生きづらさは生まれつき?環境で決まる?
私は小学2年生の時に神経性胃炎と診断されました。苦手な同級生(Mちゃん)がいて、その子の顔を見ると胃が痛くなりました。Mちゃんとは家が近く登下校も同じ。彼女は自分の要求が通らないと道端にしゃがみこんで動かなくなったりしました。私はそんなMちゃんに逆らうと面倒なことになるので言いなりになることに。Mちゃんの要求はエスカレートし、冬の川に入ったり、砂団子を噛んだりしました。川に入って帰宅した後、母に「すぐ洗面所に行き!」と厳しく言われたのはショックでした。寒かったなぁって迎えてくれるものと思っていたからです。だんだん朝になると胃が痛くなり、学校に遅刻したり登校しても保健室で休んで早退が続きました。それで神経性胃炎と言われたのです。ある夜、寝ていた私は起こされて父の前に座りました。「嫌なことは嫌って言え!」「ちゃんと学校へ行け!」と一喝されたのを覚えています。「はい」というしかありませんでした。ただ、担任の先生がMちゃんにどういうことを要求されるか聞いてくれ、私の話も聞いてくれたので3年生のクラス替えで離れられると思っていました。3年生の4月。新しいクラス発表を見たらまたMちゃんと一緒・・・。
私はこの2年間終わった・・・と、思いました。絶望にも近い気持ちでした。ただ、新しい担任の先生が私たちの関係の歪さに気づいてくれて私が自分の意思を表出できることが課題だと通知表にも書いてくれました。そしてはっきり5年生ではクラスを離しますと言ってくれました。
今、振り返ると私はMちゃんに「迎合」していました。嫌だけどその方が楽だから。だけど親には言えません。叱られると思っていました。幸い新しいクラスで誕生日会に呼んでくれる友達もできました。Mちゃんは呼ばれていない誕生日会。嫌な予感は的中するもので、当日Mちゃんが家に来て「行かないで」「私も行きたい」とだだをこね始めました。こういう時に限って親は不在・・・。私は「わかったよ」と誕生会に行かない旨を伝えて、用意していたプレゼントを隠しました。それが母にあっさり見つかって「なんで行かなかったん?!」と聞かれたけど説明できませんでした。言ったら叱られると思いました。両親にも意味が分からなかったと思います。この時、自分の気持ちを言語化できていたら何か違ったのかな。親が叱らずに聞いてくれるという安心感が欲しかったと振り返って思います。
3年生になってから神経性胃炎は収まったけれど、日曜日に1日遊ぶと月曜日は疲れて登校できないことがありました。母は「タフじゃない」と表現してくれました。5年生~6年生の2年間はとにかく体がだるかったです。でもスポーツが好きな私は水泳やマラソン、縄跳びも得意でした。ミニバスケットボールチームに所属し練習にも励みました。でも毎日だるいなぁと思っていました。
中学生になった直後、初潮が来ました。バスケットボール部に入りましたが顧問の先生の厳しい口調を聞くと体が固まりました。プレーして失敗するのが恐い。だんだんと練習が苦痛になり夏休みには休みがちに。部活動を辞めると学校での居場所がなくなる気がしてマネージャーとして部活動を続けることに。この選択はよかったと思いますが顧問のカミナリがいつ落ちるのかヒヤヒヤしていました。学校の規則で水曜日は部活動が休み。その他の平日は学校で練習、土日祝は対外試合とゆっくり休めませんでした。マネージャーになってからも土曜日の午後がしんどくて練習を休んだり、日曜日の試合を休んでいました。「体が弱いんやなぁ」という先輩の言葉と、母が言った「タフじゃない」がこの時つながりました。それはただ、人より体力がないだけのことなのですが「私が悪い」と感じて、「休みます」って連絡するのが苦痛でした。「また休んだの?」「よく休むなぁ」って言われないかドキドキしていました。このころから自責の念があったように思います。
