幼少期の頃のいじめを経験し、元々自分に対する自信がなく同年代と比べて落ち込んで
中学に進学したらどんどん人と関わるのが怖くなって外に出るのも緊張して「私はどうせ上手くいかない」という勝手な決めつけで辛いことから逃げ続けて今年で21歳 中学の頃に社交不安障害・対人恐怖症とうつ病を発症どんなに通院しても良くなっては悪化しての繰り返し
就労支援で働いてみても嫌な出来事が重なって辞めて今将来を考えて移行に行って資格を取って就職しようと思ったけど私なんかができるのか、
外に緊張して毎日出れない人間が働けるのか
公共交通機関も緊張するのにどう考えても無理だと。そもそも生きる気力がない。何もしたくない。自暴自棄になって泣きわめいてまだ21年の人生だけど、色んなことがあった拒食症に過食症
ストレスで髪を毟る 自分を殴って自傷行為
なぜ生きてるのか意味がわからない毎日家族は仕事に行って私は家でひとり何をやっているんだろう。罪悪感を軽減させるためにパソコンでタイピングの模擬検定をやったりWordやExcelを触ったりしてるけど前に進む度私は無能だと絶望する。
今まで私が努力してこなかったから当たり前の結果。これは私が悪い。
家族は優しく支えてくれてるけど他の家族と違って両親は若くない。もう体も辛いはずなのに娘は引きこもってるクズ親不孝者です。
苦しいし辛い周りのように当たり前ができない自分が情けない。
毎日焦りでどうにかなりそう。将来を考えても
多分私はいつか自分で命を絶つんだろうなと思ってしまう。そうなったらもう死ねばいいやっていう考えになってなにも出来ないこれの繰り返し。
生きているみんな偉い偉すぎる。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
どうせ死ぬからいいやを続けて
感想2
私もいじめを受けていたのですが、日々の中で長く影響を与えてくることがあるんだよなぁ…とつい自分と重ねて考えていました。
「私はどうせ上手くいかない」に対して"勝手な決めつけで"と書いてあるのを読み、この"決めつけ"をしたことを悔やんでたり、「私が決めつけていたなぁ」と思うことがあるのかなと気になりました。そして、つらいことから逃げてきたのは私も同じです。向き合う事が良い・怖いからこそ立ち向かってみる!のようなことが褒められている風潮が、社会にある気がしていて、でも何もかもそうではないと私は思うし、「向き合う」などのほかに「逃げる・避ける」も選択肢としてあって、それを選んだっていいんじゃないかと私は思います。いじめの経験もあり、あなたの場合はもしかしたら敏感にセンサーが反応しているのもあって、防衛本能として避けてこれた部分もあるんじゃないだろうかと想像していたところです。逃げるに通ずるところで、「努力をしてこなかった」と後半にも書かれていましたが、考えてみるとその時の自分にはそれができるような状態(心身・環境・状況など)では無かったこともあり得ると私は思ったのと、あなたは働いてみたり、パソコンを触ってみたり、もしかしたらほかにも自分では気付いていない何かを沢山やってきている可能性もあるかもしれないと感じました。物理的にじゃなくて、"自分のことを考えてみる"ことなども今こうして既にやっているあなたがいるなぁ、とも思いました。
就職しようと動いてる反面、不安も凄く大きいことが伝わってきています。私も、自分は何に対しても緊張が異様に強いなぁと思っているのと、公共交通機関利用でのあらゆる不安、そして自分を殴ることがあり、つい共感して頷いて読んでいました。きっとあなたも、今のこの状態の自分を自分が一番見ているからこそ、うまくいってる想像が難しかったり、考えるほどに不安も出てきて、そんな時だからこそ他者とも強く比較してしまって、嬉しいはずの家族の優しさから、情けなさも出てきたり、強い焦りの感情に占拠されてしまう時間に苦しんでいたりするのかな……と、また自分の経験と重ねつつ、あなたの気持ちを想像しています。
焦りやつらさでどうにかなりそうな日々の中でも、もしもまた書けそうな時があればいつでもここにきてなんでも書いてみてほしいです。投稿ありがとうございます。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。読んでいて、目に見えない傷と重さがこもっているように感じました。例え21年という時間が世間的には「まだ若い」と言われるとしても、その中に詰まっている経験や感情の濃さは、単なる年数では計れないものだと私は感じます。「どうせ上手くいかない」と自分に言い聞かせるようになったのは、怠けや甘えではなく、幼少期から続いてきた痛みと不安に、心がずっと防御の姿勢を取ってきたからなのだろうと思いました。私自身もいじめの経験があり、人と関わる時も何をするにもどこか自分に対して自信が持てず、自己否定も強くなってしまうので一度受けたことの影響力がいくら年月を重ねようとそう簡単に消えてくれるものではないというのを改めて考えさせられています。
支援に繋がったこと、挑戦しようとしたこと、それを一つずつ試してはまた傷つく繰り返しの中で、「できるかもしれない」と「やっぱり無理かもしれない」が何度も行き来しているように私には映りました。生きる気力がわかず、自分を傷つけながら、それでも日々を過ごしている状態はまるで過酷な持久戦のように感じ、よく耐え生き抜いているな…と勝手ながら敬意を表したい気持ちになっています。
“罪悪感を軽減させるため”にパソコンに向かっているというところに、社会が求める生産性(何か役に立つことをしなければならないといったような価値観)にどうにか自分を適応させようとする切実さを感じ、誰かの評価軸ではなく、自分の存在のままで安心できる場所がこの社会にもっとあれば…と思わされました。そして、周囲と自分を比べて「親不孝者」や「無能」と思い詰めてしまう構造も、個人の問題としてではなく、社会全体が“普通でいること”に過剰な意味づけをしてしまう空気の中で生まれているのだと私は思います。(そう思うと本当に生きづらい社会だなぁ…とつくづく感じてしまいます…)それでもこうして綴っていることに、苦しみを見つめる力があなたにあるように私は感じました。
必ずしもいつだって周りが思う前だけを見て進めばいいというわけではないと私は思っていて、途中で止まったり、時には後退したり、最終的には自分にとって苦しくない方向に進めたらいいのではないかと(自分にそう言い聞かせたいだけかもですが…)思ったりしています。もしまた、一人で考えていて行き詰ってしまったり苦しさや辛さを外に出したいなと思った時は、いつでも死にトリに声を届けてほしいです。