私は、今まで様々な苦しみを経験してきた。それでも、28歳の現在に至るまで、一生懸命生きてきたつもりだ。しかし、自分がどれほど苦しい思いをしていたって、他の人には知る由もない。私が社会に出力するものだけが、私とみなされるのだ。私は未だにこのこととどう向き合えばいいのか、わからない。未だに、見えずに苦しんでいる。でも私が一生懸命生きてきたことを、誰かに知ってもらいたくて、書いてみようと思いました。
私は、現在博士課程の大学院生である。心理学を専攻している。今は研究のため北米に留学中である。私は大学院生になってから、苦しみ続けてきた。何度も鬱になった。それでも頑張ってきたのは、研究をすることで、誰かの苦しみを救いたいと思うからだ。自分の苦しみを、一般化して、誰にでもわかる形で共有して(論文にして)、それが誰かの助けになればいいと思ってやってきた。
だけど、何よりも自分が一番苦しんでいる。私は研究が得意ではないと、何年も続けてきた結果分かった。厳密なことを考えることが苦手なのだ。指導教官の指導のせいにしたり、いろいろ理由をつけてきたけど、結局は自分が悪いと思った。それでも、私はここまで続けてしまった。もう28歳である。
留学をすれば、何かが変わると思っていたのだ。甘い期待を抱いて、奇跡的に受かった奨学金を頼りにここまできた。でも、結局わかったのは、私のコミュニケーション能力のなさと、能力の低さだった。
何が間違っていたんだろう?どこで引き返すことができたのだろう。私は、成功や達成を重視しすぎていたのだと思う。
去年は本当に苦しみが大きくなり、死にたさが募り、大学のことを考えると耳鳴りがしたり、震えがしたり、もう限界だった。普段かかっていた精神科に行きつつ、実家で1ヶ月程度療養した。その後、奇跡的に受かっていたアメリカの学会の大学院生が集まるサマースクールに受かっていて、行くか迷ったけれど、何かが変わるかもしれないと思い、体調が多少回復した後無理をして一人でアメリカに向かった。そこでは、とても優しい人たちがたくさんいて、日本のように業績で人を評価したり、陰湿な雰囲気が漂うことはなく、とにかくオープンで、暖かかった。私は本当に救われたのだ。それで、海外に行こう、と決心し、また大学院に戻り、研究留学の準備を始めた。
私はそのタイミングで、カウンセリングに通うことにした。このままではいけないと思った。何かを変えなくてはいけないと思った。そうして出会った先生は、本当に良い先生だった。その人と話を重ねていくうちに、自分の中のがんのようなもののいくつかが、おぼろげに見えてきた。
まず私は、自分はダメだ、自分に能力がない、とずっと自分を責めて、そして苦しくなって、体調を崩した。それは、自分に自信がないからだと思っていた。だけどその先生は、私が自信がないからではなく、本当は自分ができるはずだ、もっと評価されるはずだ、と思っているのに、実際はうまくいかなくて、評価されなくて、期待と現実、理想と現実が噛み合わなくて、苦しくなっているのだと思う、と言ってくれた。本当に、その通りだと思った。その先生は、ずっと自分が考えていたことを、表現してくれた。私は自分の実態や、大きさがわからないのだ。自分がどこまでできるのか、できないのか。自分は優秀な人間なのか、そうでないのか。わからないから、大きさは膨らむしかなくて、膨らんで膨らんで、実際と噛み合わなくて、不協和音を起こしている。
もう一つは、自分の自己批判的な性格についてだった。自分は、とにかく自分を責める。小さなことだって、自分が悪かったのかな、と思ってしまう。それは、育った家庭環境が影響していると言われた。私の家庭は、居心地の良いものではなかった。私は恵まれていたと思うし、両親には本当に感謝している。不自由は、ほとんど覚えなかった。だけど、家にいるのはしんどかった。父は、機嫌の起伏が激しい人だった。機嫌の良い時は害がないのだが、機嫌が悪いといきなり怒鳴るようになり、些細なことで不機嫌を醸し出す。そうすると、家庭に緊張が走る。とにかく父を刺激しないように、というのが、残りの家族の優先事項となる。