経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生きる気もないくせに。

昔はもっと楽だった。
今の自分を見てると、どんどん気持ち悪くなってくる。本当に吐きそう、っていう感覚じゃなくて、なんていうのか、嫌悪感が酷くなったみたいなもの。
昔はこんなんじゃなかった。
昔はもっと自分っていう存在が明確に感じられた。
昔はもっと楽しかった。
昔はもっと生きやすかった。
本当の母親がいないということなんて気にもならなかったのに、今は会えなくて寂しくて辛い。
何で生徒会になんて入ったんだろう。どうせ私が入ったって足を引っ張るだけなのに。
冗談として言われる「内申目当てなんじゃないの〜?」って言葉が、最近酷く腑に落ちた。
あぁ、結局はただ自分の優れているもの、言い訳が欲しかっただけなんだって。
自分は頑張ってるっていうのを盾にして、誰かに甘えようとしてただけなのかもしれないって。
どうせ誰かに甘える勇気なんてないくせに。
どうせやり切る覚悟もないくせに。
どうせすぐに押しつぶされちゃうくせに。

好きな人ができた。
でも今までと違い、その人は同性だった。
でも最初はそんなことどうだって良かった。一緒にいるだけで楽しかったし、気が楽になったから。この時はまだ恋が辛いなんて思いもしてなかった。
中学に上がってからが本番だった。
その子とクラスが一緒になった。好きな相手だったということもあってとても嬉しかったし、とても楽しかった。どんなに寂しくたって、その子が隣にいるだけで嬉しかった。普段学校ではそっけない子だから、2人だけで遊んでる時に見せてくれる笑顔が、聞かせてくれる笑い声が好きだった。
お泊りの時にふざけ合ってくれるのが、じゃれ合ってくれるのが嬉しかった。
なのに私はその子が、私といて本当に楽しいって思ってるのか?本当に私のことを友達と思ってくれているのか?って不安になった。
その子といない方が、私のためにもなるし、その子のためにもなるんじゃないかって。
なんて、その子のこと何も知らないくせに。
もし本当にあの子が私のことを友達と思ってくれていたとしても、思ってくれてなかったとしても、私は好きな子のことさえ信じることのできない愚か者だ。
2年生、3年生では違うクラスになった。
私は転校生だから、その子との付き合いは他の小学校が同じ子と比べて短い。
その子と、その子の幼馴染が一緒のクラスになった時、酷い嫉妬が体中に染み付いた。
考えるだけで辛くなった。
何で好きになった?何で普通の友達になれなかった?
その方が絶対楽だったじゃないか。
お前が一番楽しいって思ってないくせに。

誰のことも信じられなくなった。
もちろん自分も含めて。
仲のいい友達も、喋ったことのない同級生も、全員が敵に見えた。
みんなの顔がまともに見れなかった。
「別に嫌われたっていい。みんなから嫌われない人なんていないんだし!」
そうやって強がって友達に言った言葉は、私を保つ為の嘘に過ぎなかった。
本当は嫌だ、考えたくもない。
そりゃそうだ、好んで嫌われたいと思う人なんてそうそういない。
私はそのタイプの人間なんだから尚の事。
でも常に誰かから嫌われてると思って過ごさないと頭がおかしくなりそうだ。
誰のことも信じられない自分を見ててもおかしくなりそうになる。
毎日毎日ベッドの上で、「お前は一体誰なんだ、何なんだ」と自分自身に問う日々。
ちょっとしたことでもメンタルが砕け、涙が溢れてくる。
心の中で増幅した負の感情は、とまることを知らないみたいに私の身体を支配していく。
日に日に布団から、部屋から出るのが億劫になっていった。
出たところで何があるというのか。どうせ苦しむだけじゃないか。何でわざわざ苦しみにいかないといけないんだ。
部屋の外は私にとって地獄となんら変わりない、無法地帯。
味方なんていない。
甘える相手もいない。
誰の迷惑にもなりたくない。
別に気づかれなくたっていい。
別に助けてもらえなくたっていい。
別に味方なんていてくれなくていい。
別に私のことなんて分かってくれなくていい。
誰にも分かるわけがない。
誰も気づいてくれるはずがない。

