私の家は貧乏でもなければ、暴力があるわけでもなく。恵まれて育った方なのだろうと思う。
最初に恥を自覚したのは幼少期。
常に人目を気に、周囲に合わせるのが生きる術だった。
学校に楽しい思い出はない。
何かを成し遂げた記憶も、ない。
人目に怯えバカにされるような日々。溶け込みたくて頑張っても空回りするばかり。自分の望みももうわからない。
大人になっても頼ることも甘えるのも苦手で、そんな一面を出そうとすれば上手くいかずにギクシャクするばかり。
自分のみっともなさを露呈し、恥ずかしくなって逃げ出してしまうから、人とは長続きがしない。
バカにされることに怯え、常に孤独と隣り合わせ。明日死んでも何も後悔はない、そんな風に思いながらずっと生きている。ただわかって欲しいと思う一方で、絶対わかってもらえるはずもないと思いながら生きている。
水面でギリギリで呼吸しながら生きている感覚と、窮屈で仕方ない感覚。
何をしてても空虚感から抜け出せず、自分なんてどうでもいいと思いながらも何かを諦められない日々。
こんなサイトがあると知って投稿してみたくなりました。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
生きる虚しさ
感想2
表面的には恵まれていたとされる家庭環境の中で感じる孤独や違和感は目に見えるものではないため、その痛みが誰にも理解されず、自分の感情や辛さまでも「そんなことで」といったように切り捨てられてきた(とまではいかなくても、そう感じてしまうような)経験があったのではないかなと想像していました。
幼少期の「恥」の感覚も、それだけで息苦しいものだったのではないかと感じます。恥という感情は、他者の視線の中というか他者を介して生じやすいものだと思います。人前で何かをするだけで“どう見られているか”、“バカにされていないか”と怯える日常で、それでもあなたは何とか馴染もうと自分なりに工夫されてきたこと、でもそれがうまくいかず、その繰り返しが、自己肯定感を奪い、自分の望みや輪郭すらも曖昧になってしまったことが切実に伝わってきました。頑張ろうとすればするほどなぜか空回りしてしまって、余計傷を重ねることになるのですよね…。
「甘えるのも苦手」という部分も、決してあなた自身に何かあるとかではなく“助けて”と言えなかった時間が積み重なったゆえの生きづらさのように私は感じました。頼ったときにうまくいかなかった経験が、自分自身をさらけ出すことへの怖さに繋がっているのではないかと、私自身も今は本当に困った時やしんどい時は周囲にSOSを出せるようになりましたが、それも受け止められるという経験を重ねたから少しずつできるようになったことで(それもそうなるまでに時間を要しましたが…)、けれどやはり昔から沁みついた感覚は拭えないので、あなたの抱く苦しさに勝手ながら共感を覚えています。そう考えると、人に頼るとか甘える力が身についていくのは運要素的なところもあるよな…と、生きるの難しすぎないか…と改めて思ってしまいました。
「水面でギリギリ呼吸しているような感覚」と表現されているところからも、日々を生きていくこと自体に何だか張りつめた緊張感のようなものを感じました。生きることそのものが、息継ぎの連続というのか…それが少しでも乱れると保っているものが一気に崩れてしまうような感覚もありそうだなと。それでも「何かを諦められない」と思えることは、ある種人間らしい揺らぎの中で葛藤しながらも何とか“生きようとしている”のだと私は思いました。「逃げ出してしまう」ともありましたが、それが悪いことだとは思わないですし、そうしてしまう自分も含めてこうして自分のことを言葉にできるということはそれだけ逃げずに自分と向き合っている証でもあるのではないでしょうか。一方的に私が感じたままに感想を書いてしまったので、あなたの感覚とズレてしまっていたら、申し訳ないです。良ければまたあなたのお話を聞かせてもらえたらなと思っているので、いつでも死にトリを訪れてほしいです。投稿ありがとうございました。
感想1
人からのまなざしをすごく強く感じ、意識しながら生きてきたのですね。「最初に恥を自覚したのは幼少期。」とありましたが、なにかきっかけになる出来事があったのだろうか、それとも幼い頃から持っている性質の側面もあるのだろうか……などと考えながら読みました。
私は発達障害の要素からか(もちろん発達障害の診断がある人の中にも、真逆というくらい、いろいろな場合があると思いますが)むしろ人の視線に気づかないことが多く、後で言葉で指摘されたり怒られたりしてはじめて気づき、大ショックを受けることが何度もありました。
あなたの場合は、むしろ周囲の目が気になりすぎるからこそ、かえってぎこちなくなってしまうこともあるのかなと思います。周囲の人がそこまで気にしていないとしても、自分の中で自分がその場にいるのが許せないような感覚になってしまうこともあるのかもしれません。(想像でいろいろ書いて外れていたらすみません!)
社交不安や対人不安などが強い知り合いに話を聞くと、人それぞれのしんどい関わりや、逆に「コンビニの店員さんはまだ大丈夫」とか「初対面の方がまし」とか「オンライン上の方が気楽」みたいに比較すると楽な関わりがある場合もあるようでした。文章からは、あなたは比較的身近な人間関係で、人と関わりたい気持ちがある一方で、むずかしさも感じているのかな?と想像しました。
まなざしという自分の外部のものを自分ごとのようにずっと意識していたら「自分の望みももうわからない」と感じるのも無理はないし、むしろわからなくなっている自分に気づいていることが大事なのかな、とも思いました。
「ただわかって欲しいと思う一方で、絶対わかってもらえるはずもないと思いながら生きている」の一文に個人的には強く共感しました。人の眼差しをへの意識という面では、きっと異なる要素が多いと思うのですが、私もだれかにわかってほしい気持ち(それと同時に、でもそれがとてもむずかしいだろうとも感じる気持ち)があることを最近改めて意識するようになりました。
死にトリを見つけて、投稿してみたいと思ってくれてありがとうございます。あなたと言葉をかわすことができてうれしいです。窮屈な感覚のときには、身体も緊張していたり縮こまってしまっていたりすることが多い気がするのですが、あなたの心身がすこしでも休まって、息をつける場所があるといいなぁと思っています。