母は、ずっと我慢していた。父が怒っても、何も言えない。父は職業的にも他者を統制する必要がある職だったので、怒るときは、本当に怖くて、身が凍る思いをしていた。それは母もだった。そんな母を見ているのは、本当に辛くて、私は母を守らねばと思った。カウンセラーの方は、そういう自分に原因がないのに怒られたり不機嫌になられると、とにかく自分の落ち度を探して、自分が悪いと思うようになるのだという。不機嫌は父の問題だから私に原因はないのに、答えのない問いなのに延々と答えを探し続けるのだ。そして、自分が悪い、自分が悪いとなっていくのだという。
このようなことが相まって、私は今の状況になっているのだと、少しわかった。後者については、もう自分ではどうにもできないことだ。前者も、後者と関連していると思う。自己批判的になって、自分はダメだと思っていたけど、勉強だけは自分を救ってくれた。周りに絶対的に認められるものだった。だからどんどん、自分への期待が膨らんだ。自分の自己批判から、勉強をしている時だけは逃げられた。だから理想と現実がチグハグになっていった。たまたま気軽にやってみたシニトリサイトのつらチェックで、人生ハードモードタイプ、いつも現実と理想のギャップで苦しむというと診断され、仕事成功願望と実際の能力(世渡り力)のギャップがとても大きかったことも、驚きつつ、納得するものだった。やはり自分の死にたさは、この理想と現実、達成したいと思う気持ちと、実際の自分にできることが噛み合ってないからなのだと思った。
だから勉強で達成したくて、認められたくて、自分がいくらできなくても大学院まできてしまったのだ。いくら鬱になろうと、しんどかろうと、泣く日が続こうと、5年も大学院に居続けて、まだできる、まだできると諦めずに居てしまったのだ。諦めないこと、努力を続けることは、一般的には美徳だとされる。しかし、現実味のない目標設定や努力は、自分をしんどくさせるだけだ。魚がいくら空を飛ぼうとしたって、できないものはできないのだ。
つまらない自分語りになってしまった。自分は結局恵まれているのだ。わかっている。周りの理解がある。家族も、みんな応援してくれている。辞めたっていいよ、続けたっていいよ、あなたの好きなようにやりなさいと言ってくれている。資金だって、今は給付の奨学金と海外留学の奨学金で賄えてはいるものの、突発的に資金がいるようになったり、足りなくなったりすると、助けてくれる。友達もいい人ばかりだ。みんな、私が困ると話を聞いてくれる。だから、私はわがままなだけなのだ。私が悪いのだ。こんな悩み、自分のエゴなのだ。もういいんだ。自分のわがままなんだ。わがままな悩みなんだ。
大学院を辞めればいい。もうそれしか答えがない。と思う。わかっているのだ。もうこれ以上、自分のわがままで、周りに迷惑をかけるわけにはいかないのだ。別に、本当は自分が達成できたって、できなくたって、大切な存在であるのだ。家族も、友達も、おじいちゃんおばあちゃんも、みんな私ができるから一緒に居てくれているわけじゃない。わかっているのに、あの甘い蜜が、自分が達成した時の嬉しさが、優越感が、甘い期待や希望が、忘れられないのだ。自分は、これまでよく頑張ってきたと思う、それは間違いなくて、自信を持って言える。だから、やり方が悪いとか、もうそういう話ではないのだと思う。今までよく頑張ってきたと思う。し、周りの人も、そんな頑張りを認めてくれて、応援してくれている人は、大学院にもいた。少なからず達成できたこともあったし、喜んでくれる人もいた。
だけど、辞められない。幼稚だ、わかっている、本当はもっとどうにもならない問題で多くの人が苦しんでいる。なのに、なのに。私の自意識が、私を苦しめる。私の問題だ。わかっている。気持ち悪いと思う、ここまで言語化できるほど考えてきたことも、本当に気持ち悪いと思う。
どうすれば、この牢獄から脱出できますか。誰か、もうタオルを投げてくれませんか。もう、あなたには無理だと、思えばいいよ、私へ。あなたは頑張ったよ。もう無理しなくてもいい。だから、できることを探して。勉強だけがあなたの価値じゃない。人のために頑張らなくていい。もう、いい加減わかってほしい。