そうやって、自分に嘘を重ねていった。
もう耐えられなくて、誰かに話してしまおうと思った時には手遅れだった。
その嘘が、重ね、積もり積もっていった嘘が、私の口を塞ぐんだ。喉で「助けて」って言葉を止めてしまうんだ。
その人の重荷にしたくないから。
誰かに甘えたい。誰かに甘やかしてほしい。誰かに気付いてほしい。
そんな本心がどんどん消えていく。
自分が自分じゃなくなっていく。

なんでもいいから私を死なせてほしい。
どうなってもいいから私を消してほしい。

消えたい。自分がいない世界になってほしい。
私が最初から存在しなかった世界。
そんな世界があったらどれほど素敵なのだろう。
生まれたくなかった。生きたくなかった。
こんなに幸せなところにいれるのに、幸せだって胸を張って言えなかった。
それでも私は今日も、この息苦しい世界で生きていかないといけない。
どうせ生き抜く気力もないくせに…。

感想1

「昔はもっと楽だった」という一文から始まる文章には、かつての自分への切実な思いと、現在の自分に対するどうしようもない違和感が一つ一つ言葉になって刻まれていてるように感じました。誰かに理解されたいけれど、理解されることを怖れているような、そんなイメージを抱いています。
「嫌悪感が酷くなった」という言葉は何かに怒っているというより、自分という存在に耐えきれなくなっているような思いが込められているように感じ、それがかえってじわじわ蝕むような絶望を感じました。思春期という時期における「昔」と「今」の断絶は誰にでもあることだとは思うのですが、この文章ではその断絶がただの成長の過程や心の揺れではなく、まるで深い地割れのように自我を分断してしまっているようで、読んでいて勝手ながら胸の詰まるような感覚になりました。
「何で生徒会になんて入ったんだろう」「どうせ私が入ったって足を引っ張るだけなのに」など、こういった言葉の端々には、自分自身への信頼のなさと、それでも何か意味を見つけようとしているような葛藤もあるのかなと思いました。冗談としての「内申目当てなんじゃないの〜?」という言葉が、冗談として流せなくなってしまったところにも、他者からの軽い言葉が内側でどんどん重く変質していく過程が見えて、そうやって自分の中で真実が歪んでいくことの苦しさもあるのかなと想像していました。
同性の好きな子への想いについては、ただ好きだという気持ちがそこにあるだけなのに、性別という社会的な枠組みによってそれが複雑になってしまう、そのもどかしさや戸惑いがとてもよく伝わってきました。相手と過ごした時間が本当に大切だったからこそ、「普通の友達になれたらよかったのに」という言葉が胸に残りました。それは好きという気持ちがどうしても“楽”とは言えなくなってしまった苦しさ、切実さが伝わってきたからだと思います。
友達との関係も、周囲との距離感も、自分という存在の立ち位置も、全部が歪んでいってしまうような、そんな感覚に押しつぶされそうになっている様子が、文章全体からひしひしと伝わってきます。「誰のことも信じられなくなった」その一文の重みは、裏を返せば、かつては信じていた人たちがいたという事実を突きつけられ、その喪失感がより一層、心を深く沈めているのではないかなと…。
自嘲気味に「味方なんていない」「甘える相手もいない」などと書いている一方で、「甘えたい」「気づいてほしい」と書かれているのが印象的で、心の奥に確かに存在する願いも「でも迷惑をかけたくない」「誰の重荷にもなりたくない」という思いに打ち消されてしまうのかなと感じています。周囲を気にかけすぎる(気にしすぎてしまう)あまり、裏目に出ることもあると、私も経験して思うことですが、それが内側で自分をどれほど壊していくのか…何だかバランス良く生きるって本当難しいですよね…。
「私が最初から存在しなかった世界」というのは、ただの消失願望ではなく、「なかったことにしたい」という願いが込められていて、苦しみだけでなく、自分の痕跡すらなかったことにしてしまいたいという、記憶や関係性すら消してしまいたいような、そんな深い痛みが滲んでいるように私は思いました。
ただ、「この息苦しい世界で生きていかないといけない」という言葉に、どうしようもない現実を前にして、ただ無抵抗に立ち尽くしていながらも、そこにあなたの中にある逆説的な力強さを感じたのも確かです。生き抜く気力もないと書かれていますが、それでもこうして経験談を投稿したことは無意識にせよ「自分がここにいる」というのを表しているように思います。
読んでいて、すべての言葉が地面の奥深くから掘り起こされたような重みを感じますが、同時にどれもが真っ直ぐで、偽りがないものだなと私は受け止めました。誰かに理解されたいけど、どうせ分かってもらえない…そう感じてしまう中で、言葉を綴ったということ自体、誰にでもできることではないとも私は思います。私はあなたの文章から、共感よりももっと手前の、「知れてよかった」という感覚を持ちました。それは「わかるよ」という軽い同意ではなく、あなたの深い部分に少しだけ触れさせてもらって、生きることについて改めてあれこれ考えることができたからです。あなたの抱えるしんどさはそう簡単にどうにかなるものではないとは思うのですが、また自分の心の内を抱えきれなくなってしまった時などはいつでも死にトリを活用してもらいたいです。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

