経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

分からない、馴染めない

 私は恵まれた環境で育ったほうだと思います。
家庭環境に問題はなかったし、ASDの診断も幼い頃に降り、支援や配慮を受けて育ってきました。
それでも、社会の大多数の人と自分の考え方は違っていて、その違いは悪いことだという強迫観念に近い考えが常にあります。他人の笑い声が聞こえると、「変な私を笑っているんじゃないか」と思うことがよくあります。

友達ができません。どうやって人と人が友達になるのかまるで理解できないし、他人に対して「この人と友達になりたい」と思うこともありません。世間的には友達がいないのはおかしいことみたいなので、どうにかして友達が欲しいのですが、どういう人と仲良くなりたいのかもわからないので途方に暮れています。
そんな人間なのでネット上での人間関係も失敗し、ネット上にも友達がいません。
小学校高学年くらいから周りの人間関係がまるで手に負えなくなり、中学校ではいじめとまではいかないものの特定の同級生に執拗に傷つくことを言われて不登校になりました。高校は障害のある生徒が集まる学校へ行ったのですが、その学校にも馴染めず孤立していました。
今はB型事業所に通所していますが、やはりコミュニケーションには苦労しています。

わからないことが多すぎて疲れました。
子供の頃から何度も死ぬことを考えてきました。自分がこの世に生きているということに馴染めないんです。
馴染む努力が必要なのはわかっていますが、努力の仕方もわかりません。
馴染みたいし普通になりたいです。普通にならなくていいよ、人の目なんて気にしなくていいよ、自分らしさが大事だよ、そんな言葉で救われるのは私から見たら十分普通に生きられている人だけです。
周りの人たちが何を考えているのか分かりません。自分の考えも分かりません。何でそんなに普通になりたいのか、馴染みたいのか、明確な理由はわかりません。
それでも自分には趣味があると思っていたけれど、それすら純粋に楽しんでいるのではなく生きる苦しみを誤魔化すためにしているのにすぎないのではないかと思えてきました。

生きていればいいことがあるというのは事実だと思いますし、死への恐怖も嫌悪感もありますが、結局その「いいこと」に執着して、また死への恐怖や嫌悪感のせいで辛い人生をズルズル引き伸ばしてきて、一体全体自分は何をしたいんだろうと思います。

こんなことを考えていては育ててくれた両親に対して申し訳ないという気持ちもあります。

感想1

私もASDなので、自分の感覚や気持ちを重ねてしまいつつも、自分と重ねすぎないように、慎重に何度か読み返しました。
似たところでいうと、ある時期から人間関係がまるで手に負えなくなったのと(私の場合は中学1年生からでした)、「この人と友達になりたい」と思わない部分が、わかるなあという気持ちになりました。
あと、私は自分の気持ち・考えや、周りのことをわりと「分かる」までたどり着いていますが、それは数学を勉強するように人間の心のメカニズムを頭で理解しただけなので(分かるまでに随分時間と手間がかかりました)、感覚的には「分からない」恐怖や不安が染みついています。だから「分からない」というワードには勝手ながらシンクロしました。社会の大多数と自分の考えが違っていることも、違いが悪いことだという感覚はないですが、「自分がおかしいのだ」という劣等感と焦りはいつまでも消えない気がしています。

違うところは、私は「馴染みたいし普通になりたい」とは思わないことですが、これはあなたの「馴染みたいし普通になりたい」を言い換えると、実は私も同じかもしれないとも思っています。
「馴染みたいし普通になりたい」という言葉を素直に受け取ると、私には「定型発達の世界に適応したい」という意味に感じられます。ただ、馴染んで普通になることはあくまで手段であり、目的で考えると「この不安や居心地の悪さから解放されたい」だと私は感じました。だとすると、その気持ちは痛いほどわかると感じました。

友達については、まず友達というものの定義が何か?という話にはなるのですが、私は人間との関わりはほしいと思っていて、それはどんな関係性かというと、一緒に何か目的を達成していく仲間、というものになると思っています。
一緒にゲームをする、一緒に仕事のプロジェクトを進めていく、一緒にこの不可思議な人間世界への考察を深める(これはASD同士でやります)、などは私は楽しいです。それが一般にイメージされる友達と何が違うかというと、友達は「その個人」と遊ぶことが「目的」であるのに対し、私にとっての人は「共同作業」のための「手段」であり、その人個人への執着や好意は極めて薄いことです。
実際のところは、非ASDにとっても友達はその両側面が合わさったものになっていることが多いかとは思うのですが、私の感覚としては、大多数の人と自分は違うと明確に感じます。
といっても、求める人間関係はASDの中でも人それぞれなので、あなたの望みが私と近しいかどうかはわかりません。これを書くことが、何かあなたのヒントになればと思って、語ってみました。

