経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

だめ社長のお話

こんにちは。ぼくはだめなにんげんです。四十七歳です。
ええとね。社長です。社長だけど、ほれ、別にえらい社長じゃなくて。
あのさ。よくいるじゃん。ぼんぼん社長。
都会に出てさ。わしは親の力なんかなくても一人で生きるーみたいな。でもなんも仕事できなかった。それで実家に帰って、親の言いなりに会社やってます。

そもそも学生のときから人付き合いできなくて。今でいうASDだし。会話できないし。不安も強いし。人を避けちゃうし。
幼稚園のときから友達いなかったんよ。
同じ班になった人には嫌がられるし、小学生の頃は構ってほしくておどけて見せて、かえっていじめられてた。
大学いっても人と馴染めなくて、二回も中退しちゃった。
親は怒って、帰って実家の仕事を手伝えって言ってたけど、自分に仕事ができる気がしなかった。
資格でも取れば職に就けるのかなと思って、三つ目の大学で看護学科いったのね。
実習が不安で、近所の精神科に行って。実習こわい、みたいに話したんだと思う。デパスもらって。あくびしながら実習してたら怒られた。
まあいいけど。
いま思うとさ。看護師なんてASDとかADHDの特性持ちが一番就いちゃいけない仕事だったわ。注射しようと思ったら自分に針刺すし。患者さんの名前間違えるし。
仕事できなさすぎて死にたくなったけど、自分が死ぬ前に患者さんを死なせちゃう。そう思って退職したよ。

そのあとさ。地元に帰ったら、建築関係の親父が作った介護の会社の社長になってて。
三十歳のときに帰ったから、その仕事をもう十七年くらいやってる。
現場の職員と馴染もうと一緒に仕事して、やっぱり無理で寝込んだり。若手経営者の会みたいなのに参加させられて、喋れないのにグループワークしたり、飲み会に出たり、ゴルフ行ったり。介護保険の実地指導で市役所に怒られたり。職員同士のもめ事に右往左往したり。親父と喧嘩したり。
あんまり上手にできてないよ。
今は人手不足で。技能実習生とかで補ってるけど、全然たりない。あと管理者の後継者が育ってない。
そんな問題をずっと解決できてないしさ。コロナの頃から介護はもう疲弊しっぱなし。五年くらいにはなるのかな。
疲れたよね。考えることにもつかれた。
現場はみんな苦労してて、僕に対する不平も強いし。余計に現場に足を運べなくなってる。
従業員に、うまく言葉もかけられないしさ。申し訳なくて。
物価も高くなってるのに賃金安いと思うよ。でも売上もあがらないから、給料も上げられない。返済もしないといけないし。決算の数字が悪いと落ち込むし。だめな社長です。
そんな気持ちのまま、人に会わないといけないこともあって。
銀行の会だとか。議員さんを囲む会とか、勉強会とかさ。お酒の席やゴルフに参加しないといけなくて。相変わらず人との会話はできないし、酒も飲めないのに、断ることも出来なくて。嫌なのに無理やり出てるわけ。
喋れないぶん、人を笑わせようと、道化を演じちゃうクセは相変わらずで。しかもああいう場ってホモソーシャルじゃん。ホモソノリを求められるじゃん。下ネタとか言っちゃってさ。
やってきたけど、もういいかげん、しんどいの。出たくないの。死にたいの。最大の死にたさの原因かもしれない。まじで死にたい。自分が自分じゃない。あそこに行くと自分が殺される。いやまあ僕が選んでそういう役回りをしたんだけど。
うまれてごめんなさい。

