経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

発達障害と自分

私には発達障害の傾向があります。軽度のため手帳はありません。

昔から『普通ではない子』として、親に沢山迷惑をかけてきました。
でも母は私が発達障害のけがあるのを知りながら療育などはせず、あくまで普通の子として育ててきました。

学校ではトラブルを起こし、喘息の薬は飲まない、普通の子ができることがやれない。そんな私が母を疲弊させていったのでしょう。病院の帰りに母に「貴方なんか死んで。私も死ぬ」と言われました。
保育士である母にそう思わせてしまった、大人になってから母のつらさが身に染みています。
母には常に「人を傷つけたらふたついい事をしなさい」「優しくなりなさい」と言い聞かせられてきましたが、それも出来ず。三者面談では、良いことよりも悪いことを多く言われて「〇〇ちゃんなら良かったのに」と言われてしまうのがほとんどでした。
部活も上下関係が厳しく常に先輩に目をつけられ、疲弊していた時、周りもストレスからリスカしてる子が多く私もリスカをし始めました。
自分は死んでいい存在、いる価値がないと思い始めたのもこの頃です。土日は自室で泣きながら過ごしていました。

学校では自己中心的にな特徴のため、いじめられたりしながらも、現在も付き合ってくれる友人と出会いました。

なんとか小中高と過ごし、大学で福祉系へ進み自分の特徴に当てはまる発達障害の勉強をしました。福祉大ということもあり、周りの人間関係の環境は良く、小学生のころよりも特徴をコントロール出来てきた!と勘違いしてしまいました。

社会人になってとあるオタ活のグループに入った時、コントロールできているという考えや友達だからと甘えてしまってた部分から、友人を傷つけてしまい全員離れていきました。きっとどこかで、発達障害からなる嫌な特徴が出てたのだと思います。それに気づけない自分も本当に嫌。
その時グループの前で2人の友人が強めな口調で話してきましたが、パニックと申し訳なさと過去のフラッシュバックで何も分からなくなってしまい、『大切な友人を傷つけてしまった自分』『治ることの無い発達障害』からしばらく無かったリスカが再発。
今は少し信じることが出来ていますが、小学生来の友人も信じることが出来なくなってしまうなど、このダメージが今非常に大きいです。
現在精神科にて発達障害の薬とカウンセリングを受けています。
ですが、今まで自分がしてしまった発達障害ゆえ、傷つけてしまった人たち、そしてこれから色んな人と出会って傷つけてしまうかもしれないという恐怖で、生きているのが本当に嫌です。
でも死ぬ事も出来なくて、ただ自分が相手を傷つけてしまった罪悪感に日々怯えて、些細なことでも過剰に考えてしまい、リスカ…
『優しい』と言われるのも怖くなってしまって、優しかったら友人に縁を切られることなんてなってないって。
どうしたら普通に生きられるのでしょうか。こんな私は生きる価値がないと、思いたくないのに、思えてしまう根拠、理由が沢山揃っている。それなのに生きてしまってる。自分なんて信じられない、ひどいやつで
死ぬのは怖いけど早く死にたい。
それかこの感情から抜け出したいです。

