経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

疲れた。何に疲れたのかももうわからない

今全てに疲れました。物心着いた時には既に不仲の両親。悪いのは父親です。子供より子供だった。ゲームは自分が1番先にやらないと気が済まない。子供たちはゲームしてるのを黙って見ていなくてはいけなかった。煙草を常に吸っているから部屋は真っ白、そんな部屋にただ無表情で。食後のテレビもそうだった。当時は夜7時~9時くらいまでアニメ放送があったが気まぐれにしか見せてもらえなかった。つまらない野球中継をゲームの時と同じく、煙草の煙が充満したリビングにいないと父は不機嫌になった。それに加えて夜はお酒も飲んでいた父はただ黙って人形のように座っている私と弟、選ぶ基準はわからなかったがどちらかを呼び、氷を持ってこい。酒を持ってこいと命令した。母は家事をこなしている最中だったし、弟は父が今日はの対象だったので嫌がった。仕方なく私が立ち上がり氷を持って行ったり母に酒を貰いに行った。それをいい事に弟は私を置いて先に部屋に戻るようになった。父と母をリビングに二人にするわけにもいかず私はずっとリビングに座っていた。煙草の煙で頭が痛くても具合が悪くても、酔った父はよく物に当たり散らすことがあったので、母を守らねばと幼心に思っていた。引き出しを引き抜いて投げつける。テーブルをひっくり返す。炊飯器もコンセントがついていようと投げつけそのまま放置。怒って家から出ていくでもなく、襖1枚隔てただけの寝室へ行く父に、怒るならご自慢の車でどこかへ行ってくれればいいのに。運悪く死んでくれても構わないとさえ思っていた。母は絨毯に零れた醤油を拭く。泣きながら。父は短気で仕事をすぐ辞めてくるので収入は少なく、仕事を辞めても酒も煙草も減らすことすらしない。お金がないことを知っていたはずなのに車は勝手に乗り換えてくる。子供が届かないような車高の高い車を買ってきた時は流石に呆れた。確か私が小学3年になる頃には母がパートに出るようになった。それでもそれに胡座をかく父のせいでちっとも生活が楽になることはなかった。可愛いノートも買ってもらえない。当時出始めたシャープペンシルはやっと1本買ってもらえたけれど。それ以外はなにもねだれなかった。誕生日やクリスマスにだって欲しいものは買ってもらえない。父方の祖父母が買ってくれたけれどクリスマスと誕生日が近い私はいつもクリスマスと一緒。母は上手くやりくりして欲しいと言っていた物に似た安い玩具を枕サンタのふりをして元に置いてくれた。それでも嬉しかった。でも本当に欲しかったものはドラマで見るような普通の家庭だった。お友達が自慢してくるような、家族で会話がある生活。裕福でなくても良い。父とのただのドライブすら苦痛になるような奴隷のようなこの家庭から開放されること。旅行に連れて行ってもらっても特に何かしてくれるわけでもないので苦痛でしかなかった。乳の顔色を伺う人生が終わったのは私が中学3年の時だった。このままでは高校に行かせられないと母が離婚を切り出した。父は拒否した。それでも母は絶対に離婚すると決意していたらしい。父の最後の姿は離婚が決まりどちらについていくか父に選択を迫られた時、母についていくと弟と私が言った時の驚いた顔。俺についてこないならもう父親じゃないからな!と怒鳴ったが、父親のつもりだったのだな、と思った。家計が厳しいことを察して、夕飯に何が食べたいか聞く母に食べたいものが言えないようなあの生活のせいで今でも私は自分の欲しいものがわからない。そんな環境にしたのは父なのに、自分の非は一切認めずに去っていった。あんなのが父親なのだ。戸籍上父であるから、私が精神疾患で働けなくなり生活保護を受ける際連絡が行ってしまった。役所の人には説明をしたけれど、家族が支えあってそれでも生活ができない人の為の制度だからと言われ、一時は諦めた。それでも生きることすら難しくなり再度相談に行った。父が恐い。住所を知られたくない。父に連絡したところで無駄だ。養育費すら払わなかった人。家庭裁判所でさてあれは無理だと言わせた人だ。それでも規則だからと連絡された。案の定支援は出来ないと連絡が来てホッとした。でも住んでいる地域は知られたので迂闊に外に出て待ち伏せされているのではないかと不安で更に病気が悪化した。これから先、私になにかある度にあの男には連絡が行くのだと思うと絶望しかない。遺伝子的に父親であっても私が生まれて育って来た過程に父親なんていなかったのに。医者が言う日は抑圧された幼少期、人格形成の大事な時期であったので貴方は一生精神障がいが治らないと言われた。何色が欲しい?という質問に答えられない。どちらの色がいい?という質問には答えられるようにはなっても、何がいい?には答えられない。37歳にもなってだ。あの頃のあの男と年齢的が近くなった今でもずっと普通とは何かがわからない。家庭を持つことも難しいだろう。だって普通の家庭ってどんなものなのかわからないのだから。意思を尊重し合うことができない。あいてを村長しすぎて自分が疎かになる。そんなのあの男との生活と何ら変わりはない。
この間37歳になった。母ももう70歳をこえた。早く普通にならなければ。そう想えば思う程苦しくてたまらない。人が恐い。作出され続けるのではと思うと友達ですら会うのは億劫だ。私はずっと1人なんだと思うと生きているのももつ辛い。誰か一緒にいてほしい。歩幅の狭い私の手を引いてくれる人がそばにほしい。本当は死にたくなんかない。でも1人はさみしい。