なんか最近つかれててさ。人と会いたくないし、考えもうまくまとまらないし。
うつなのか、なんなのか、よく分かんない。考えても解決できない問題が多くて、なんか皆に迷惑かけてる。嫌われてる。そんな気がする。
こういう悩みって、薬飲んでも治らないし。カウンセリングで話しても、セッションが終わればまた独りで考え込むだけだしさ。自分で抱えるしかないじゃない。
まあ、でも、人生なんてそんなものかもね。ひとりで抱えるしかない。
自分の特性も、立場も、苦しさも。誰かと語らって共有した気になったところで、本当のところ、自分で苦しむしかしようがないもの。
そう考えると、こうやって書いてること自体、意味もないのかもね。
どう思う?
よく分かんないな。

あのさ。
学生の頃からカウンセリングが好きで。東京にいた頃は、グループセラピーを受けたりしてた。
いろんな人のいろんな悩みを聞くのが面白くて、自分の話を聞いてもらうのも心地よくて。いまだにカウンセリングを受けたり、人の話を聞くボランティアなんかもしてる。
心理療法つくった人に、傾聴を大切にするロジャーズっているけどさ。
人の語る心的現実をそのままに受け止めよう、みたいなことを言ったの。そのまま聞いてれば、人は勝手に治っていく、みたいな。本当かどうか知らんけどね。
いろんな人がいて。いろんなこと喋ってて。それをそのまま受け止める。
そんなふうに、ひとと一緒にいるのって、心地いいよね。治るかどうかは置いといてさ。

仕事となると、出来ないと怒られたり、嫌われたりするじゃん。だから緊張もするし、怖くなったりもする。それで、仕事の付き合いでは居心地悪かったりするんだけどさ。
せめて、仕事をはなれたところではさ。自分らしく、だめなままで、居たいじゃん。
願わくはだめな人たちと、だめな感じを持ち寄って、一緒にいたい。
居場所づくりとか何回かチャレンジしててさ。カウンセラーと一緒に、他のクライエントさんと焼き芋したりして。
なんとなく語らって、なんとなく一緒にいるの。
そういうのが心地いいなって、思ってる。気楽にいられて、安心する。
人の話を聞いてる間は、自分の悩みを悩まなくていいしさ。だから、好きなのかもしれない。
自分一人で悩んでるより、ずっとこころが落ち着くの。
僕だけかなあ。
まあ、分かんないけどね。

そんな風にさ。
悩んではいるけど、結局なんにもできない自分を、そのままに認めちゃってて。
だからちっとも改善しないんだけどさ。なんにもできないだめな社長で、従業員に迷惑かけてて、申し訳ないし、死にたいし。
そこまでひっくるめて、しょーもない社長がいるよって、せめて、ここでは言わせてほしい。
根本的には、誰にも助けてはもらえないんだけどさ。誰も同じ場所には立てないからさ。
自分で苦しんで、もがくしかない。分かってる。
社長だし、どうにかしようとし続けるのが仕事なんだろ。
そうしながらも、ぼくはここにいるよーって、言いたいの。
いつも、あつかましくも、チャットや、掲示板や、電話や、リアルや、あちこちで、しつこいくらい、ぼくはここにいるよーって言ってるの。
言ったところで何も解決しないのに。聞かせることを申し訳なくさえ思いながらも。
でも、言わずにはおけないの。
だからさ。
聞いてくれてありがと。
僕は、ぼくの希求を抑えきれなくなって、なんども書いてしまいます。
ぼくはここにいます、って。

最近知ったんだけどさ。
心理療法には、社会構成主義的なアプローチもあるんだね。
いろんな人がいろんな語りをして、それをそのまま、まとめていく。一人ひとり、個人の話を聞いて、そこに社会の在りようを見出そうっていうさ。
夢みたいなことを言っていいのなら。
ぼくが僕というだめな社長であることを許されようとする、もうそのままに、みんなが無理せず、腹を立てずに一緒に居られる職場を、作れたらいいのに。
だめな僕と、だめなところも、いいところもある皆で、もうちょっと暮らしやすいかたちが出来たらいいのに。
テトリスで、でこぼこのブロックを組み合わせてつなげるみたいにさ。
みんなの語りがそのままに、組み合わさって成り立つ社会ができたらいいのにね。
そうすれば、僕がもう一度生まれてきても、すねずに、生きていける世界になってくと思うのです。

