小学生の頃から心の真ん中に「消えたい」という気持ちがある。
原因は正直なところ、よく覚えていない。
ただ明確に「消えたい」と感じたのは小学4年生の頃だった。漠然と感じる不安で眠れず、明日が来なければいいのにと願い続けたあの夜は今でもずっと心に巣食い続けている。
原因は覚えてないが、要因はあるのだろう。
この要因に、実のところ目星をつけている。家族だ。
家族のことは大切だと思っている。愛情もかけてもらったのだろうと思う。
虐待とかはなかったし、劣悪な環境でもなかった。
しかし、それはそれとして家族のことをちょっとずつ恨んでいる。
大切なものを自分の手で捨てさせた父。
助けを求めた手をおざなりにした母。
私の体に無体を働いた兄。
ムカつくからと背中を叩き続けた妹。
どれも些細なことなのかもしれない。なんなら私が家族から恨まれている部分もあるかもしれない。
それでもしっかり私は傷ついているし、いまだにその傷を克服できずにいる。
幼いときから「家族の中で一番必要ないのは自分だろう」と、心底そう思って生きているくらいには。
悲しいことに家族への信頼は希薄だ。
少なくとも本心を話すことはできない。
尊重してもらえると思わないし、尊重してもらえる存在でもないと感じているからだ。
それでも家族への恩はある。
育ててもらった恩。共に過ごした情。優しさに触れた経験。
どれも得難いもので、その恩に報いなければと思う。
ただ現状、親のすねをかじり、おおよそ理想から外れた生き方をしている。
恩に報いるどころか、迷惑をかけ続けている。
自分への失望感で全身が膨れ上がっている。
恩返しができないなら、せめて迷惑をかけないでいたい。
だから「消えたい」。
「死にたい」ではなく「消えたい」。
誰にも迷惑をかけず、ひっそりと存在丸ごと。
当然そんなことは無理だと理解している。
歳をとって物事を見聞きすればするほど「死」というものがいかに周囲に影響を及ぼすものであるのか知ってしまった。
知ってしまったからには安易にその選択肢を取ることはできない。
ただそれでも「私が消えれば万事上手くいくのでは?」という気持ちが常にあるのだ。
私にとって「死」とはすべてを解決してくれる万能ツールにとって他ならない。とても魅力的だ。
さすがに20年近く、こんな衝動と付き合ってきて疲れてきた。
家族にこぼすことができない以上、愚痴を言える場所を探して、ここに辿り着きました。
言葉を書いては消してを繰り返し、あらためて気づくこともあって読みにくい文となってしまったかもしれません。
それでも、ここまで読んでくださってありがとうございました。
感想1
心の真ん中に「消えたい」という気持ちを抱え、その感情と切っても切り離せない家族への恨みと恩が入り交ざる感覚を覚えながら発散できずにいる、その息苦しさを想像しながら読ませていただきました。
子どもの立場で受けた傷は、大人になってからあの手この手で癒そうとしても簡単には癒えてくれないなと、私自身の経験を踏まえても感じています。他人でも厳しいところを、家族(親)という近すぎる繋がりの中で生じた「自分は必要ない」という体感や、(言い方が強いかもしれませんが)自分の主張や権利を尊重されなかったような経験は、はっきりと深い傷になって残るよなあと…。そして頭で理解して納得・整理するのが難しいからこそ、今回のように経験談を書いてくださったり、衝動との付き合い方を工夫したりしていると思いますし、その分徒労も積み重なっているのかなと感じています。
またこれは勝手な想像かもしれませんが(現在も家族と同居あるいはある程度関わりをもって暮らしているのかな?という推測に基づきますが)、投稿者さんが家族と話したり、存在を感じる中で、小さくとも鋭く傷つく瞬間も多いのではないかな、というイメージが浮かびました。文末のほうに「愚痴」とあったので、家族のことを考える時間が時折あるのかなと思うのと、「消えたい」の要因として家族を捉えていること。何より、ふとした瞬間に自分が傷つけられたその「片鱗」を、相手(家族)から感じてしまうことがあるのではないかなと想像しました(的外れだったらすみません…少なくとも、私はそんな感じです)。
個人的には「自分への失望感で全身が膨れ上がっている」という表現が好きでした(明るい文脈ではないと思いますが…)。そして思ったことは、自分への失望も期待も、きっと自分一人では満たせず、周りの環境や人によって、良くも悪くも空気を入れられたり、不用意に穴をあけられたりしているような気がする、ということです。消えない傷ならば体ごと投げ出してしまいたくなる感覚に同じく魅力を感じつつ、どうにか折り合いをつけようと逡巡しながら書いてくださった様子が伝わり、ひそかに共感するところも多かったです。よければまた死にトリを訪れてみてくださいね。投稿ありがとうございました。