ASD同士で「わかる」と思える部分もあれば、そうでない部分もあるし、ASDじゃない人と「わかる」と思えるときも私はありましたが、これまでを振り返ると、「馴染めない」ということを中心に私は人とつながってきたと思います。
コミュニケーションって、そもそも一体何なのでしょうね…。私もまだそこは定義を固めてないですが、馴染めないという自分の感覚を表現することで、誰かがそれに共感したり、そういう人がいるんだと納得したりしてくれたら、それもコミュニケーションといえると私は思います。
投稿ありがとうございました。(文中で、私は「分かる」と「わかる」の二つの表記を使っていますが、これはあえてです。分かるは論理的な理解、わかるは感情・感覚的な理解、のニュアンスで使用しています)

感想2

いきなりですがソクラテスの「無知の知」が浮かびました。あなたの経験談を読み、本当にいろいろなことが分からないと苦しみ生きていることが伝わってきましたし、途方にくれている様子やこの先を生きていく自信がないことも伝わってきたのですが、同時にあなたがある意味ではものすごく「分かっている人」あるいは「分かろうとする人」なのだろうということも推測されました。少なくとも、分からないということを、ここまで明確に理解をして、宣言できる様子から、理解に対してかなり厳密な印象を受けました。
私はこれまでASDの診断をつく人たちと関わる機会が比較的多かったのですが、多くの人たちが分かるということへかなり厳格な基準を持っていて、いわゆる普通の人とは異なるレベルでの「分かる」を求めたり、必要としたりしているように感じています。それに比べると、普通の多くの人たちはもともと「分かる」ことをあまり気にしていないとも言えるかもしれません。何となく、感じるままに、ぼんやりとした理解でも気にならないし、そもそも分かるか分からないかということを意識せずに、周囲を見たり聞いたり、日常で経験していることをもとにオートマティックで周囲に馴染んでいくように思います。それをマニュアル車とオートマ車に例えて説明する人もいましたが、ある人はマニュアル車なんてとんでもない、そんな易しいものではなく、毎日場面が変わると操作方法が変わるから、いつでも新しい操作マニュアルを更新し続けなければならないぐらいですっかり疲れてしまうというようなことを言いました。
だから、あなたの「わからない、馴染めない」という内容がそうした人たちが教えてくれたことに重なりました。特に「友達が欲しい」という内容が印象的でした。あなた自身の欲求や希望として「友達が欲しい」と思っているのではなく、どうやら「友達はいた方がいいらしい」「いなければならない」という社会通念をコマンドとして、その任務を遂行しようとしてうまくいかないという内容を書いていると私は理解しました(私の解釈が違っていたら、すみません)。もしそうだとしたら、友達を作ったとしても、きっとあなたの人生や生活が充実する結果にはつながらないような気がしますし、無理をして友だちを作る必要はないように思いました。そもそも、「友達」という存在自体、とても曖昧で実はそれぞれの理解や位置づけは異なるけれど、「何となく友達認定」している人を「友達」と呼ぶ方が多いように思っています。だから、任務として友達をつくろうとしても、ミッションがそもそも曖昧なので、果たすことができなくても無理もないと思いました。
そうはいっても、普通の人のようにできないのは生きづらいことはたくさんあるでしょうし、ずっと分からないことや馴染めない気持ちを抱えたままいるのはとても苦しいことだろうとは思います。そのような中で一つヒントになりそうだと思ったのは、「自分には趣味がある」という点です。その趣味にも自信がなくなり、生きる苦しみを誤魔化すためなのではという不安が書かれていましたが、私はそんなことはないと思いました。なぜなら、その趣味はおそらくあなた自身から湧き上がる好きなことから派生したと思うからです。「友達がいた方がいい」と同じように周囲から「趣味ぐらいあった方がいい」「趣味がないといけない」と義務感によってではなく、あなた自身が好きなこと興味を持ったことであれば、私はそれがあなたの存在の原点であり、あなたらしさであると思いました。
また、あなたの「分からない」はあなた自身の努力の問題ではなく、分かるように教えてもらえる機会が少なかったことにも大きな要因があるのではいかとも思いました。あなたはあなたが見えている普通の人にはなれないかもしれませんが、あなたなりに世界を理解し、学び、分かるようになる権利はあると思います。そして、今まではその機会が少なかったのではないかと思うと、この後、あなたなりの方法や感覚で分かることや馴染むことはできるかもしれないと感じています。
最初から最後まで屁理屈みたいな、おかしな禅問答のような感想になってしまいましたが、文章で対話をするのは難しく、あなたと「分かる」「馴染む」についてそもそもどういうことなのか?という議論をしたい気持ちになっています。もしよかったら、これからも、率直なあなたの「分からない」を届けてもらえたらと思います。

一覧へ戻る