経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生きる糧

自慢じゃないけれど、私はなんでもそつなくこなせる子だった。
今でも周りからはそう思われている。
成績優秀、文武両道、優等生。学校で聞こえてくる私の評価は殆どそれらしかない。
ずっと優等生のフリをしてきた。
いつもニコニコして猫なで声で擦り寄る。
だから仲が良い子以外はみんな私を優等生として見ている。
そのレッテル、ラベルは自分の猫かぶりによって作られたもの。
それは分かっているがどうしようもなく辛い。
自分が思う「自分」と他人が思う「自分」の乖離。

家や塾では明るくアホな子を演じる。
その場で一番求められている「私」になる。
それが中学校に入ってからの当たり前。

「優等生」というブランドに縋って演じて疲れて泣く日々。
自分の完璧主義や不出来さ、社会不適合感に嘆き苦しみ、リストカットやODなどのアディクションを繰り返してきた。
そんな私でも息をしている。世の中が息苦しくても居場所が無くても息をしているのが悔しくてネットに逃げた。

小説を書いた。拙い文章を読んでくれる人がいた。
ここでは自分の存在が承認される。
そう思うとネットの世界にのめり込んでいった。
いいねやお気に入りをつけられる度愉悦に浸り、ネッ友が増える度自分の居場所_「世界」が増えていく気がした。

でもそれが虚しくともあった。現実には何も残らない虚無感。
そうやって生きれば生きる度に自身の首を締める。

生きて転んで擦りむいて気がついたら独りでは起き上がれなくなって。
ネットという虚像の中では誰かが手を差し伸べてくれた。
でも現実では誰も私が影で転んでいるのに気付かず日々を歩む。

ただただ自虐的に生きてどんどん自己嫌悪の沼にハマる。
そんな中、空虚なネットで感動する意見に出会った。

「自分のことが嫌いで泣いたなら、それよりもっと嬉しいことで泣け」

その人は他にも魅力的な意見を述べていた。
自分の顔が嫌いなら可愛くなる努力をする。
自分のことを嫌いならば徹底的に貶した後好きな所を探す。

ただそれだけの言葉が私の心を軽くした。

今でも「ちゃんとする」ことへの脅迫観念や失敗体験への過度なトラウマの植え付けは変わらない。
昔のことを思い出して消えたくなることもあるし、リスカもやめられない。
でも私はそんな私を愛していく努力をしたい。
今ではそう思えるほどに成長した。

ところで私は今年高校入試を控えている。
一番の学校に行かなくてもいい。
完璧じゃなくてもいい。
だから私は私がやりたいと思うことを、流されずにやっていきたい。
きっとそれが私の生きる糧になる。

感想1

「優等生」という役割を生きることの苦しさと、その役割を自ら引き受けざるを得なかった事情が文章全体に滲んでいるように感じました。周囲からの評価と自分での実感との乖離は、ただの違和感ではなくて、長い間ずっと緊張状態として蓄積されてきたのではないかなと想像しています。求められる人物像に応じて振る舞いを切り替えることは、柔軟さがあるとも言えますが、その柔軟さが自分の輪郭を曖昧にしてしまう危うさもあって、そうした中で生きていくことは思っている以上に、しんどいだろうな…と。
「優等生ブランド」にしがみつくしかなかったことの背景には、日本の学校文化や同調圧力の強い環境が影響しているように感じました。失敗やできないことが受け入れられにくい空気の中では、多少の無理や演技が当たり前になってしまって、そこで身につけた「期待される自分」を演じる力は、時に生き延びる術になることもあると思いますが、同時に本当の自分を見失ってしまう原因にもなると私は感じます。そして、その乖離を埋められないまま自己否定や自傷行為に至ってしまうのは、あなたが弱いからとかではなくて、少なくとも過剰な評価で人を判断しがちなこの社会に問題があると思いました。
ネットの世界は、安堵や承認を与えてくれる場である一方で、虚無感を伴うこともある場所で、その二面性がとても率直に表現されているなと感じました。ネット上に居場所を感じれば感じるほどに現実世界には手を差し伸べてくれる人はいないということを突きつけられてしまうのかもしれませんね…。ただ、そうであっても認められたり、ちょっとでも安心できたりする場がリアルではなくてもあるということは、きっとあなたにとって心の支えになっているのだと思います。出会った「自分のことが嫌いで泣いたなら、それよりもっと嬉しいことで泣け」などの言葉の数々が、あなたの中の何かを少し軽くしたことは、とても大きな出来事のように私は思えます。誰かの価値観や言葉が、長く硬直していた思考や感情をほぐす瞬間はありますし、それは劇的な変化ではないかもしれませんが、少なくとも「私を愛していく努力をしたい」という方向へ舵を切るきっかけになったことは確かなことなのだと思います。
今も「ちゃんとする」ことへの脅迫や過去のトラウマは消えていないと書かれていましたが、それを抱えたままでも「完璧じゃなくてもいい」と思えるようになったこともそうですが、「私は私がやりたいと思うことを、流されずにやっていきたい」という選択は、ただの自己主張ではなく、生き延びるための術でもあると私は思って、あなたの言葉には、その覚悟と、まだ揺らぎながらも自分の軸を見つけようとしているところに、あなた自身の地力の強さを勝手ながら感じていました。もしかしたら、これからも自分の選択に迷ったり、苦悩したりすることもあるかもしれませんが、そんな時は良ければまた死にトリに気持ちを届けてもらい、こうして言葉を交わせられたらなと思います。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

