経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生きるとは

自分が生きている感じがしないんです。今まで生きてきて、衝動的に自分を傷つけたり、死んでしまおうと思う瞬間があっても、なんとか思いとどまって堪えてきました。
それでももう限界で、これ以上平気な顔をして生きていける気がしないんです。なにを聞かれてもうまく頭が回らず、会話さえ全ての力を振り絞って言葉を紡ぎ出しているくらいだし、もう3年近く自分が自分じゃないような気持ちの悪い感覚がずっと続いています。憂鬱で外出も思うようにできなければ、電車に乗れば体調が悪くなる。感情も鈍くなってきて、怒りや不安を感じる余裕さえないのに、夜になると眠れず涙が溢れ出てきます。なにが辛いの、と聞かれても上手く言語化ができず、心療内科の先生を困らせてしまいました。
こんなことを言っている場合じゃないんです。
高校生として一層気を引き締めて生きなくてはいけないんです。そんなことわかってるんです。でももう心をカバーする余裕さえ、身体には残っていないんです。環境を変えることはできないし、だからといって現状を改善できる見込みはありません。
親にさえ上手く伝えられなくて、「我儘ばかり言って、人生が全て自分の思い通りになると思うなよ」と言われてしまい、学校の先生には
「そんなの知らない」と突き放されてしまいました。小学生の頃までは本当に希望に溢れていて、いつだって前向きに生きることができたのに、今は毎日絶望でいっぱいです。
こんなにも辛い思いをするとは全く予想していませんでした。
心臓に穴が開いたみたいに、何も感じることができず、無気力に日々が過ぎていくのはもう耐えられないんです。誰かにわかって欲しいのに、立ち止まる時間もなければ、自分の本心を全て打ち明けられる相手もいない。
弱音ばかり吐いて周りに迷惑をかけています。
死んでしまった方がいいのでしょうか。
今ではもう、その方が楽なような気がしています。

感想1

投稿ありがとうございます。
読んでいて切迫感が伝わってきました。
あなたはこれをどこでどんな状況の中書きに来てくれたのだろう…と気になっています。

あなたが背負っている(ように私には見える)感覚は、あなたをひどく混乱させ、ひとりで抱えるには苦しすぎるもののように私には思えました。「生きている感じがしない」こと。「自分が自分じゃないような気持ち悪い感覚」。「上手く言語化」できないこと。「何も感じることができない」ことなど…これらのうちどれかひとつあるだけでも苦しいはずで、その中を生き延びて、ここに書きに来てくれたことに敬意を表したいです。

一方、それだけのものを背負わされているのに、あなたがこれまで経験してきた具体的な内容が文章の中に見られないことが印象的でした。「こんなにも辛い思い」をあなたがすることとなったのには何があったのだろう…と勝手ながら思いを巡らせています。でもそれらはきっと簡単に「言語化」できない“言葉を失う”ような経験だったのかな(だから苦しんでいてその気持ちを書きに来てくれたのだろう)と想像します。もしそうだとすると、ここに書かれていないのも、「上手く言語化」や「上手く伝えられない」のも当然だと私は思いました。うまく伝えられないこと自体にあなたの辛さがよく現れていると言えると思い、そう考えると、親や学校の先生があなたにかけた言葉や態度は的外れと言えてしまうように思います(あなたはどんな気持ちでそれらの言葉を受け止めたのかな…とも思いを馳せています)。私としてはそのままを受け止めたい気持ちです。

ひとつ聞いてみたいと思ったのは、「小学生の頃」のあなたはどんなことに「希望」を感じていたのかなということでした。私は絶望しながら生きている人なので、希望があっても絶望していてもいいのかなと思っているのですが、あなたの「希望」の話を聞くことで、少しずつでも、あなたの「生きるとは」について考えられたらいいなと感じたのです。今との違いや、小学生から今に至るまでにどんなことを感じてきたかを振り返るうちに、「立ち止まる時間」すら与えられない社会の課題(責任)も見えてくるような気もしています。「弱音」はどんどん吐いてほしいですし(でも受け止めてくれる人や場が必要ですよね…ここをそのひとつとしてもらいつつ、いくつか見つかったらいいなとも感じます)少しずつ「本心」(が何かわからなくてもいいと思うので)をなんらかの形で表現できたらなと感じました。改めて、投稿ありがとうございました。

感想2

投稿読みました。誰にもわかってもらえないという感覚は、心が張り裂けてしまうような、誰かの一言で救われたと感じることもあるのに、その誰かさえ見つからない日々が続くと、生きること自体が重くのしかかってくるように感じてしまうものだよなと考えていました。
文章を読んで、最初に浮かんだのは、“あなたはずっと何とか生き抜いてきた”ということです。人には見えないところで、様々な感情を飲み込み、何度も限界を越えて、それでもこうして抱いているものを発信しているということは、どれだけ苦しい状況にあっても、生きることを諦めなかった強さであると思いました。ただ、一方で、もう感情の代わりに惰性で生きているような感覚もあったりするのかなとも想像しています。それでも、「誰かにわかって欲しいのに」と言葉で表現したことは、私には大切な祈りのように思えました。
“もう自分が自分じゃないような感覚”があるみたいですが、長い時間をかけて傷ついていくと、心はそれ以上傷つかないように、自分を切り離すようにして守ろうとすることがあるのでそういう感覚になってしまうのもある種自然な反応だと思いました。感情が鈍くなるのも、夜になると眠れず涙が溢れてくるのも、きっと身体が限界を超えて、それでもまだ自分を守ろうとしているのだと私は感じます。それなのに「もっと頑張らなくては」「高校生なんだから」と自分を責めてしまうのは、それはあなたに問題があるのではなく、社会がまだ「心の不調」に対して寛容ではなく、特に若い人が「生きることがつらい」と言うと、「わがままだ」などと誤解されてしまう風潮に原因があるように思います。
今のあなたに必要なのは、「気を引き締めること」ではなく、「今一度自分の抱えている痛みに耳を傾けること」だと思います。ちゃんと、自分の痛みを「痛い」と認めていいのだと勝手ながら感じました。(痛みに気づくとそれはそれでしんどくなってしまうこともあるのですが…)
親や先生に気持ちが届かないことも、本当に苦しかっただろうな…と思います。言葉ひとつで深く傷ついてしまうこともあるのに、それでも社会は、まだ「年齢」や「立場」で苦しみの深さを勝手に判断してしまうことも少なくないです。「人生が全て思い通りになると思うな」と言われても、そもそもあなたは「思い通りにならないこと」が苦しくて、どれほど努力しても変わらない現実にどれほど絶望しているか、それを必死に言葉にしているだけなのにと私が思ったところでどうしようもないのですが、悔しい気持ちになってしまいました。
死んでしまった方が楽かどうかは私にも分からないというのが正直なところですが、あなたがそう感じてしまうほどの状態にあるのだということをまずは受け止めたいです。“生きるとは何か”、そう簡単に明確な答えを見つけるのは難しいかもしれませんが(もしかしたら答えなんてないかもしれませんね…)、良ければまたあなたのお話を聞かせてもらって一緒に考えてみたいなと思いました。死にトリがあなたにとって無理をせず、等身大でいられる場所の一つであれたらなと願っています。投稿ありがとうございました。

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