高校は電車とバスで1時間20分ほどの学校に行きました。第一志望の学校でしたが、朝のラッシュがしんどくて、最初の一週間は毎日泣いていました。「他の学校にすればよかった」と。でも、すぐに友達ができ空いている電車を教えてもらって落ち着きました。勉強は全然しなくなってしまいました。今思うと本当にもったいないのですが、通学だけで精一杯でした。精神科の医師はこの時のことを「物事の適応が悪い」と表現してくれました。進路を決める段になって系列の大学への内部進学は私の成績では難しいため外部を受験することに。この時にがむしゃらに勉強をやりすぎて高校3年生の1月2日。涙と動悸が止まらなくなり精神科を受診しました。この時に母が「これは内科じゃない」と判断してタウンページで病院を探してくれたのは感謝しています。お正月で休診の病院が多い中一番早く診てくれる病院に行ったところ「軽いうつになっていますね」と言われました。服薬しつつ受験しましたが浪人することに。浪人して大学に合格したら元気になると思っていましたが、単位を取れるのか不安になりました。(物事の適応が悪い)そして1年生の時は生理の周期がめちゃくちゃで生理前にはひどく顔がむくみました。うつ病のお薬も継続していました。
生理に関しては高校生の時から量が多くて、昼間でも夜用を使っていました。友達に「なんでそんな大きいナプキン使ってるの?」と聞かれ「これじゃないと漏れちゃう」と言ったらびっくりされて「私って量が多いのか」と自覚しました。夜用が1時間で真っ赤になったり、制服を汚したりは日常茶飯事。でも産婦人科に行くという発想はなかったです。大学3年生の時に1時間に1回夜用が真っ赤になる日があって、それが1日続いた夜に出血が止まらなくなりました。そこで初めて産婦人科に行き、MRIも撮りましたが異常なし。貧血も「もっとひどい人もいるから」と、相手にされませんでした。アルバイトや就職は「いつでもトイレに行けること」が絶対条件でした。今はピルの服用など治療できるのが本当にうらやましい。体力的に少ししかアルバイトをしなかったのですが、それはそれで「親に甘えている」とか「大学生活をエンジョイできてない」とか自責の念につながっていました。
就職活動で自己PRと言われても何をPRしていいのかわかりませんでした。真面目で協調性があって何事もやり遂げる。これじゃダメなのか?と、思うくらいことごとく落ちました。氷河期とはいえ内定する人がほとんどでいたので落ち込みました。でも、12月に母校の臨時職員に内定することができホッとしました。お給料は高くないけれど残業もないしお休みも多いし、トイレも自由に行けるし私にはありがたい職場でした。
実家暮らしでしたが自分に収入があるのは精神的に楽になりました。ずっとやってみたかったジャズダンスも始め、仕事もやりがいがあり、うつ病も少し軽快しました。でも33歳の時、職場の後輩に私の意見と反対のことを言われたのをきっかけに仕事を辛く感じるようになりました。私はできると判断したことを後輩はできないと、強く言ってきたことで私は自分の判断に自信が持てなくなり、うつ症状も強くなりました。私はずっとその場の空気が悪くなるのが恐く、人に嫌われるのも恐かったので、私が我慢することでその場をうまく収めてきました。だから違う意見にどう対処していいか分かりませんでした。その後はスタッフの顔色を見ながら仕事をしていました。生理も相変わらずひどく婦人科を受診したら子宮筋腫ができていました。でも、特に治療はなく経過観察。35歳を過ぎる頃には毎朝お腹をこわし、月曜日や火曜日に出勤できないことが増えました。有休を使いきって欠勤してしまう。自分が情けなかったです。38歳の時、子宮筋腫を摘出。生理は楽になりましたが電車で倒れたり体調が戻りません。精神科の医師は「夏休みまで頑張ろう」と励ましてくれましたが、夏休み前日に仕事に行けなくなり、夏休みが終わる前日に余っていた薬を大量に服薬して自殺企図。母に「しばらく仕事を休む」と連絡してもらった時も「社会人としてあり得ないことをした」と、自分を責めていました。診断書を書いてもらい休職。休職中も動けるようになると「痩せなくちゃ」と頑張って動きました。体調に波があって時々動けなくなったのですが、当時の私は「なまっている」と感じてとにかく体力をつけようと動きました。結果、うつ状態が悪化。退職を決意しました。その直後に母の癌が分かりたった2ヶ月で亡くなりました。四十九日を終えた独身、無職の私は何もすることがなく、何もする気が起きず、ただ天井を眺めて横になってるだけ。何度も母に「迎えに来て」って頼みましたが叶いませんでした。「むなしい」と感じていました。生活もほぼ家の中。お風呂に入れない、買い物に行けない、美容院に行けない・・・、うつ病のもっともしんどい時期を1年ほど過ごしました。