感想1

小気味よく綴られた文章に、表現の豊かさ、経験に基づく知見の幅広さを感じさせる一方で、自己否定と自己受容の間で揺れている不安定な心の姿が垣間見えるような思いで読ませていただきました。
ご自身の立場性にも違和感を感じつつ、絶え間なく続くプレッシャーに耐え忍んでいるであろう日々を想像しています。

幼少期から人間関係で苦労されてきたことが書かれていましたが、ありのままの自分ではいられずに、周囲や社会に馴染もうと必死に立ち向かっていっては傷つき疲弊してきたことを想像して、胸が詰まるような思いで読みました。
自分が歩いていけそうな道を模索しながら、やっとの思いで就いた看護師の仕事を退職しようと決めたことは、苦しいながらも最後まで誠実にあろうとした勇気と失意の中で、葛藤の決断だったのではないかと感じました。

地元に戻って家業へ入った先でも、しんどい経験の連続だったのですね。
管理者として悩む事柄の数々はなかなか共有することが難しいように思いますし、自己一致できていない状態で決断せざるを得ない場面や、「責任」という一言で時に厳しい意見や不満をぶつけられてしまうこともあったりと、孤独感を一層感じやすい立場だと感じています。
「考えることにもつかれた」とのことでしたが、そう感じるのは無理もないことで、勝手ながら心配になっている私がいます。

外の付き合いが苦しいと感じていることも書かれていましたが、いわゆる「男同士のノリ」でもって同調圧力が働く場所は、私自身もとても苦手で、思わず深く頷いてしまいました。
ホモソーシャルな雰囲気が漂う場は、あなたにとって、周囲に合わせて自分を殺し迎合しないといけなかったつらい記憶を再体験している苦しさがあるのかなと感じました。

話すこと、書くことの意味合いが問われていましたが、私自身は、死にトリを通じてあなたの経験や言葉に出会ったことに、率直に言うとなんだか安心感を覚えています。
これだけ大変な世の中なのに、明るく元気よく振る舞うことがよしとされ、書店にはいつの間にか自己啓発本が山のように並び、正体の見えない恐怖に突き動かされながら身体と心の声を無視して走り続けて、麻痺していることも忘れてしまう・・そんな世界を何事もなかったかのように過ごしている人々の姿が、私にはどうにも不気味に思えて仕方ありません。
なので、「せめて、仕事をはなれたところではさ。自分らしく、だめなままで、居たいじゃん」との一文に、私はなんだか救われたような気持ちになっています。

書くことでもままならない瞬間はありますが、あなたの経験や言葉が日常を超えて誰かの目に触れること、姿は見えないけれども、そこに確かにいる「誰か」と出会うことは、意味がないというわけでもなさそうに私自身は感じています。
誰も同じ場所には立てない、自分で苦しんでもがくしかない、という気持ちも抱くこともありますが、お互いの苦労を通じて連帯することで、少しだけ息がしやすくなる瞬間もあるのではないかと思っています。
それは、あなたが書いてくれた「なんとなく語らって、なんとなく一緒にいる」ことに少し通ずる部分もあったりするのかなと考えたりしています。

居場所づくりの活動もされているとのことでしたが、お互いが助かり合える場所について、私も一緒に考えてみたい気持ちです。またよかったらお話を聞かせて下さい。こちらこそ、経験談への投稿ありがとうございます。

感想2

なんだかどこかのんびりした穏やかなところであなたとお話ししているような気持ちで読ませていただきました。社会や人々の中で苦しさを抱えている一方で、あなたの人懐っこさ、或いは、人が好きな気持ちもあるように受け取っています。