全部読ませていただきました。
文章の出だしからは、「お前は一体誰なんだ、何なんだ」と自分自身に問う日々の中で、「自分はこうだ」と明確に思えた昔の自分と比べてしまう気持ちが伝わってきました。中学生や高校生の時期には、「自分とは何なのか」という葛藤を持ちやすいと言われているようです。私も誰かに「あなたは私にとってこういう存在なんだよ」と優しく言われたかった時期があったことを思い出し、他者に甘えたり、つらさに気付いてもらったりしながら、自分という人を自分だと理解する過程に投稿者さんもあるのかな、と想像したところです。
自分で自分がよくわからないな…と思うとき、人間関係の中で相手からの評価が自分自身なのかな、と認識しやすいような気もします。例えば、投稿者さんが生徒会に入った理由として、冗談として言われた「内申目当てなんじゃないの〜?」って言葉が腑に落ちたのも、そういった背景があるかもしれないな、と感じました。実際は、ただ興味があったからかもしれませんし、なにか頑張ってみたかったからかもしれませんし、内申もちょっとは意識していたかもしれません。でも、なんで生徒会に入ったのかはっきり自分でも自分が分からないときに、誰かに「内申目当て」と断定されると、自分は本当にそうなんじゃないかと考えてしまうことってあるように思います。
好きな人とのエピソードでは、自分の「好き」「楽しい」「嬉しい」という気持ちを、「それが自分」だと確認したくなるようなときが、もしかしたらあったのかなと考えました。そして、その確認のためには、その子の「一緒にいて本当に楽しい」「本当に友達だと思っている」という言葉が必要だったのかもしれません。「自分はあの子にとっての何なんだ?」と不安に思うとき、「あなたは私にとって友達だよ」と言ってもらえることで得られる安心感は、私も何度も経験した覚えがあります。
そんな中で、「自分も含めて、誰のことも信じられなくなった」という言葉には、あなたが「自分」を否定されたように感じる出来事が積み重なったのだろうかと想像しました。ですから、「別に嫌われたっていい。みんなから嫌われない人なんていないんだし!」と強がる背景には、「もう傷つきたくない」という気持ちがにじみ出ているように感じました。「常に誰かから嫌われてると思って過ごさないと頭がおかしくなりそう」というのも、「否定」から自分を守る、投稿者さんなりの方法だったのだろうと感じます。
最初に書いたように、自分を理解する過程には、他者に甘えたり、つらさに気付いてもらったり、気持ちや心を共有することもあるのではないかと私は思っています。子どもが「悲しいね」と言われてはじめて「これは悲しいのだ」と認識するように、「自分は何なんだ」と疑問を持つときは、投稿者さんが書いてくださった「甘やかしてほしい」「気付いてほしい」という言葉の通り、その問いに寄り添ってくれる人との関わりがほしくなるのかなと感じました。
ここまで、私は「アイデンティティ」というものを考えながら、感想を書いてみました。ただの感想なので、「こうしたらいいよ」というところまでは書けなかったのですが、もし私の文章が少しでも「そうかも」と思えたら、ちょっと調べてみてくれたらいいなと思います。なにか投稿者さんの助けになることを願っています。投稿ありがとうございました。

お返事

自分が経験談にすら書かなかったことも、感想を書いてくださった方々は分かってくれてるような感じがして、少し気持ちが楽になりました。

経験談を書いたあと、別の友達に「〇〇がいないと生きていけない。〇〇が死んだら私はきっと立ち直れない。」と言われました。
私の悩みも何も話してないのにです。
恋愛的に好きな子以外にここまで心を許せる子は初めてでした。
死にたいけど死ぬ理由がない。でも、ほんの小さな生きる理由は見つかった。
だからもう少しだけ、程々に頑張ってみます。

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