経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
最近、死にたさにも色んな種類があるなと気付いた。
2人以上に死んで欲しいと思うから自分が死にたい時、ただ過去がトラウマ過ぎて忘れられなくて死にたい時、誰にも(特に親とカウンセラーに)理解されないと思って死にたい時、働くのと未来が怖すぎて死にたい時、今の状況(友達が少ないとか居場所が無いとか、朝起きれず病院に通えないとか)がしんどくて死にたい時がある。
一番死にたいのは過去のトラウマがフラッシュバックする時と、2人以上に死んで欲しいと思う時。こういう時は、現代日本で起きている差別とか偏見とかを見て、自分の辛いことをもっと規模の大きい辛いことで上書きして、考えないように努力するしかないんだろうな…。トラウマの出来事はもう2年前くらいだけど、鬱は全然良くなっているとは思えないし、トラウマは深く刻みついて忘れたくても忘れられない。当初はトラウマの出来事を人にたくさん語って発散させたいと思っていたが、相手が悪いと逆にトラウマが増えるんだと学んだ。
居場所が無いというしんどさはそれに比べたら遥かにマシだけど、重度の鬱になるよりもかなり昔から抱えている深刻な問題だと思う。
「誰にも理解されなくて死にたい」と言う時、相談したり話を聞いてくれる友達の文句を言っているようで申し訳なくなる。友達にはすごく感謝してる。そんなに親切にしてくれる友達がいるのに、今の友達じゃ足りないと思ってしまう。
セクシュアリティに理解ある人と鬱に理解ある人と創作活動に理解ある人がいたとしても、全部に理解ある人なんてなかなかいない。全部を理解されるなんてほぼ不可能なのに、全部を理解して欲しいと思ってしまう。
私が欲張りなだけ?私に問題があるんだろうか?
トラウマ克服のため、鬱が治るために、理解者やコミュニティが必要だと思う。同じような問題を抱えてる人の体験談を聞きたいし交流したい。
今の友達や、今の所属しているコミュニティだけで満足出来なくて、色んなコミュニティを探したり参加してみる。
安全な場所では過激な過去、性的なトラウマ、死にたい気持ちが利用規約に引っかかって書けないことが多く、安全じゃない場所では新たなトラウマが増える。
真面目な場所では皆難しい用語や哲学の話とかしてついていけないし、不真面目な場所はしょうに合わなかったりもする。
議論の場を求めても、意味の無い浅い話をさせられる場、差別されたりキツい言葉が飛び交う場、どれも私には向いてない。
趣味(絵)のコミュニティでも、好みの絵のタイプや好きなアニメも違って実質共通点が無い上に、異性愛規範に染まってる人がやたら多い。
R18やエロ絵が好きな人が多いし、それが当たり前の空気感がある。私は女性キャラを性的消費の目線で描かれすぎることを問題だと思っているけど、そんなこと言ったらコミュニティで嫌われるだけだから、上辺だけ仲良くしている。
レズビアンのコミュニティでは恋バナや出会い系の人ばかりで、レズビアンやバイ女性差別、そういう体験談について語り合えそうな人はなかなかいない。
バイ女性を排除するコミュニティもあるし、iPhoneでしか使えないアプリもある。
オンライン自助会みたいなのも、予約いっぱいだったりすごいお金がかかったりするしで、現実的とは思えない。
精神科や産婦人科やカウンセラーでさえ、LGBTや異性愛規範のこと全然勉強してないし、悩みに寄り添ってくれないんだろうなと諦めるしかない。
BLやゲイ作品が好きな人や、同性婚に賛成している人ですら、レズビアンの存在を全然認知も理解もしてないし、興味も持たない。少なくとも私の周りの友達たちや親は大体そんな感じだと感じる。
友達にさえ(私は自分のことオタクと言ってないのに)「オタクならこうあるべき」と言われたり、体を触られたり過度にレディーファーストされて嫌と言っても伝わらないことは多いし。
私の恋愛観に対して「本当は男が好きなんでしょ」とか「男と付き合った方がいい」みたいに口出してくる人も多いし、そのせいでお別れした元友達もいる。
仲良くしてくれる友達ですらああなのに、本当にこの世に価値観の合う人なんていないのかもしれない。
私の理解者や私に合った居場所がほしい。
コミュニティじゃなくても、Twitterのアカウントでも、何か私が求めているような発信をしている人がいれば…と思うけど、なかなか見つからない。
私ってそんなにマイノリティなのかな?そんなはずないじゃんと思う。私みたいな人、もっとたくさんいてもおかしくないのに。
私が望むものってそんなに難しくて手に入らないものなのかな??
