断して投稿してくれた人のことを想像しながら感想を書いています。
投稿ありがとうございました。

感想2

人の音の聞こえ方というのは意外と人によって異なるらしいということを最近、とある研修で教えてもらいました。耳から入ってくる情報(聴覚情報)を処理する機能については、生まれつき他の人と異なる人がいたり、環境の影響でうまくいかなくなる場合もあるそうです。また、私たちの聴覚はカクテルパーティー効果と言って、いろんな音がある中でもそこから必要な音だけを拾って聞き分けることができるようになっているのですが、聴覚過敏があってあらゆる音が同じようなレベルで耳に入ってきて聞き分けられないとか、特定の音だけがとんでもなく大きく聞こえるような人もいます。他の人たちが平気なレベルでもとてもうるさくてストレスがかかる場合もあります。
こうした聞こえ方の不具合に共通しているのは、本人が人知れず苦しい思いをしていたり、苦労をしているのですが、それが周囲の人にはわからないし、理解されないということです。まさに、あなたの経験談を読み、人知れず苦労をして、自分なりに工夫をしているのに、それを理解されない状態なのだろうと私は思いました。実際に音に苦しめられていることでもかなりのストレスだろうと思います。音は生活している中で避けようとしても限界があります。特に学校や塾のような集団生活では自分では制御できないレベルで音があるのですから、その中にいることだけでも「よくやってるよ」と労いの気持ちを伝えたくなります。そして、自分なりに見つけた工夫(イヤホンをする)もナイスアイディアだと私は思いました。それなのにその自分なりの工夫を否定されるとは、そのダメージは計り知れないと思いました。だから「私は生きづらいです。苦しいです。息をするのがやっとなくらいに」という叫びがリアルに強く私に響いてきました。
もしも、自分の苦しさについてもう少し知りたいと思ったら、聴覚情報処理とか聴覚過敏について調べてみるのも良いかもしれません。また、調べてみたうえでそのことについて一緒に考えてくれそうな人があなたの周囲にいそうなら、話してみるのもよいだろうと思います。どちらにせよ、あなたは全然悪くないし、これまで一人でよく頑張ってきたね…と思いますし、理解者が見つかることを願いました。すぐに理解者が見つからない時にはいつでもまた死にトリを訪ねてください。待っています。

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