また、何かが間違っていて、考えすぎてて、繊細すぎてて、どうしようもないほどナルシストで、気持ち悪い。どうしようもない、だけど、自分はできる、誰かのためになりたい、少なからずできていた、という気持ちが自分を苦しめる。気持ち悪い。いつか、何かの形で私のこの拗らせた自意識に蹴りをつける。もう28だしできるかわからない。頑張れ、死にたさと別れよう、勇気を出そう。今よりも何かが手遅れになる前に。手遅れかもしれない。
誰かにわかって欲しくて、書きました。読んでくれて、ありがとうございました。こんな形で、誰かに聞いてもらおうとすることが何よりの自意識や、他力本願さの表れになっていて、本当に恥ずかしいです。でも、このようなサイトを開いてくださって、ありがとうございました。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
自己中でわがままな死にたさ
感想2
心の奥にあったものを、この際だから出してしまおうという強い意志とそうせざるを得なかった切迫感が混ざっているように感じながら読みました。とても苦しく葛藤している内容で、書いたあなた自身は「自己中」という言葉に代表される通り、ある種の自己嫌悪のようなものをいろいろな表現で出しているように感じたのですが、読んでいる私自身は潔さのような、素直さのようなおそらくかなり異なった印象をもって読んでいました。あなた自身はまさに自意識と戦い続けている葛藤をそのまま書いてくれたのだろうと思いますし、読んでいる私からは「なるほど、そうなのか。そういう葛藤や苦しみがあるのか」と自分の経験では想像できないことをリアルに教えてもらっている気持ちだったので、その立場や見方の違いがあるのだろうと思います。
そして、あなたの書き出してくれた葛藤はひょっとしたら、人間の悩みや苦しみの代表的な一つについて率直に自分の経験として語ってくれたのかもしれないと思いました。あなたの悩みは唯一無二であり、誰とも比較はできないと思うのですが、その葛藤のメカニズムは人の苦しみの根本の一つのように思えるのです。あなたがつらチェックをやって現実と理想のギャップというところに納得したように、普遍性がそこにあるように思いました。そうなると、なぜ人は苦しくても理想を追いかけてしまうのかという問いに私はぶつかりました。いろいろな理由や要因があると思いましたし、それは個人の考え方や価値観の問題ではないと思っています。
また、タイトルにある「自己中でわがままな死にたさ」という表現にもとても興味を持ちました。このタイトルにあなたはどんな気持ちや意味を込めたのか、このタイトルにも葛藤が凝縮してるように感じられます。自己中やわがままは一般的にはよくないもののように思われている傾向にありますが、実はとても大切な心の動きだと私は思っています。他者の権利を侵害してまで自分を中心に考えたり、自分の主張を通したりすることはよくない側面があるかもしれませんが、内心において自分中心に考えたり、わがままになるのは自分を守るために当然の思考でもあり、ある意味健康なことだろうと思うのです。しかし、他の人の権利を侵害しない範囲で自分から湧き出る願いも「自己中」とか「わがまま」のように思えてしまうのはなぜなのかと考えつつ、本当は別の表現になりそうな気がしています。
少しだけ自分の経験をお伝えすると、私は自分の選択や努力と関係なく突然、自分の生活や人生が大きく規定されるような事情に遭遇しました(具体的には生まれた子どもが重度の障がいがあるとわかり、半永久的に介護の責任が人生に当たり前についてくることになりました)。このことを経験する前は、努力すればどうにかなることの方が多いように思っていた節がありますが、実は自分の努力とか希望とは関係ないところで降ってくる事情や都合というものはたくさんある中で生きていることに気づきました。自分もそれ以外の人も誰でも自分以外の存在や環境に影響されて生きる無力な存在であることを思い知ったように感じています。