感想1
経験談への投稿、ありがとうございます。
お話してくれた内容の中には、なかなか人に話しづらいような内容も含まれていたように感じ、経験談であっても、お話することに勇気が必要だったんじゃないかと思います。
タイトルの「居場所がほしくて」に少なからず共感する気持ちがあったこともあり、僭越ながら、私が感じたことをお返事させていただきたいと思います。
つらいときに、「ほかのもっとつらい出来事で上書きする」方法はなるほど!と思いました。世界ではこんなに大きな悩みがあるんだ…と思うと、自然と自分の悩みを考えなくなる時間を作れるのかもしれないなと感じたからです。ただ、それと同時に感じたことは「世界でどんなことがあっても、今一番つらいのは自分だ!」と、その時には思うのではないか、ということです。実際には人によって感じ方やとらえ方が違ったりすると思いますが、自分の経験上ではそうだったように感じます。(自分の話ですみません。)
投稿者さんがおっしゃっているように「相談する相手が悪いと逆効果」という、あってほしくない状況が生まれてしまっていることで、誰かに相談することもしづらくなってしまっているように感じています。ほかの人にも理解してほしいけど、親、カウンセラーには特に理解してほしいと感じているように私には読み取れたので、この二人にも理解し寄り添ってもらえなかったという事実はなによりもつらかったのではないか、と思いました。
また、読んでいて「相談したり聞いてくれる友達の文句を言っているようで申し訳なくなる」「今の友達じゃ足りないと思ってしまう」という部分が印象的でした。
友達はちゃんと話を聞いてくれてるしそれに対して心から感謝しているけど、「話すことで楽になること」より「日に日に積み重なるつらいこと」が速いペースで膨れあがっているから、どれだけ相談してもつらい気持ちが消化しきれず足りないと感じてしまうのかな、とか、話を聞いてくれているのに、理解してもらえないと感じることが相手に対して申し訳ないと感じているのかな、とか、そんなことを考えました。(違っていたら申し訳ありません)
「セクシュアリティ」「鬱」「創作活動」どれか一つで見ると、理解し合える人を見つけることは難しくないんじゃないかなぁと思いましたが、投稿者さんのおっしゃる通り、すべてに理解のある人を見つけることは簡単ではないのかな、と思ってしまいます。
「どれか一つに理解のある人」で見れば、すべてに理解のある人より多いはずだと思います。こう、分散、っていうんでしょうか?それぞれで理解し合える人との関係を形成していくのは、すべてに理解のある人への近道になったりするのかなぁって私は感じました。
「すべてを理解し合える一つのコミュニティ」が大きな「居場所」とするなら、それはとても理想的で魅力的なものですが、「望んでいる一つのものが理解し合える空間」という小さな「居場所」が複数あることも、相対的に魅力的なんじゃないかなぁって思います。もしかすると、その小さな「居場所」にいる人の中で、偶然にもすべて理解し合える人が見つかる、なんてこともあるかもしれないなぁ。
大きな「居場所」が見つかることが理想ですが、小さな「居場所」含め、少しでも投稿者さんの望むものが得られるといいなぁと思っています。
改めて、経験談への投稿、ありがとうございました。
感想2
経験談の投稿、ありがとうございます。
投稿者さんは、タイトルにも書かれている"居場所"というものを強く求めておられるんだな、というのが率直な感想でした。
投稿者さんが生きていく中でさまざまな不安や死にたい気持ちを抱えていて、かつ、特にセクシュアリティについてなかなか分かち合える人がいないと感じている、そういう不安や心細さが、投稿者さんが居場所を求める所以なのかなと勝手ながら想像し、繰り返し投稿を読みました。
近年「多様性」という言葉をよく耳にするようになりましたが、そんな今なお「普通は」とか、「〇〇であるべき」というような言葉も、私の周りではしばしば聞かれます。各人の違いに寛容でない空気感は根強く残っているのかな、というのが私の正直な体感です。
現に投稿者さんも、「オタクならこうあるべき」という偏見(と言っていいのかもわからない横暴なことをされてしまったんだなと私は感じました…)を押し付けられることもあったようですし、恋愛観に口を出され、お別れすることを選んだ友人もいたようでした。
私の感じている空気感や、投稿者さんの経験(投稿者さんが、ただその人とは違っていたというだけで、責められたり、捻じ曲げられそうになった経験)を踏まえると、投稿者さんの目には、異なる価値観を持つ人のことが「投稿者さんを排斥する人」のように映ることも考えられるなと、私は思いました。もしそう映っているのだとしたら、誰かと分かり合いたい気持ちと、排斥されてしまう不安、そういう二つの思いが投稿者さんの中でせめぎ合っていたりするのかな、そのせめぎ合った感情の中にあるからこそ、投稿者さんは居場所や理解者を求めている(というか、求めずにはいられない状況に追い込まれているようにも私には見えます)のかな。。そんなふうに想像を膨らませています。