少しずつ回復していく中でも動いたら疲れてしまう自分を責めていました。でも、友達が「誰でも疲れるよ」と言ってくれたのをきっかけに、動いたら疲れて当たり前なんだな。と、思えるように。スケジュールを組むのも余白を多めにしていつでも寝込めるようにしました。寝込むのは私が悪いのではなくて、私は自分が思うほどエネルギーのタンクが大きくないこと、そして自分が思っているよりもエネルギーの消耗が大きいことがだんだんわかってきました。「動いたら休む」を意識して自分の体調とはずいぶんと付き合いやすくなったと思います。
退職した後、私の回復の目標は「再就職」でした。でも、なかなか体調は安定しません。45歳を過ぎたあたりから気分の上下も大きくなりました。更年期のホルモンバランスも関係しているのかな。現在は双極性障害の治療に使われる薬が効くので服薬して、気分の波が大きくならないようにコントロールしています。それでもどうしても寝込む日があるため、再就職にこだわらず障害年金を申請したところ受給できることになり安心できました。私は退職して以降、経済的に親に頼っていることを無意識のうちに「申し訳ない」と思っていました。退職後の数年間は好きなことをして体調を整えることに専念できましたが再就職の目途がたたないと「申し訳ない」という気持ちは大きくなってしまったので経済的な安心感も「生きやすさ」には大切だなと感じます。
コロナ禍で思うように外出できない時、父と意見の違いでよくぶつかりました。ぶつかるたびに疲れて寝込んでいました。ある日大きい声で呼ばれた時に体が「ビクッ」と反応して動悸がしました。自分でもびっくりしましたが、怒鳴られたと体が勘違いしたのだと分かりました。その時に45歳をすぎてなお「父に叱られるのが恐い」と思っていることに気づいたのでした。精神科の医師からも「お父さんとの距離が近すぎる」と指摘があり、昼間は外で過ごすように。「お父さんのお世話にあなたの存在意義を見出してはならない」とも言われ食事の準備もやめ、父の生活ペースに合わせるのをやめました。しばらくしてから私は何かする時に「父はどう思うだろう?」「父になんて言われるだろう?」と無意識に考えていることに気が付きました。「ああ、私はこんなにも親の目を気にしていたのか」と自覚してショックでした。だけど「もう私も立派な大人。自分のことは自分の意志で決めていい」とやっと思えるようになりました。
私は虐待されたわけでも、金銭的に困窮したわけでもありません。でも、生きづらさをずっと感じてきました。それは身体的な要因なのか精神的な要因なのか、それとも両方なのか分かりません。そして生きづらは生まれつき持った性質のせいなのか後天的に得た性質なのかも分かりません。小学生の段階で何かの支援につながっていたら違ったのかなとは思います。自分の気持ちを言葉で表現することや、意見の対立は恐いことではなく当たり前のことだと学ぶ機会や手助けが欲しかったです。でも、50歳を手前にして自分の無意識の考えに気づくことができたので、これからは自分のことは自分で決めて、自分の人生を歩いていきたいです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
ささくれ
感想2
『ささくれ』というタイトルに惹かれました。一言では説明できない、たくさんの意味をそこに感じながら、想像しながら、最後まで読ませていただきました。
「エネルギーのタンク」という言葉も良い表現だなあ、としみじみと感じます。エネルギーのタンクは人それぞれ、その人にきっとぴったりのサイズで備わっているのだなあと、読んで思えるようでした。そして、あなたのエネルギーのタンクのサイズから、消耗の仕方や充電の仕方など、様々な経験を通した中で、少しずつ付き合い方を研究されて見つけてこられたのだな、と思うと少し安堵する自分もいます。
あなたの抱えてきた生きづらさのひとつ、生理について。痛みや気持ちの面だけでなく、量でもこれほど苦労されている方がいらっしゃるんだなと自分の無知さを恥じる思いです。症状が強ければ強いほど、生活に支障をきたすものだと思いますが、仕事の絶対条件にも関わるほど、あなたの生活を左右させるものだったのだと思うと、あらゆる面で相当苦労されたのだろうなと同性として心から思います。それこそ生理への世間的な理解をはじめ、ピルや治療が当時からあればどんな選択肢があなたに広がっただろうと思えます。今でもまだまだ理解のない社会だとも思うので、もっと生理や更年期について人それぞれだという事とセットで理解が広まってほしいなと切に思います。