感想1

「何に疲れたのかももうわからない」というタイトルから、そして文章の内容から、投稿者さんが育った家の中で安心して暮らすことが難しかったこと、否応なしにやらなければいけないことがあって、自由が得られなかったこと、そして、状況が変化しても苦しさが残り続けていることを受け取りました。
母親さんが苦しんでいることを感じ取り、「守らねば」という思いがあったからこそ、「私を置いて先に部屋に戻るようになった」という弟さんのようにはその場を離れることもむずかしかったのだと思います。

文章の中に両親と弟、そして投稿者さんの他には、あまり登場人物がいないことが少し気になりました。核家族のような形は現代日本では一般的なのだろうと思いますが、少ない人数でやるべきことをすべてやらなければいけないとなると、苦しい場面もありそうですし、性質が合わなかったり、うまく折り合いがつかない状況になったりしたときに逃げ場がなくなってしまうのではないかと思います。(もちろん、周囲の目が強くある状況が必ずしもいいとも限らないとは思うのですが)
子どもが安全を失いながら母を守ろうとしなければいけないような状況にならないためには、周りにどんな人やもの、施設や制度などがあればよかったのだろう、と思いました。
同時に、父親さんが、書かれているような暴力的な関わりをしないでも生活できるためにも、なにか安全に関われる大人、あるいは制度や文化などが必要だったのかもしれないと、勝手ながら想像しました。

また、その後の生活保護を受ける際に連絡が行ってしまったということについては、疑問を感じました。生活保護の制度は、人が健全に暮らせるようにするための制度であるはずなのに、運用上、それを脅かすことが起きてしまうのはおかしなことのように思います。

「早く普通にならなければ」という言葉は、「普通」という基準(「普通」というものが本当にあるのか、私にはよくわからないですが)の他に、投稿者さんがなにを基準にしていいのかわからないと感じているということなのかなと思いました。自分にとって何がいいか伝えることや、想像することも許されない状況があったのだと思います。その中で自分にもそれがわからなくなったとしても、無理もないことだと感じました。でも、もしかすると、「どちらの色がいいか」という2択でも、くりかえしていけば、少しずつ、自分が好きなもの、比較的落ち着けるもの、ちょっと楽なこと…などが見つかってくることもあるのかなと想像しました。
投稿者さんがこの経験談を投稿してくださったことも、おそらくは投稿者さんの意識的、あるいは無意識的な選択の結果だと思います。それによって、文章を介した形ではありますが、投稿者さんと関わることができたことをうれしく思います。

感想2

「何に疲れたのかももうわからない」とのこと。あえて言葉にするのであれば「生きてきたことに疲れた」という意味かなと私は受け止めました。「○○だから疲れた」という1つの要因があって疲れたのではなく、『(○○+○○+○○+○○・・・)×○〇年=生きてきたことに疲れた』という方程式が浮かびました。投稿者さんの幼少期の家庭の様子を含み、このサイトの経験談を読んでいると、『人の精神を壊し、人から生きる力を奪う子育ての方法』という本があってもおかしくないだろうと思ったりしています。
投稿者さんの場合、十分に分析や整理がなされている印象を受けましたが、私なりに考えてみると『父親が心地よく過ごせるように子が親に気を配る』という構図があったし、『母親や弟が、(最悪ながらも少しでも)心地よくいられるように投稿者さんが気を配る日々』だったのだろうと想像しました。もっといえば、弟は要領がよく、母親は投稿者さんを守り切れなかった。それぞれに自分を守ろうとした行為であろうし、事情があるはずなので、第3者が断言はできないものの、私はそんな風に感じてしまいました。家庭の中は、1番優しい人が色々なことを背負ってしまうことがありますね。
精神科の先生から「抑圧された幼少期を過ごしているので精神障がいは一生治らない」という趣旨の言葉があったのですね。もし、私だったら「で?状況の分析はわかったけれど、これから私はどうしたらいいの?」という気持ちになると思いました。投稿者さんは、そばにいてくれる人が必要と感じているのですね、その相手は、歩幅の狭い自分の手を引いてくれる人なのですね。自分に必要なことを言葉にしていると感じました。幼い投稿者さんも、(言葉にはできなかったかもしれませんが)進むべき道に手を引いてそばにいてくれる相手を切望していただろうと想像します。
誰かの暴力や圧力で精神を壊され、生きる気力を奪われた人が回復していくためにはどんなことが必要なのか、どうしてそうなったのか、だけではなく、そのあと進むべき道や方法をこのサイトで出会ったみなさんと考えていきたいという気持ちになりました。投稿者さんのこれからの人生にどんな景色が待っているのか関心があります。

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