そして、いろいろな人たちと出会うことで、自分ではどうにもならないものに遭遇したときに、受け止めることは簡単ではないこと、また受け入れることにはかなりの個人差があることもわかってきました。同時にそんな自分の人生を思い通りにならなかったと嘆いたり、こんなはずじゃないと悔しく思ったり、できることならあの時に戻ってやり直したいとか、もうすべてリセットしたいとか、そう考えることはとても自然なことであることもわかってきました。それらはすべて人間らしい側面だろうと思っています。ただ、そういう考えはネガティブ思考などとあまりよくないものとして扱われてしまうこともあります。とても自然な発想なのに、よくないこととして思われるのはどうしてだろうと考えています。
このように考えていくと、あなたが書いてくれたことはとても自然で真っ当な悩みであると思えるのに、どうしてここまであなたを苦しくさせるのかとその背景が気になります。私たちが知らないうちに内在化している常識や正しさの想像以上の影響力もあるのかなとも推測しています。
いろいろと感じたことをまとまりもなく思うままに書いてしまいましたが、私が一番感じたのはあなたの書いた経験談の気持ちの純度の高さだと思っています(気持ちの純度という言葉は勝手に自分でつくった表現です)。そのままの葛藤や苦しみが読み手の反応を気にしたり、よく思われたいような意図もなく、純粋に自分の気持ちをそのまま書いたという純度の高さが私の中によどみなくするすると入ってきて、文章を読んだだけですが、一人の生身の人間から何かを受け取った気持ちになったことは確かなので、お伝えしたいと思います。
その純度の高い自己表現はこれまで出会った人たちとの関わりの中で培われたものだろうと思いますし、逆に幼少期からの自己表現を抑圧されてきたところから、まさにあなた自身の意思と力で少しずつ苦しみながらも獲得したかけがえのない自己中やわがままなのではないかと私は思えました。投稿、ありがとうございます。
感想1
投稿ありがとうございます。
あなたのもがき苦しむ様子、今を投げ出したい気持ちととどまりたい気持ちとを行ったり来たりしながら、そのぐるぐるとした渦の中で八方ふさがりとなっている様子が伝わってくるようでした。同時に、読みながら私の学部生・大学院生の頃が思い出されたので、少しその話を共有させていただきつつ、感想を書かせていただこうと思います。
私は大学院に進学したのですが、今思えばそれはあなたのように「誰かの苦しみを、一般化して、誰にでもわかる形で共有して、それが誰かの助けになればいい」という動機からだったように思います。ただ私は大学院で研究をしたいとは思っておらず、論文を書くことも私にはできない(得意ではないししたいと思わない)と思っていたので、正確には進学前に指導教官にそのように言われて、それであれば進んでみようと思ったということになります。実際に大学院に進んでみるとやっぱり私は研究に向いていないと思ったので早々に私は諦めてしまったのですが、あなたは鬱になりながらも続けてきたのだな…と、勝手ながらその労苦を労いたくなりました。
あなたがそこまで研究を続けてきた背景には「誰かの苦しみを救いたい気持ち」のほかに、あなたの家庭環境から見出されたあなたの生き延びる術があるのかなと私には感じられました。「勉強だけは自分を救ってくれた。周りに絶対的に認められるものだった」「自分の自己批判から、勉強をしている時だけは逃げられた」という経験が、あなたを研究の道に突き進ませているのではないかと私には見えたのです。本来、家庭は安心していられる空間であるはず(べき)と私は考えますが、あなたにとっては緊張と守られない(母を守らなければならない)環境だったのだなと感じます。「とにかく父を刺激しないように」ということが最優先にある環境は、恵まれていようと不自由を覚えなかろうと、相当辛く、しんどい日々(空間)だっただろうと思います。