そして、あなたの父親さんとの関係について、ご自身でショックを受けられたとのこと。そのことについて触れさせていただきたいな、と思いました。あなたが出会った人の的確な指摘や助言で、あなたのペースで着実に父親さんとの生活を見直され、距離を取ることを実行されたことにあなたの力を感じます。そして「こんなにも親の目を気にしていたのだ」という気づきが、父親さんの生活のペースに合わせるのを辞める前でなく、辞めてからなのだなあ、ということが興味深かったです。気づいてから辞めるのではなく、辞めてから気づくこともある、いつでも心の辞書から引き出せるようにしておきたいものです。
「人の顔色を気にしてしまう」ことの大半が、わたしは親の影響が大きく関わっているのではないかなと思っています。父親さんの大きい声に「ビクッ」と反応してしまうほど、幼少期から蓄積されているものがあなたにあるのかなと感じます。「叱られる」と思って本当のことを言えなかったことや、「叱られないように」することで、あなたはこれまで生き抜いて来たのかなとも感じました。
ここに書いてくださったことだけでも、あなたの大きなストレスの要因が対人・特に圧力的な人や、あなたの意見や気持ちを言えない相手(Mちゃん、顧問の先生、職場の後輩、ご両親など)が関わっている時だなあ、とそう全体を読み返しています。「怒らせないように」「空気を悪くしないように」「嫌われないように」自分の気持ちを押し殺すことは、誰であっても心身ともに大きなストレスを感じるものだと思います。あなたにとっては、それが心身の症状となるほどのストレスだったのだとも感じます。
あなたが最後にまとめてくれた、「自分の気持ちを言葉で表現することや、意見の対立は恐いことではなく当たり前のこと、だという学びや手助けが欲しかった。」という文章から、学ぶ機会がなければ知り得ない環境に置かれている人もいるということ、そして「迎合」しなければ生き延びられない環境にいる人たちがいるということを改めて考えさせられました。
わたしが最後に、よかったなと思うことは、あなたが少しずつあなたに必要な支援につながりながら、今あなたの気持ちや意見をきちんと持っていらっしゃるという点です。社会への適応を求められれば求められるほど、私たちは自分の気持ちや意見を置き去りにしがちです。いつの間にか、自分の気持ちや自分の形が何なのか思い出せなくなってしまうことも現代において残念ながら、よくあることだと思っています。それが、幾つであってもきっかけひとつでも自分の無意識の考えに気づき、自分の気持ちや意見を選択できるのだということにとても希望を感じました。
ささくれ、というタイトルの真意はきっとあなたしか分からないけれど、この言葉に深さや強さも感じながら、感想を書き終えたいと思います。もし、「チームささくれ」というチームがあるなら、仲間に加えて欲しいな、と思います。
お返事1
私の経験談の感想をありがとうございました。
私の思いの丈を綴った文章に丁寧に寄り添い労って頂き、
私の生きづらさを共感をもって受け入れていただけたことが率直にうれしいです。何度も何度も読み返しています。
ありがとうございます。
実は「ささくれ」というのは私のペンネームで、タイトル欄をペンネーム欄だと思い込んで記入してしまいました。
本文の一行目が私の付けたかったタイトルです。
ただ「ささくれ」も意味があって、私の心は時々ささくれ立つのです。
例えば30代になる前、同級生たちがどんどん結婚して子どもを産んだ時の年賀状は正直辛かったです。彼氏ができない私の心はささくれ立っていました。
その時の私は結婚はするものだと思っていましたが、「相手にいつうつ病のことを打ち明けるの?」とか「私に子どもを育てる体力はない」とも思っていました。こういう私の本音も親に話すことができず「あんた、結婚と出産どうするの!」「35歳過ぎたら妊娠しにくくなるで!」って母に詰められました。「そんなこと自分でも分かってるわ!」と喧嘩になっていました。悔しかったし、当時は「普通」に生きられない自分がもどかしかったです。