投稿者さんの経験をとおして、居場所というものが如何に多様なのか、ということを改めて感じましたし、投稿者さんの居場所を求める気持ちの大きさが伝わってきたような気がします。また、先述のとおり想像を膨らませたこともあって、居場所を求めて多種多様なコミュニティを渡ってきた投稿者さんが、今求めている居場所像ってどんなものだろう?ということが気になりました。
一口に居場所と言っても、その形式や目的ってさまざまなのかなと私は思っていて、例えば直接誰かと会える居場所もあれば、インターネット上でつながり合うタイプの居場所もあるのかなと思います。また、居場所に来る人のことも、立派な居場所の成分だと思います。投稿者さんとしては、セクシュアリティの観点では投稿者さんと同じ立場の人(同じ立場だからといって価値観まで同じとは限らないけれど)と、思いを分かち合いたいという気持ちがあったりするのかなと勝手ながら思ったりもしました。
どんな居場所が投稿者さんの安心を守ってくれるのか、どんなプラスを生んでくれるのか、というところに立ち返ってみることで、何か気づきが得られないかなと、これも勝手ながら思いました。
この機会に私も、自分の求める居場所像を考えてみたのですが、私の場合は居場所を構成する人の属性はそれぞれ違っていてもいいので(むしろバラバラの方が新しい発見もあったりするのかなと思ったりします)、その場ではそれぞれの価値観や人としての在り方を捻じ曲げたり、侵害したりしない、されないという共通認識はあってほしいなと思いました。そういう共通認識があることで、自分も他の人も安心して自分を表現できるのかな、なんて思いましたし、もしそういう居場所があるのなら、その輪がより大きく広がってほしいな、とも思いました。
投稿者さんは終盤、「私ってそんなにマイノリティなのかな?」という疑問を綴っておられました。私は少数派、多数派であなたを括る気にはならなかったけれど、事実としてあなたが常日頃心細さを感じてきたことが伝わってきたので、ありのままの投稿者さんが尊重される場や人との出会いがあるといいなと思わずにいられなかったことを、最後に伝えさせてください。
感想1
経験談への投稿、ありがとうございます。
お話してくれた内容の中には、なかなか人に話しづらいような内容も含まれていたように感じ、経験談であっても、お話することに勇気が必要だったんじゃないかと思います。
タイトルの「居場所がほしくて」に少なからず共感する気持ちがあったこともあり、僭越ながら、私が感じたことをお返事させていただきたいと思います。
つらいときに、「ほかのもっとつらい出来事で上書きする」方法はなるほど!と思いました。世界ではこんなに大きな悩みがあるんだ…と思うと、自然と自分の悩みを考えなくなる時間を作れるのかもしれないなと感じたからです。ただ、それと同時に感じたことは「世界でどんなことがあっても、今一番つらいのは自分だ!」と、その時には思うのではないか、ということです。実際には人によって感じ方やとらえ方が違ったりすると思いますが、自分の経験上ではそうだったように感じます。(自分の話ですみません。)
投稿者さんがおっしゃっているように「相談する相手が悪いと逆効果」という、あってほしくない状況が生まれてしまっていることで、誰かに相談することもしづらくなってしまっているように感じています。ほかの人にも理解してほしいけど、親、カウンセラーには特に理解してほしいと感じているように私には読み取れたので、この二人にも理解し寄り添ってもらえなかったという事実はなによりもつらかったのではないか、と思いました。
また、読んでいて「相談したり聞いてくれる友達の文句を言っているようで申し訳なくなる」「今の友達じゃ足りないと思ってしまう」という部分が印象的でした。
友達はちゃんと話を聞いてくれてるしそれに対して心から感謝しているけど、「話すことで楽になること」より「日に日に積み重なるつらいこと」が速いペースで膨れあがっているから、どれだけ相談してもつらい気持ちが消化しきれず足りないと感じてしまうのかな、とか、話を聞いてくれているのに、理解してもらえないと感じることが相手に対して申し訳ないと感じているのかな、とか、そんなことを考えました。(違っていたら申し訳ありません)
「セクシュアリティ」「鬱」「創作活動」どれか一つで見ると、理解し合える人を見つけることは難しくないんじゃないかなぁと思いましたが、投稿者さんのおっしゃる通り、すべてに理解のある人を見つけることは簡単ではないのかな、と思ってしまいます。
「どれか一つに理解のある人」で見れば、すべてに理解のある人より多いはずだと思います。こう、分散、っていうんでしょうか?それぞれで理解し合える人との関係を形成していくのは、すべてに理解のある人への近道になったりするのかなぁって私は感じました。
「すべてを理解し合える一つのコミュニティ」が大きな「居場所」とするなら、それはとても理想的で魅力的なものですが、「望んでいる一つのものが理解し合える空間」という小さな「居場所」が複数あることも、相対的に魅力的なんじゃないかなぁって思います。もしかすると、その小さな「居場所」にいる人の中で、偶然にもすべて理解し合える人が見つかる、なんてこともあるかもしれないなぁ。
大きな「居場所」が見つかることが理想ですが、小さな「居場所」含め、少しでも投稿者さんの望むものが得られるといいなぁと思っています。
改めて、経験談への投稿、ありがとうございました。