経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

人を信じれなくなっただけ

小中学生時代の約7年間波はあったものの、「バイ菌扱い」「すれ違う時に悪口を言われる」「容姿をばかにされる」などのいじめを受けてました。担任に助けを求めても「辛いかもしれないけどもしかしたらあなたの勘違いかもしれない」と言われ助けて貰えませんでした。
家では母が兄弟間での差別をしており暴言暴力は当たり前でした。藁にもすがる思いで母に話してみても「そんなの、昔なら良くあること。今の子は軟弱ね」と話したことを肯定すらしてくれませんでした。

他にも小学生の頃に同性兄弟からの性加害や中学生の頃に同棲異性双方からのストーカー行為を受けてしまいました。(ストーカー行為については異性は解決、同性は卒業と同時に縁を切って離れました)その時も誰も助けてくれず酷い時は母のように「あなたが悪いのでは?」とも言われました。

その時「あ、誰も助けてくれないし私なんて所詮助けたくない存在なんだ。」と思いそこから人間不信になりました。

高校進学後は地元から少し離れた学校に進学し、どこを見ても知らない人しかいない環境で一から友好関係を築いていきました。
今までいじめていた人がいない環境に身を置くと、家庭のことはあれどいじめで出来た毒が抜けるような感覚になりました。
暗くぼーっとしていたのが嘘なのかのように明るい性格になっていたと思います。

でも先日、学校の友達が私のネットストーカーをしてることが発覚しました。
友達いわく「ネットやってることを知ってあなたのアカウントを知りたくなった。自分で調べて特定してバレないように監視していた。」と言われました。

過去にストーカー行為をされてそれ自体がトラウマになってた私にとってはかなりショックで1、2ヶ月ほどまともに寝れず、「もしかしたら今やってる事とかも見ているのかもしれない」と被害妄想をしてしまったりしました。
現在では同じクラスですが余り関わらないようにして話しかけられたら話すくらいにしています。

嫌なことを沢山されて、誰にも助けて貰えなくて、とても苦しくて、もう誰も信用出来ないししない。と考えています。
でも人を信じれないのはとても辛くて。
こんなのどうすればいいの。と毎日考えてます。

進学を機に慢性的な自殺願望は少し薄れていってたのですが、ネットストーカーの件でまた再発してます。
気がついたら自殺してるんじゃないか、と思ってしまいます。

いじめとストーカー、暴力で解決する人はもうこりごりです。

感想1

今も同じクラスにネットストーカーをしてきた相手がいて心身ともに苦しい中、経験談を書いて送ってくださったのかな…と私はあなたの様子を思い描いていました。「嫌だな」「関わりたくないな」と、相手のことを気にしながら生活しているのかな…といったふうに、頭の中にあなたの生活の様子を思い浮かべながら、経験談を読ませていただきました。
言葉にするのもしんどくてたまらないことだったかもしれないなと思い、まずはあなたのことを労わりたい気持ちになりました。経験談を書いてくださり、ありがとうございます。

いじめ、家族間のきょうだい差別や暴言暴力など……色々なことを経験し、そのときに解決しようとしたり人に話してみたりしたとのことで、あなたが持っている「力」を感じました。でも、何回も自分自身の気持ちを軽んじられたり、まともに話を聞いてくれなかったりすると、やっぱり人間不信になる人も当然いるだろうな…と私は思います。

いじめられること、性加害されること…そういったことの原因は被害者にあると言う人も時にはいるかもしれませんが、私は被害者に原因があるとは思っていません。「被害者に原因はない」と言う人は案外いるんじゃないかと、私は思っています(というか、いてほしいです)。あなたが明るい性格になった今の学校にも、そういう人はいるのかもしれない(というかいてほしい)なぁ…とふと思いました。
でもきっと、何回も助けてもらえなかった経験のあるあなたは「そんなこと言われても…。また傷つくの嫌だよ」と思うかもしれないなぁ…と私は考えていました。助けてほしいのに助けてもらえない苦しさは、「助けてほしいのにその期待が裏切られたしんどさ」以外にも、「自分は助けるに値しない存在なのかもしれないという苦しさ」「状況を打開する方策が1つなくなったように感じられる怖さ」といった様々な感情があるのかなと私は思っていました。

今のあなたは「人間なんて信じない!」っていう気持ちと、「人間のこと、ちょっと信じてみたいかも」「人間を信じられないのは、辛い」という気持ちの間で揺れ動いているのかなと思いました。このどちらかを絶対選ばないといけないわけではないと、私は思っています。「今は信じない!」とか、「この人のことはあんまり信じない!」っていうのも、とれる選択肢のように私には思えます。「どっちも選ぶ」っていうのが、もしかしたら今のあなたの気持ちをあなた自身が支えられる方法なのかもしれないと、私は思いました(あくまでも、私がふと思ったことですが…)。
「また死にトリに書いてみようかな」という気持ちになったら、また活用してみるのもいいんじゃないかと、私は思っています。

感想2

あなたがなんとか求めた助けに対する大人たちの言葉に、なんだかすごく、いきどおりやくやしさを感じています。勘違いかどうかとか、軟弱かどうかという判断より前に、まずあなたがたくさん苦しんできたこと、苦しんでいることが重視されるべきだったと思います。だけどそれがされなかったというのは、当然ながらあなたのせいではないと思います。それは問題をなかったことにしたり、「たいしたことではない」と片付けたらそれでおしまいにしてしまえるような世の中の問題だし、自己責任論的な風潮の問題だと思います。読みながら勝手にくやしくなってしまい、語調が強くなってしまっていたらごめんなさい。

ストーカー行為についても、あなたが安心して暮らすことを大きく阻害する加害行為だと思うのですが、そういう状況だと相談する相手もどうしていいかわからなくなりそうな中、そこでも助けが得られない(むしろ責められる)のは、あなたをさらに苦しめるものだったと思います。

「自分で調べて特定してバレないように監視していた。」といったあなたの友達がそれをどのくらいの問題と意識していたかはわからないし、あなたにとってそれがどれくらいつらいことかは知らなかったのかもしれないとも想像したのですが、それは一人一人のプライバシーが大事にされない文化ができてしまっているから起きたことなのかな…とも思いました。(いろいろと、違っていたらすみません)

その中でも、あなたは本当なら「信じたい」という気持ちがあるから葛藤しているのかなと思いました。「暴力で解決する人はもうこりごりです。」という一文には本当に賛同しますし、いじめやストーカーや、他のあらゆる、他者の人権を蔑ろにしたり、侵犯したりすることが暴力だという認識が世の中で誤解なくちゃんと広まってほしいと思いました。(そもそも「そのくらい暴力じゃない」みたいな言説もあって、その部分から変わっていってほしいと思います。)
あなたが苦しんできたことやその問題が周囲になかなか受け取ってもらえない中で、あなたがなんとか生き延びてきたことを文章にして教えてくれてありがとうございました。

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