経験談への投稿ありがとうございます。きっとあなたが書く小説とは違う、もう少しあなた自身に近い文章なのじゃないかなと思いました。自分に近い大切なところを人に見せること、誰にとっても難しいことだとも思うけれど、あなたにとっては特にハードルの高いことなのではないかなと想像しています。けれども、小説を書くことで自分を表現するハードルを乗り越えてきている印象も受けました。ここにあなたの本当のところを書いてくれた感謝を伝えたいなと思いました。

認識ができると、より苦しくなるのがレッテルやラベルだと思っています。いつ頃、あなたが他者からのラベルに気づいていたのかなと思ったりしましたが、幼い頃から人の気持ちを敏感に感じ取ることができる、さらにその気持ちや、期待に応えることのできる繊細さと能力があなたにあったのだと思います。(そつなくこなせる子と書いてくれた一部かなとも思います。)

役割期待やラベリングという社会学や心理学の用語があります。専門用語があるくらいなので、期待された自分を演じてしまうのが人の性質としてあると思うのですが、役割期待と現実の行動の間にずれが生じるとストレスや葛藤が起こることも多いのはとても納得できます。『自分が思う「自分」と他人が思う「自分」の乖離。』自分の思う自分があるからこそ、その乖離に気づいてしまってからの苦しさは気づかない頃に比べたら相当のものだったろうと思います。

「自分自身でいられる」環境というのがあまりにも世の中に少なすぎるなあと思いますから、「自分自身でいる」ことを知っている人もとても稀少なのではないかとすら思います。学生とか、大人とか、子供とか、男女とか、職業とか、そういうラベルでしか人を判断できなくなっている時代とも言ってもいいかもしれません。年齢も性別も所属も関係なく、人を人として、あなたをあなたとして見てくれる人や場所は少ないかもしれないなと感じています。

匿名はある意味それを実現しやすくしてくれるものでもあるかもしれないなと書きながら考えています。姿形がないのだから、ラベルも貼れない、貼られない場所なのかもしれません。空虚を感じる時もあるけれど、あなたの中の感動や発見は本物だと私は思います。ネットだけでなく現実でも、少ないけれど人を人として、あなたをあなたとして見てくれる人はゼロではないと私は思っています。

どれだけ、あなたをあなたとして見てくれる人というのを、渇望しているかが伝わってくるようです。ラベルにとらわれずに自分自身が生きられるようになること、どうやったらそうなれるのか‥私も模索中です。逆に自分が親やパートナーに知らず知らずのうちに何かを期待したり、ラベリングをしてしまう自分自身をも反省しながら、今のその人を、その人として見られるように生きていたい。

良し悪しを超えて、今の自分を自分として愛する、今のその人をその人として愛する、それも一つの答えなのかもしれませんね。完璧でないあなたのまま、やりたいと思うことをなんでもやってほしいと陰ながら応援しています。

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