カウンセラーの方が言う「自分が悪いと思うようになる」のはその通りだろうと私も思っており、あなたは理不尽な父の振る舞いが起こる理由を何とか論理的に理解できるものにして(父が不機嫌になって怒るのは私が悪いからとすれば論理的に見えますし、私がいい子になればなんとか変えられると考えることもできる)生き延びてきたのだろうと感じます。あなたが言うように、そうした生活・思考の積み重ねがあなたを「自己批判的な性格」にしたのかもしれませんが、個人的には何度も何度も「自分が悪い」とあなたは思わされてきたのであり、そうだとすると、それは果たしてあなたの「性格」と言えるのだろうかとは思いました。「自分はダメだ、自分に能力がない」と責めるという話もまた、父の不機嫌を止められない自分を責めるなどする生活があなたをそう思わせるようになっただけではないだろうかと私には見えます。あなたがあなたの人格としてそれらを理解(認知)するほど、あなたの外からやってくる出来事があなたの内面に入り込んでいるのかななどと私は考えました。
そんな風に考えながらあなたの経験談を繰り返し読むと、やはり環境の影響の大きさを思わずにいられませんでした。アメリカの学会でのことをあなたは「日本のように業績で人を評価したり、陰湿な雰囲気が漂うことはなく、とにかくオープンで、暖かかった。私は本当に救われたのだ。」と書いていますが、そのことは社会で作られている評価軸が人の過ごしやすさを左右する可能性がうかがえますし、「魚がいくら空を飛ぼうとしたって、できないものはできないのだ」という話は(その例えは秀逸だなと個人的には感じました)「魚が過ごしやすい川や海があれば(空を飛ばなくても、あるいは空を飛ぶかのように)水の中で泳いでいられるのに」と私には感じられ、空を飛ぶように(飛ばないと認められないぞ)と促す社会(環境)でなく、多様な場が当たり前に認められていれば全然違うのだろうなと考えさせられました。でもあなたはきっと「空を飛ぶように」という社会の要請と、そこでこそ認められる=「成功と達成」の「甘い蜜」を理想とし、現実との違いに苦しんでいるのかなと感じます。ただそのこともまたあなた個人の問題というよりも、社会に改善の余地があるのではないかなと私としては考えてしまいます。理想は容易に社会によって形作られていきますし、現実は環境に大きく左右されるということがあると私は思うので、あなたをそのように誘う画一的な社会と環境を問いたいなと私は思います。
その意味では、あなたの苦しみはもっと社会に開かれてもいいのかもしれないと感じました。社会に開かれるというのは、苦しみが社会に起因しているかもしれないと考えるということです。「私が社会に出力するものだけが、私とみなされるのだ」とあるように、社会にみなされるあなたと本来のあなたとは必ずしも一致しないのに、目に見える部分だけでなく心(の傷)や家庭(という外からは見えづらい)環境にこそ目が向けられる必要があるはずなのに、目に見える部分でしか評価も認識もされてこなかったという経験・思いがあなたにはあるのかなと想像します(そのことを歯がゆくも思います)。そういった現実と思いがあって、心理学を専攻する道に進んだのかなとも想像しています。そうだとすると、大学院での研究を続けるにしてもやめるにしても、心理学で学んできたものを社会の問題として考え、可視化する(社会モデルとよく言われるかと思いますが)ことが、あなたの望む(論文でなくても)「誰にでもわかる形で共有」するということにつながっていくこともあるかもしれないと私は感じました。それを「人のため」にやる必要はおそらくなく、あなたのために、必要であれば、でいいのだろうと私は思います。なぜなら、あなたも誰かにとっての「人」であり、あなたの苦しみはあなただけのものではないと考えられるためです(少なくとも私はそう考えます)。「社会に出力するものだけ」が社会にあるのではなく、見られていないだけ、聞かれていないだけだと思う私は、あなたの声をここで見られ、聞くことができたことをありがたく思います。改めて、言葉にしてくれて、ここに書いてくれてありがとうございました。