経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

サンドバッグちゃん

子供の頃のことを思い返しては死にたくなります。

私は小学校に上がるまでは母親と祖母と一緒に暮らしていました。料理や掃除などはみんなでやり、母親は忙しくて時々私に理不尽なことを言うこともあったけれどそれなりに愛されていたと思います。小学校に入学した頃から「父親」が現れ私と母とは祖母の家を出て3人暮らしになりました。父親はろくに挨拶も家の手伝いもせず、私や母親のお菓子やアイス、おかず等を食い散らかし、寝転がってゲームして、母親に対し本当に酷いことを言ったり殴ったりしていました。毎晩のように両親は喧嘩をしていて、母親はそのストレスを私にぶつけたり家出をしたりするようになりました。夜には私の隣で性行為をして(意味が分かってなくても恐怖を感じました。なんででしょうね)、朝目を覚ました私が母親に抱き着くと父親が場所を譲らず酷く悲しくやりきれない気持ちになったのを覚えています。そのうち父親は私を殴ったり蹴ったりするようにもなり、母親も一度だけ私のお腹を殴りましたが、それでも家庭の比較対象など無いのでおかしいと感じることはありませんでした。中学に上がると父親とは一切口をきかないようになり、母親は八つ当たりをやめませんでした。中学の部活でもいじめまがいの行為を受け、マンションの屋上から飛び降りようとして柵を登ったこともありました。包丁をお腹に突き付けたこともありました。大学に上がってからは家から離れられた喜びで一杯で、家庭も少しずつ表面上は落ち着いているようでした。でも、今の家の平和は本来子供の頃に私が享受すべきものだったのではないか、というふうな気持ちが出てきました。父親は母親を怒鳴りつけ、母親は私を怒鳴ったり故意に傷つけるようなことをしたりして、私は家のサンドバッグだったんじゃないかという考えが頭から離れなくなりました。いまだに父親は母親に酷いことを平気で言うことがあり、その場に居合わせると心臓がばくばくします。今家族が享受している幸せは本来は私のものだったのにと思ってしまいます。何度もこういう思考や過去を反芻することで傷ついて、リストカットがやめられなくなりました。母親は私の元気のない様子やおかしい様子に気づいて声をかけてくれますが、結局は自分の話にすり替えて「そういうことはよくある、私もそういう時期があった」「あなたは大丈夫」という結論にしてしまいます。リストカットの傷跡はそういう無責任な「大丈夫」を否定してくれるからとても好きです。大好きです。一生治らなくていいと心から思います。でも時々そういう風に感じることがとても悲しくなります。他人の家族の話や家族観、恋愛観を聞くとなんだか別世界のことみたいに感じます。羨ましいとかでさえなく、知らない言葉を聞いてるみたいです。でも、こんな家の中でも妹は唯一まともで、優しくて頭がよくてしっかりしていて、私がダメなんだということが分かってしまいます。妹は家の中が一番ひどい時期にはまだ生まれてなかったこともありますが、それにしても私がおかしいのは私自身にも原因があるのは確かです。時々発作的に誰かに愛してほしかった、手を繋いでほしかった、という気持ちが出てきて頭の中がぐちゃぐちゃになります。今すぐに死んでしまって、私が生きていたことすら全部無くなればいいのにと毎日毎日思います。

感想1

貴重な経験談を投稿してくださってありがとうございます。

「父親」が現れてから、あなたの周りの出来事が、あなたの望みや意思とは関係なく繰り広げられて、力が及ばない様子だと感じました。悲しくてやりきれない気持ちを、どこにも表現することさえできなかったのかなと思います。
昔はそれなりに母や祖母から愛されていると感じていたけど、それも怪しく感じるようになったのかなと想像しました。

祖母の家にいたときは、「暮らしている」「生活している」という印象でしたが、父親と住み始めてからは、なんとか「過ごし」てはいるけど「暮らし」「生活」をしているどころではないような印象を持ちました。「父親」の言動は、あなたの「暮らし」「生活」を妨害しすぎだ、と率直に感じました。
現在のあなたは、どんな暮らし(生活)をしているのだろう…と気になりました。また、今の暮らし(生活)のなかで、分からないことなどを聞ける人や手段はあるのだろうか、と思いました。

自分を殺してしまいそうな行動を取ったのは、もはやあなたの意思というより、気づいたらそうなっていた、という感じだったのかなと想像しました。
無責任な「大丈夫」を否定するのは、リストカットそのものの力というより、あなた自身の力(リストカットという手段を活用して)なのかなと私は思いました。無責任な「大丈夫」を否定するほどまともな感覚を持って生きているあなたが「私がダメなんだ」と思わざるを得ないことは、過去を考慮すれば自然な感情だろうと思いつつ、心苦しくなりました。

生きていたことすら全部なくなればいいのに、と思うことは、おかしくないと私は思います。
自分の気持ちを表現するなんて、あなたにとっては不自然なこと、おかしいことだと感じるのかもしれませんが、これまで気持ちを表現する(そうしても危険な目にあわない)機会があまり得られなかったのかなと思うので、表現できる場を一緒につくれたら嬉しいなと思いました。

感想2

 経験談を最後まで読ませていただいて、私の頭に最初に浮かんできたのは、「死にたい気持ちになるのも自然な経験だ」ということでした。突然現れた「父親」と同時に突然家庭内に理不尽な暴力も現れ、守って欲しかったであろう母親までもが怖い存在に変わっていくのですから、投稿者さんからすると幸せを奪われた・壊されたと感じるのではないかと想像しました。また、その環境にいるだけでも常にびくびくしながら人の顔色を見て生活しなければならなかったのではないかとも想像しました。理不尽な暴力が、家庭の中で男性から女性、大人から子どもへと向けられていく支配の構図に、「家族」とはなんのためにあるのか、子どもに選択の余地がなくただただ暴力の中にいるしかない現実にも私は理不尽さと憤りを感じました。

 そして、私は投稿者さんの「リストカットの傷跡はそういう無責任な「大丈夫」を否定してくれる」という言葉に同意するとともに、時々とても悲しくなるのは、無責任を否定する方法がリストカットしかないからなのか、自分にとっては辛さや沢山の気持ちを我慢してきた軌跡が詰まった傷跡だけどそれを母親や他者に理解してもらえないからなのか、大人の無責任が変わらないからなのか、どんな悲しさなのか聴いてみたくなりました。

 どうして家庭の中で子どもがサンドバックのように理不尽な暴力にさらされなければならないのか、家庭の中で起こっていることは「家族の問題」とされがちですが、家庭も社会の中にあり大人も子どもも一人一人が社会の一員なので、私は社会の問題であると思っています。今回こうして経験談を投稿してくださったことで私も考える機会をいただきました。ありがとうございます。投稿者さんにとって経験談を書いたことや投稿したことが嫌な経験でなければ、また死にトリに声を寄せていただけたらと思います。

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