経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

僕の30年の短縮版

この二つは社会の絶対。
①価値がないなら存在無用。
②ニーズがないならお金は払わないよ。身銭を稼ぎたければ社会に合わせなさい。
ならば僕は生きて行くためのお金はピエロになって稼ぎましょう。ピエロは大変です。ピエロの体は勝手にいうことを聞かなくなったりします。突然ベッドから動かなくなったり、頭が冴えすぎて自分が天才かのように感じてしまいます。ピエロは自分が天才に思える脳みその隙を狙っては、みんなのために技術をたくさんたくさん身につけます。検定にも合格しようとします。もちろんピエロにも向き不向きがあるので合格すれば普通の反応をされ、落ちたら利用価値がないことに対して落胆の声が聞こえて来ます。ピエロは悟りました。働かざる者食うべからずだし、価値のないものは存在しちゃいけないと。ふと周りを見れば、綺麗に着飾った私と同じくらいの歳の人々が大切な人と街を歩いて笑い合っています。そんな街に見とれていると、ピエロと共に大事に暮らしていたお姫様はなんと幼馴染に盗られてしまいました。悲しみに暮れながらなんとか立ち直り、職場と自宅を行き来して過ごしました。ピエロは気づいたら30歳になっていました。街の人々の噂を聞けば、ピエロと同じ学校を出た人たちにはどうやら子供も生まれ、家を持ち、車を買い、いわゆる普通の幸せの生活を送るようになっているようでした。ピエロの給料は30歳になっても、正社員なのにアルバイトと変わらず、責任だけが増えていき、ついには過呼吸で倒れてしまいました。これは3度目の過呼吸です。精神科に行くと、双極性障害だと診断され、医者から「お前はみんなと同じ幸せな普通の人生を歩めない」「安全に過ごすためには無欲に生活せよ」と言われました。また、普通のフリをするためには、効くかどうかもわからない10粒のお薬を毎日飲まないといけないと言われました。しばらくお薬を飲んで生活をしたり、数千年前のローマにいた奴隷のお爺さん哲学者の言葉に助けられてギリギリ生きていましたが、ピエロはとうとう疲れてしまいました。ピエロはどうすれば楽になれるでしょうか。

感想1

①と②について、この二つの事柄は密接につながり合っているように感じます。私は投稿者さんとまるっきり同じ考えというわけではないですが、社会が求める人物像や行動様式は、とても限定的であり画一化され過ぎている側面があると思っていて、そこは共通しているように感じます(そういう考えもあり、感想を書かせていただくことにしました)。私の場合、それら社会の求めに自分が応えられていないと感じているせいでしょうか、社会生活の中で息苦しさを覚えたり、先行きが不安になることがあります。私は社会の求めに応じることを一旦(と言いつつ、多分これからもずっと)保留することで、どうにか気持ちをやりくりしているのですが、あなたの場合はご自分のことを「ピエロ」だと思えるくらい、ご自分のいろいろな面を削って、その度に社会の求めに応じようとされてきたのかなと想像します。
気になったのは、あなたは社会人になる際に意識してピエロ(本来の自分ではない存在)になったのか、それとも社会で過ごしていく中でいつの間にかピエロになっていたと感じているのか、どちらなのだろうということです。
前者であれば、そもそも社会の一部になること自体、抵抗があったのではないかと思います。そういう抵抗があっても、排除されないためには社会に合わせざるを得なかったあなたがいたのだろうかと、想像を巡らせました。
そして後者であれば、社会で過ごしていく中で、どんどん疲弊していったあなたが想起されます。ピエロと称するくらいですから、時には自分のしてきたこと、していることが馬鹿馬鹿しく思えてしまうこともあったのでしょうか。
いずれにしても、社会で生き抜いていくために削られていった「あなたらしさ」があったのではないかと思います。「ピエロ」という自己認識には、もしかすると自嘲のニュアンスも含まれているのかもしれませんが、私はあなたを笑いませんし、もし笑われていたら腹立たしく思うのだと思います。
文中には、あなたが直面しているつらさの他に、「あなたらしさ」も垣間見えたような気がしています(ちょっとした言葉遣いや、哲学者さんの話題などから)。社会がどう思うかを一旦置いて、あなたが好きなことをする時間や、ご自身を労わる時間が持てるといいなと勝手に、そして切実に思います。投稿ありがとうございました。

感想2

投稿読みました。どこかユーモアのある語り口で綴られていて(ややシニカルさも感じつつ)、でもその中には強い哀しみと諦めが含んでいるように感じました。ピエロという比喩が印象的で、真面目に生きようとした結果としての痛みと疲弊があるように私は思います。「生きる」という行為の中で、自分の居場所や価値を必死に探し続けてきたのではないかなと想像していました。
「①価値がないなら存在無用」「②ニーズがないならお金は払わないよ」という冒頭の二つの言葉は、私たちが日常の中で当たり前のように見過ごしている残酷さを、まっすぐに言語化しているように感じました。誰もがそう感じる場面はあるかもしれませんが、特に病気や障がいを抱えた人にとって、それは制度上の問題である以上に、日々の人間関係や職場の空気の中でじわじわと押し寄せてくるものだなと、社会に合わせようとする努力は、あなたのように敏感で真面目な人ほど、自分を削りながら“正しい形”に合わせようとし、結果的に深く傷ついてしまう現実が確かにあるのだろうと思いますし、あなたはそうした見えない圧力に正面からぶつかってきたのだと、文面から伝わってきました。普通であろう、役立つ人間であろう、そう願って努力してきたことが、常に「まだ足りない」「結局はピエロ」と、価値の不確かさに呑まれていってしまう感覚と日々闘っているのではないでしょうか。(違っていたらすみません)
また、精神科の医師の言葉は突き放されたような感覚に陥ってしまい、もしかしたら「社会に適合すること」以外に希望が見出せないという医療側の限界なのか…と何とも言葉にし難い気持ちになっています。そこに含まれている“諦めの強制”のようなものが、どれほど絶望的な気持ちにさせるか…。「普通」の生き方を前提とした社会制度や価値観は、そうではない生き方に対して「消極的に生きてください」というメッセージを送るしかできないという現状に、どうしようもない苛立ちと悲しさを抱いてしまいます…。それでもあなたは、そんな現実を真っ直ぐに見つめながら、時に哲学者の言葉に救いを求めながら、ギリギリのラインで生き抜いてきたのですよね。そして今、「どうすれば楽になれるでしょうか」と問う言葉には、決して単純な“死にたい”ではなく、“もう少しだけ、人間らしい形で生きる方法はないのか”という願いが込められているように私には映りました。この社会が、「稼げなければ価値がない」とか「苦しいなら黙って無欲でいろ」などとしか言えないような構造のままであれば、これからもずっと苦しみ続ける人がいる現状は変わらないままです。でも、あなたのようにその痛みを言葉にして何かしらの形で残す人の存在が、社会の硬直した価値観が少しずつ風通しの良くなる力になると信じたい自分がいます。
今あなたが「楽になりたい」と願っていることを、どうか“逃げ”や“敗け”などと思わないでほしいなと思っています。それはあなたが、自分を人として扱いたい、自分で自分を諦めたくないと思ってきたからこその願いだと私は思うからです。(綺麗ごとに聞こえてしまうかもしれませんが…)どうかこの先少しでも、ピエロの仮面を一度そっと外せる場所が、見つかるといいな…と勝手ながら願っています。その場所の一つに死にトリがあれたらなとも思います。また必要に感じられたらいつでも訪れてほしいです。

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