経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死にたい、死ななきゃ、の先

1年前ぐらいがいちばんつらかったんだろうなって思う。リスカしてたし毎日日付が変わってもしばらく友達にトークで話しかけて寄りかかって、そうしないと壊れてしまいそうで、毎日ぼろぼろで学校に行って、たまに心が限界すぎて仮病で早退したこともあったし成績不振だったし、ほんとうにつらかったなぁ、と最近よく思う。
今はしあわせなんだろうなぁ。
進学校にも入学させてもらったし、打ち込めると思えるものがあって、あんなに依存してたSNSも少しずつ時間を減らせてるし、確かにいちばんつらかったときよりもしあわせなはず。今幸せか?って誰かに聞かれたらきっと胸を張って、つらかった頃より何倍もしあわせです!って言える。はず。つらかった頃の幸せ値が0だったら何かけても0だろとかはちょっと言えるかもしれないけど。
ただ、しあわせでいなきゃいけないという強迫観念があるのは多分気のせいではない。つらかったあの頃の私を救ってあげるためには、今の私がしあわせでいなければいけない。
そう思う自分がいることがちょっとだけ苦しいなあと思う。ちょっとだけ死にたいなぁと思ってしまう。

ちょっとっていうのは、いちばんつらかった時期に比べたらちょっと、ということであって、もしかしたら周りの友達(だと思っている人間)と比べるとかなり大きいのかもしれない。
死にたいの度合いは別にどうでもいいしどんな度合いでもつらいんだけど、自分の精神を見つめるのは大事だ!と勝手に偉そうに自分の中で正しいと振りかざしていつも測ってます。

しあわせって義務感で目指すものじゃない気がする。世間一般ではそうである気がする。
幸せだって言い張る割にはつらかった頃の自分のことをちゃんと受け入れることができていない。あの頃の私は過去に置いてきてしまって、ちゃんと大丈夫だよって抱きしめてあげられないままでいる。そのせいで過去に空白の期間がある気がしてその時期のことは上手く思い出せないし、心に少し隙間があるなあという感覚がある。
どうしたら過去の自分を大事にすることができるんだろう。思い出が空白だらけで心が隙間だらけでも生きていていいと思えるんだろう。

あの頃していたリスカのせいで腕を出すのが怖い。私を好きだと言ってくれた優しい人をひどく傷つけたせいで恋だって上手くできなくなった。
死にたいという気持ちを抱えてしまったことで失ったものとかできなくなったことを思うとどうしても過去の自分を愛してあげることができません。
いつか楽になれると思って頑張って生きてきたけど、死ななきゃという思いから解放されたと思ったら次は幸せにならなきゃという思いに縛られてる。希死念慮を抱えてから普通に生きることができなくなった気がする。私がなりたい私のように生きることはもう叶わないかもしれない。

感想1

しんどさを俯瞰しつつも、「幸せにならなきゃ」という考えがあなたの心身にぐるぐるとまとわりついているような感覚を、経験談を読んで私は思い浮かべました。
あなたが過去の自分のしんどさを昇華したくて、「○○ができている、○○もある…だから今の自分は幸せだ」と幸せである根拠探しをしているように、少なくとも経験談を読んだ私には見えました。「しんどい」って人に言ったときに「あなたよりも辛い人はたくさんいるんだよ」と言われたときに私は悲しい気持ちになるのですが、それに近いものを私は感じました。しんどい部分もあるはずなのに、幸せである根拠探しをして「こんなに幸せな要素がいっぱいあるんだから大丈夫」と言い聞かせているような感覚を抱きました。苦しさを受け止めきれず、幸せであることや恵まれている根拠探しをすることは私もしますし、特殊なことでもないと思います。その行為がもしかしたらあなたの一時の安心に繋がっている部分もあるのかもしれないと、読んでいて思いました。