けれども、40歳で退職してから世間の「普通」とか「当たり前」は多数派の生き方を指すのでは?と思うようになり、私は少数派なんだなと捉えたら心がささくれ立つことは減りました。
体験談に出てくるMちゃんにも詳細は分からないけど生きづらさはあったと思います。
けれども彼女が結婚し子どもを連れている時にバッタリ出会った時は正直モヤっとしました。ずるいと思いました。
今の私はいい意味で諦められるようになりました。
体調が平均的でないことも、時々寝込むことも、独身でいることも、現状がそうなんだから仕方がないやんかという感じです。しっかり服薬して、時々は運動をしてもどうにもならないことがある。
だったらその自分でどう生きるか?を考えて障害年金の申請に繋がったと思います。
もちろん将来に不安もあります。でも一つ思うのはこの世を去る時に後悔はしたくないということ。
もう一度今の人生を生きたいかと問われたら少し躊躇するけど、感想に書いてくださったように私はオリジナルの人生を生きてきたと自負していいのかなと思います。
そのことも私の過去を癒してくれそうです。
父との関係について無意識の考えに気づいた順序についても感想に書いてくださいました。私は医師に父から離れなさいと、言われてもピンときていませんでした。父から離れたことで、常に父の気配を意識していたことに気付いたので、ずいぶんと父のペースに取り込まれていたなと思います。
「とりあえずやってみて分かることもある」ということでしょうか。
お二人の感想を読ませて頂いて私は自分の心のささくれに「痛み」を感じていいのだと思えました。これから少しずつ痛みを感じて行くことでしょうから、それらを少しずつ癒してあげたいと思います。
チームささくれ、結成したいです。
感想1
小学2年生という幼い頃から、50歳手前の今に至るまでのあなたの「生きづらさ」が具体的なエピソードとともに書かれていて、とても考えさせられる経験談でした。「生きづらさ」を感じ続けてきたあなたの疲労感、その「ささくれ」が「生きづらさは生まれつきか環境か」という冒頭と末尾の問いとなっているのだろうなと感じています。「生きづらさ」を抱えながらここまで歩んできたことと、その道のりを長いスパンで振り返り、このように言葉にしていることに敬意とねぎらいの言葉をまずはかけたい気持ちです。
小学生の頃、あなたはMちゃんに振り回され続けてきたようですが、個人的には両親があなたの言葉に耳を傾けるのではなく「厳しく」「一喝」したことに深い傷を負ったのかなと感じました。経験談の末尾の方に書かれている、父の「大きい声」に「体が「ビクッ」と反応して動悸」がした話にそのことが表れているように私には思えました。
また、先生にMちゃんの話をしたにも関わらず「クラス替え」でうまく調整してもらえなかったことは、あなたを深く「絶望」させただろうなとも思いました。私だったら人間不信になりそうなので、「自分の意志を表出できることが課題」などと書かれても、大人側がちゃんと対応してくれない(話したところで変わらない)からでしょ…と思ってしまいそうに感じました。なので、私もあなたのように「自分の気持ちを言語化できていたら何か違ったのかな」とは思いつつも、そもそもこどもにとって言語化することも大人や誰かに意志を表出することも簡単ではないと思うので…意志を表出しやすい“環境”が整っていなかったこと、「叱らずに聞いてくれるという安心感」のある“環境”が不足していたのではないかと感じます。これはあなたの被害やMちゃんのしてきたことを矮小化する意味ではありませんが、もしかしたらMちゃんにもそうした“環境”がなくて、「生きづらい」と感じていたのではないかな…などと、そんなことまで私は想像してしまいました。そして、あなたがMちゃんに「迎合」してきたのは「生きづらい」環境をやり過ごすための術であり、「神経性胃炎」や「体がだるかった」のはあなたが精一杯発していたSOSだったのではないかと私は感じます。そのSOSに耳を傾ける大人がいなかったことを歯がゆく思いますが、好きなこと・得意なことを通じて、なんとかあなたはやり過ごしてきたのかなと思いました。