感想1

最後の「この感情から抜け出したいです」という表現がとても興味深く感じました。人が悩み、苦しむときは実は自分の感情に支配されていて、そこから抜けたいと思っているのかもしれないと妙に納得する私がいました。そう考えると、誰かに相談する行為で気持ちを整理することで、自分の中で渦巻いていた感情から抜け出すことができることもあります。あなたも、自分の気持ちを含めて自分について理解が深まることで、今の苦しみから少し抜け出すことができるのかもしれないと私は感じました。そして、その一歩として自分のことをこうして書いてみたのかなと思いました。
あなたが書いてくれたものを読むと、あなたは自分のことをずいぶんと理解をしているように感じました。福祉の大学で発達障がいについて学んだことも大きいのかもしれませんが、これまでの人間関係の中で実践的に積んだ経験もあなたの自己理解において重要だったように思いました。ただ、そうした経験はあなたにとって経験値を上げるというより、失敗の蓄積になり苦しさの要因になっているのかもしれません。発達特性があることで、他の人が苦労せず理解できることが理解できなかったり、結果として周囲に迷惑をかけることもあるとは思います。ただ、それはあなたがわからないゆえの結果であり、おそらくあなたなりに頑張ってきたと思うのですが、うまくいかないことが多かったのだろうと思います。うまくいかない、迷惑をかけてしまった…という思いが重なり、周囲に申し訳ない、自分はダメだというイメージが強くなってきた様子が経験談から伝わってきたように思います。そう思うと、私はあなたにとって必要なのは単にダメだったという経験ではなく「どうやったらうまくいくのか」を分かりやすく、あなたでもできる方法として教えてもらうことなのではないかと思いました。ひょっとしたら、そういう機会が少なかったのかもしれないと私は感じました。
うまくいかないことを一人で努力して何とかするのは簡単ではないと思います。今は病院でのサポートを受けているようなので、さらに自己理解を深めている最中かもしれませんが、これからは理解者を頼り、少しでもうまくいく方法を身につけていく機会を得ることがポイントになるのかなと思いました。あなた自身は周囲を傷つけてしまったという罪悪感があり、誰かのサポートを受けることに後ろめたさがあるかもしれません。でも、誰にでも自分に合った学び方でいろいろなスキルを獲得する権利があると私は考えています。学ぶ方法はみんな同じでできるわけでありません。人とうまく関われるようになりたい、でもうまくいかない、何とか自分で乗り切ろうとしてもまた失敗してしまう…そんな苦労を繰り返してきたあなたは、誰よりも傷ついてきたのではないかと思えました。
これからも、死にトリが役に立ちそうなら、いつでも来て自分について考える機会として活用してください。待っています。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。常に「なぜうまくいかないのか」が分からないまま、人との摩擦や距離に戸惑い、自分を責め続けてきた時間の長さと、その苦しさが伝わってきました。「人と同じようにしたいのに、何かが違ってしまう」という感覚、そしてそのズレを言語化できないまま抱え込む辛さがあなたの中にずっとあるのかもしれないなと想像しています。
「普通じゃない」と言われ続け、「でも普通になれ」と育てられてきたこと、この矛盾に満ちたメッセージの中で過ごすことは、自分への認識に対して歪みを強くするものだと感じます。お母さんからの言葉があなたの中に深く刻まれていること、そしてそれが現在の自責の根にあることはきっと色々な場面で支障をきたしてきたのだろうと思います。発達特性を持つ人が「迷惑をかけた」とされるとき、それはその人の問題ではなく、環境や周囲の無理解が引き起こしていることもあるという視点をもう少し社会全体で持てたら…とは思うのですが、現状は個人に責任を問われ、排除されということが多くあって、今の社会に根強く残る大きな課題のひとつだなとあなたの文章を読んで改めて考えさせられています。
「人に迷惑をかけた自分」ばかりが記憶に刻まれてしまうと、自分という全体像を肯定的に捉えることが難しくなるものだと思います。過去の自分の言動がなぜ誤解を生んだのか、あるいはなぜ相手を傷つけたのかが後から分かる、または分からないまま人が離れていく、そうした経験の蓄積が、今の「自分を信じられない」という感覚に繋がっているのかなと私は思いました。
文章の中には、「小学生のころよりも特徴をコントロール出来てきた!と勘違いしてしまいました」という言葉がありましたが、それはきっと、あなたが自分の特性を理解しようと努力し、環境に適応しようとしてきた証でもあると思いました。でも、人との関わりの中では、自分では気づけない振る舞いが相手に伝わってしまうこともあるし、善意が伝わらずに誤解されることもあって、それは発達特性の有無にかかわらず誰にでも起こることでもありますが、その「なぜ?」が説明しにくく、しかもその答えが見つからないまま、自責の念だけが深く残ってしまう…何だか本当にそこの難しさを痛感しています。
感情の起伏が自分でもうまく扱えず、過去のフラッシュバックや混乱が起こるような場面で、言葉や行動がうまく選べないこともそれはあなたの人間性とは無関係な反応だと私は感じますが、それでも、「自分はまた傷つけてしまった」と思い、そのたびに自分を罰するようにリストカットを繰り返してしまうのは、本当は自分を傷つけたくないのに、責任をどこにも逃せない苦しさの現れなのではないかなと私は捉えました。
あなたのように、「自分がどこで間違ったのか」「なぜ人が離れていったのか」をこれほどまでに考え続ける人が、もっと安心して「ズレ」を共有できる社会であれば、自己否定に押し潰される必要はなかったはずなのに…とも感じていて、それが今も社会の中で十分に整っていない現状に何とも悔しいというのか、どうすればそんな社会は変わっていくのか…とぐるぐるしてしまっている自分がいます。
自分を信じることができない日々の中で、「それでも誰かに迷惑をかけないように」「傷つけないように」と考え続けている今のあなたを、ひどいやつとは私は思えませんでした。自己否定が日々続いていることは本当にしんどいと思いますが、その中にいながらも人との関係を見直し、自分を責めながらも向き合おうとする様子に、私は深い力強さを感じました。あなたの生きづらさに名前がついたことは、あなたの問題や責任を明らかにするためではなく、その苦しみが「あなた一人の問題ではない」と証明するためのものでもあると私は思っています。この先、あなたが“普通”ではなく“自分らしい安全な生き方”があるのかもしれないなと少しでも思えるような場所や人に出会えたらな…と願っていますということを伝えて感想とさせていただきます。また、あなたにとって死にトリが必要に感じた時はいつでも声を届けてください。

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