もう少し、この「のんびりとした穏やかさ」が何かと考えてみると、あなたがあなたのありのままでここに座ってくれたので、わたしもわたしのままここに座っていていいんだと思えることの心地よさもある気がしました。きっと、お互いのありのままを持ちよって、話し合う時間があなたにとって安心するというのは、こういった理由があるのかもしれないなとイメージしたりしています。

今でこそ、あなたに特性があるということが分かっているけれど、当時あなたがうまくいかなかったことを、人から、親から怒られるというのは相当辛かっただろうなあと感じます。人付き合いも仕事もなんだかうまくいかない、その理由も分からなければ、うまくいかないことに癇癪を起こしたかったのはあなた自身だったのではないかなあと思うからです。

何をしてもうまくいかないと語ってくれたことと、少し違ってしまうかもしれませんが、大学へ入学したり、看護の資格がとれるというのにはそれなりの能力が必要だとも思います。また社長を17年間務めるというのもやっぱりそれなりの力がないと任せられないなと思います。そう考えると、あなたの特性の中に、得意不得意なこと、というのが両方あったりするのかなあとも考えました。自分も他人も、なかなかそのアンバランスというものが掴めないことも苦しさに関係していたりするのでしょうか。

最近疲れてしまった、とも書いてくれていた通りコロナ以降ここ5年ほど、現場も経営も圧迫されている状況が続いているのだと思うと、圧迫されている現場の不平不満に耳を傾け、付き合いの飲み会には参加し、心も体もあべこべのまま、疲弊して、取り残されたような気持ちになるのも無理ないなあと想像しています。

ひとりでは、どうしてもネガティブになってしまう時っていうのがあって、人といるとポジティブな気持ちを思い出せたりするなあと思っています。だからきっとあなたも人に相談したり、話すことで、つなぎとめている気持ちがあるのかなあと感じます。

そうして相談することで培ってきた「ありのままでいていいと思える経験」が、少しずつあなたの中で育ってきているようにも文章を読んでいて思えました。あなたという人が17年間社長として勤めてきたこと、また「ありのままを認め合って、安心できる社会」という気づきを、あなたが今日ここに持っているというのは、なにか意味のある巡り合わせだと思えたりします。

少し違う角度からも「ありのまま」について考えてみました。お金持ちのことも「ぼんぼん」というけれど、平凡なことも「ぼんぼん」とも呼ぶなあなんて思うと、なんだあ、あなたもわたしも同じ人じゃないか、とそんなことを考えました。

自分が何者かなんて関係なく一緒に焼き芋をしたり、悩みを話をしたり、ありのままなんとなくそこにいられる時間が、あんまりにも世の中に少ないなあと思っています。じゃあ、どうやったらそんな時間を実現できるだろうかと考えると、自分の(人の)ありのままを認めることからはじめられそうだなと、あなたの文章から考えています。

あなたがあなたとしてここに座ってくれたから、わたしもわたしとしてここに座れる、こののんびりと穏やかに過ごせる時間の循環は、きっと人に伝わっていくんでないかなあと思います。

「みんなの語りがそのままに、組み合わさって成り立つ社会ができたら」とあなたの書いてくれた通り、「今、自分のありのままになっても成り立つ社会」であってほしい。無理に違う形になろうとして、穴だらけ、不安ばかりの社会はもう嫌だなあ。

お返事1

これだけ感想書くの大変なのに、すごいなー、えらいなーって思いました。

会って話せたらいいようなものですが、実際に会ったら喋れんのよね。もどかしい特性です。

「穴だらけ、不安ばかりの社会」ってのを読んで。ほれ、テトリスで、ブロックがうまくハマらず、空洞だらけの構造物が天井までうず高く積み上がり、灰色に変色するのを思い出しました。

ゲームオーバーにならないように、また穴を埋めてもらいに、或いは歪な出っ張りを受け入れてくれる穴ぽこにハマりに、シニトリに来ます。

一覧へ戻る