しかし中学生になると、好きなことを好きなまま続けることが難しくなり、小学生の時に受けた傷の影響やその傷口に塩をぬるかのような周りのまなざしが強くなってしまったことで、あなたが苦しんだ(苦しめられた)のだろうと感じました。先生の「厳しい口調」で「体が固まる」反応を示したのは、父親による「一喝」で受けた傷の影響のように私には思えましたし、あなたが「悪い」わけではないのに「自責の念」を感じたのは、そう思わせる声が周りで飛び交っていたためだろうと感じます。
高校では「友達」の力を借りながら過ごそうとはしていたものの、「精神科の医師」の発言をはじめ、あなたに向けられる厳しいまなざしが顕著となり、受験や進学などのプレッシャーも相まって相当苦しかったのではないかと感じました。
高校生・大学生になると(中学生頃からそういう傾向があるかもしれませんし、性別によってその質などが違うかもしれません)年齢が大人に近づくことから、大人であること・ふるまいを求められやすい=厳しいまなざしが向けられやすいと言えるのかもしれないと感じますが、それは大人の勝手な気が私はしています。母が病院を探してくれたのは私としてもよかったなと思いましたが、そうした理不尽なまなざしがある限り、あなたは相当苦しい“環境”に立たされていたと言えるように思いました。「生理」のことは「神経性胃炎」の時のようにあなたの身体が発するSOSだったのではないかな…と私としては感じましたし、性教育やリプロダクティブヘルス・ライツの取り組みが社会で充実していれば、あなたが「産婦人科」に行く発想を当たり前のように持てたかもしれず、病院で「相手にされない」こともなかったのではないかと私には思えます。それが「自責の念」につながってしまうのは、やはり周りの声・“環境”が整っていなかったからだと私には思えました。
就職活動を経てからも(ことごとく落ちるのは相当削られたことと思います…)あなたが仕事や家族での人間関係、通院や健康と、様々に振り回され続けたことが伝わってきました。「自殺企図」するほど追いつめられたり、一方で「痩せなくちゃ」「なまっている」として自身を追い詰めるかのように自分を「責め」たりする日々は、相当の疲弊や混乱を生んでいたのではないかなと想像しています。そして、母との死別経験はあなたをどん底に突き落とし、何もかも「むなしい」と感じさせるものだったのかと思います。それでもあなたはそうした「生きづらい」“環境”の中で、「ずっとやってみたかったジャズダンス」をしてみたり、「友達」の言葉で視野を広げたり、「再就職にこだわらず障害年金」を受給する選択をしたり(申請も大変だったのではないかなと思います)、「無意識」に父のことを考えていることに気づき「父の生活ペースに合わせるのをやめ」たりと、自己探求と試行錯誤とを繰り返し続けてきたのだなと思いました。あなたにはそのような力が確かにあり、「自分のことは自分の意志で決めていい」と思う気持ちの芽生えをはじめ、多くの気づきを得てきたのだなと感じます(そのことに深く感心してしまいました)。紆余曲折を経ながらも、あなたはある意味ではもうすでにずっとあなたの道=「自分の人生」を生きてきたということだとも私には思えました。
ここまで書いてきて、私にはあなたの冒頭と末尾の問いの答え、あるいは、その答えは見つからなくても大事なことは何かという解を、あなたはあなたなりにもう見出しているのではないかなと思いました。「寝込むのは私(あなた)が悪いのではない」し、「経済的な安心感」が「生きやすさ」に必要であり、「小学生の段階で何かの支援」や「自分の気持ちを言葉で表現することや、意見の対立は恐いことではなく当たり前のことだと学ぶ機会や手助け」があったら違っていたと私も心から思います。完璧な”環境”というのは難しいのかもしれませんが、そうした”環境”が目指され、少しでも整えることができれば、生まれつきか後天的かにかかわらず誰かの「生きづらさ」は軽減されるのではないかと私はあなたの経験談を読んで、深く考えさせられています。あなたがこれからも「好きなこと」や信頼できる誰かに力を借りながら、そして自身で得た気づきを大事にしながら「自分で決めて、自分の人生を歩いて」いくことができるよう陰ながら応援しています。これまでの経験からしぼりだした気づきを紡いで、ここで共有してくださったことに感謝して、感想とさせていただきます。投稿ありがとうございました。