また、「今の私が幸せにならなきゃ」とあなたが考えているということが経験談に書いてあったのですが、あなたは幸せというものは長く続く性質を持つものだと考えているのかなと思いました。幸せって長く続くものもあれば、ほんの一瞬のものもあるのかもしれないなぁ…と私は思いました。ほんの一瞬だけでも「生きててよかった」って思える場合も、あるかもしれません(私はありました。そしてそれだけでも人生の支えになるぐらい、とても救われました)。あるいは、私には付き合っている人がいて周囲から見たら「幸せそう」と思われるかもしれませんが(そもそも恋愛している人のほうが偉いとか幸せとかいう価値観もどうかと思いますし、恋愛に重きを置いていない人もいると思いますが…)、ずっと幸せなわけではありません。喧嘩しているときは本当に「嫌すぎ!」と思うときもあります。「それも幸せの1つだよ」と言う人もいるかもしれませんが、喧嘩しているときは怒りやら何やらでいっぱいな場合もあり、正直そんなこと言っていられないです(突然の自分語り失礼しました)。
あなたが幸せについて経験談で語るのを読んで、「今私は幸せなのかな」と自分のことも考えてみたのですが、私は自分が幸せかどうかわからなかったです。むしろ、「○○食べて幸せ!」とか「○○って言われた!もう嫌!」って幸不幸を繰り返しながら刹那的に感情を揺さぶられながら生きているのかもしれない…と自分のことを振り返りました(人によるかもしれませんが…)。
生きている中でいつでも長い間「自分は幸せだなぁ」と思って生きているのではなく、ふと「自分って幸せだなぁ」と思ったり、一瞬「今幸せかも」「楽しいかも」って思ったりする人もいるのかもしれないなぁ…と思いました。

そして、幸せの要素は掛け算である部分もあるかもしれませんが、その瞬間の総量は掛け算ではなくメーターのようなものなのかな…と私は思いました。経験談を書いてくださり、ありがとうございました。

感想2

経験談の投稿、ありがとうございました。
「しあわせでいなきゃいけないという強迫観念」という言葉に胸がきゅっとするような感覚を覚え、一気に読ませていただきました。
しあわせについて考えてみたくなるような投稿だったので、考えたことを自分なりにまとめて感想としたいと思います。

実は私も、自分はこれまでよりしあわせ(もしくはその逆)"寄り"ではある、というような認識の仕方でないと、しあわせをキャッチしづらい感じがしています。自分の内側から出てくる、思わず感じてしまうようなしあわせというより、自分を客観的に見たり、他者からの評価をもとに自分のしあわせを観測している、みたいな感じです。
客観的に見てしあわせだと思えるとき、私自身悪い気持ちではないと思うのですが、、。文中に散見される、しあわせなはずだけど断言は難しいことを表現する言葉たちが、自分にも当てはまるなと感じ、なんとなくモヤモヤする感じに、近しいものを勝手ながら感じました。

また、自分を客観的に見ている、みたいなことを先ほどは書きましたが、、私にはしあわせでいなきゃいけないという強迫観念もあったりするので、つらいことを自分の中でもみ消そうとしている気もしてきました。ちょっとした悲しいことがあった時とかに心配の声をかけられると、考える前に「大丈夫」と口にしている自分に気づいたんです。自分のむき出しの気持ちを、自分で覆い隠してしまっているような感じだと思います。そう思うと、つらいときはつらいでいいと思えるのはしあわせなことかも?いやでもつらいってことは変わらないし…。

…もはや自分でもよくわからなくなってしまいましたが、私の中にしあわせでいなきゃいけないという感覚はあるのに、何がしあわせなのかを明確に認識できていないということはわかりました。これってまるで、ゴールも分からないのに走らされているみたいだなと我ながら思いました。これが私が感じている切迫感の正体なのかな?そんなことを考えつつ、自分だけのしあわせを見出せたらいいなぁと率直に思いました。
たくさん考えさせてもらいました。投稿ありがとうございました。

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